2008年8月18日月曜日

畏怖と敬意

聖書は、一人ひとりの信者が養わなければならない、主の畏れがあると明確に示しています。真の神様に対する畏れは、畏怖と敬意を含みますが、それよりももっと深いものです。ダビデはこう記しています。「神に逆らう者に罪が語りかけるのが、わたしの心の奥に聞こえる。彼の前に、神への恐れはない。」(詩篇36:1)ダビデは、「誰かが罪におぼれるのを見るとき、私の心は、その人の内に神に対する恐れがないことを知らせてくれます。その人は、罪に関する真実や、神様が私たちを聖さへと召されていることを認めていないのです」と言っているのです。

事実、信仰に満ちた畏れは、邪悪な時代にあって、私たちに勝利を維持する力を与えてくれます。ではどうやって、この畏れを手に入れることが出来るのでしょうか。エレミヤは、神様からの御言葉によって、こう答えてくれます。「わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする。」(エレミヤ書32:39~40)

これは、主からの素晴らしい約束です。神様が、私たちに聖い畏れを与えると、保証して下さっているのです。神様はこの畏れを、超自然的な閃光として、ただ私たちの心に入れ込まれる訳ではありません。神様は御自身の御言葉を通して、この畏れを私たちの内に入れられるのです。

では、ただ聖書を読むだけで、神様の畏れが私たちの内に植えられるということでしょうか。そうではありません。それは私たちが、神様の御言葉一つひとつに従おうという決断を、意識的に行う時に与えられます。聖書はこれを証明しています。エズラにどうやって、神様に対する畏れが与えられたかが記されています。「エズラは主の律法を研究して実行し、イスラエルに掟と法を教えることに専念した。」(エズラ記7:10)

神様に対する畏れは、旧約聖書だけの概念ではありません。それは旧約・新約両聖書を通して見ることが出来ます。旧約聖書は、「主を畏れ、悪を避けよ」(箴言3:7)と語っています。同様に、新約聖書もこう記しています、「彼らの目には神への畏れがない。」(ローマ人への手紙3:18)さらにパウロはこう言っています、「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(第二コリント人への手紙7:1)