2011年1月11日火曜日

主は我が牧者であって

わたし達は詩篇23篇に馴染んでいます。この詩はクリスチャンでない人の間でもよく知られています。この詩篇はダビデ王によって書かれ、かの有名な詩篇はこの句で始まっています。「主は我が牧者であって、わたしに乏しき事がない。」

ダビデは乏しいことないとしています。言い換えれば、「わたしには不足なことはない。」と言っています。続く言葉から考えれば、ダビデは「主はわたしを導き、養う。故に私は足りないものがない。」と言っています。

この短い文の中に、ダビデはもう一つ主のご性質について述べています。文にはJe-HO-va-RO’-eeと始まっています。それは「主は我が牧者」という意味です。

Jehovah Rohiはただ親切、消極的な牧者を意味していません。そして、ただの雇われ人でもありません。ただの雇われ人は最小限のこと、食べさせ目的地に行かせる だけです。しかし、神は牧場と水飲み場にわたし達を連れて行き「必要なのは与えただろう。これでいいだろう。」とは言いません。そうではありません。神は 私達の忍耐、涙を知っています。神は耐え抜く気力が失っていくのも知っています。彼はあなたがどこで諦めるかを知っています。そして、神はわたし達を何時 救い、癒すべきかを知っています。神はいつも私達を危機から救い、休ませます。神は、休息と癒しの時を与えて下さいます。

Jehovah Rohi-主は我が牧者という神の名は私達が神の安息に導かれるとしています。そして神は私達に「shekinah」-であることが出来るのです。主なる 神は出エジプト書29:45でこう仰っています。「わたしはイスラエルの人々のうちに住んで、彼らの神となるであろう。」ここで「住む」はヘブル語の単語 で「shekinah」が使われています。その意味は「横で繋がっている」または「側面に落ち着く」です。この単語がここで使われているのは一過性ではな く永続-離れない臨在-することを強調したいがためです。ですから、神の「shekinah」なる栄光は見えない墨で書かれたのではありませんので心から 消えません。返って神が私達の魂に判印したものは永久のものです。それは私達の近くにあるものです。

それは栄光に満ちたものです。私達の牧者は私達の痛みは欝とした状況でも来て、私達の側に掛けて下さいます。神はまた私達の傷を塞ぎ、病んで痛んでる処を強めて下さいます。

これが「shekinah」なる神の栄光です。主の永久(とわ)の栄光です。それを私達の試練の時にしばしば体験します。私達の偉大なる牧者は語り ます。「わたしはあなたを修復し、あなたと例え死と影の谷であっても共にいる。我が臨在はサタンの計略のなかでもあなたと共にいる。もしあなたがわたしよ り逃げて行ったとしても、あなたを追って行く。そして、あなたを捕らえたら、私はあなたを両手で抱き上げ、神の安息に入るべくあなたを運ぶ。そしてわたし はあなたの傷を塞ぎ、あなたの全ての病は癒されえる。」