2011年1月6日木曜日

私たちには希望があります

キリストの義がある人は、希望がない人々のように生きてはいけません。私達は神への畏れと愛両方に祝福されています。神の御旨は暗闇にあっても私達 が喜びと嬉しさを得ることです。私達の周りが災難に会うとしても、私達は、裁きが来たからではなく、裁きに関わらず喜びの歌を歌います。

イザヤ書5:11は英文では「Therefore」と始まっている。それは「前に述べた理由によって」の意味です。その前に神は何を言ったでしょう か。「51:10 海をかわかし、大いなる淵の水をかわかし、また海の深き所を、あがなわれた者の過ぎる道とされたのは、あなたではなかったか。」言い換えれば「私は主、時 の古、奇跡を行うもの。我が手は汝を救う」と意味します。

そして神は51:11で前に述べた事実によって何を言いたかったのでしょうか。

• 主にあがなわれた者は、歌うたいつつ、シオンに帰ってきて、――その意味は信頼と信仰と神に対する自負心を持った

• 「そのこうべに、とこしえの喜びをいただき」神の民が体験する喜びは礼拝・日曜の朝/一週間/一ヶ月に限られるものではありません。それは苦しい時を堪える、最後まで残るものです。

• 「彼らは喜びと楽しみとを得」神は時の中で仰います。「わたしの民は喜びをえて、それを保ち、彼らのものとなる。」

• 悲しみと嘆きとは逃げ去る。-この意味はすべの苦しみが去ることを意味しません。これは主にあるわたし達の信頼が全ての苦しみと悲しみを超えうることを意味します。悲しみと苦しみとかは決してわたし達の喜びと楽しみを取り去ることは出来ません。