2009年11月17日火曜日

聖霊が注がれる時

預言者イザヤは、聖霊が人々の上に注がれる時何が起こるかを説明しています。「ついに、我々の上に、霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり、園は森と見なされる。」(イザヤ書3215

イ ザヤが語っているのはこういうことです。「聖霊が下る時、かつて不毛であった荒地は収穫の畑となる。枯れきっていた一画が、突然実りで溢れる。そしてそれ は一時だけの収穫ではない。その収穫の畑は森へと成長する。あなた方は毎年その森から収穫を採ることが出来、その収穫を増やし続けていくことが出来る。」

さらにイザヤはこう続けています。「そのとき、荒れ野の公平が宿り、園に正義が住まう。」(3216)預言者が言うに、聖霊は罪に対する裁きのメッセージをももたらします。そしてこのメッセージは、人々の内に正義を生むのです。

イザヤは、人々が「リバイバル」と呼ぶ、単発的な聖霊の注ぎを語っているのではありません。イザヤが語っているのは、継続的なもののことです。クリスチャンの社会学者らが行った研究によると、近年のリバイバルのほとんどは平均約5年 で、活気付いていた状態から混乱と意見の衝突の内に去っていってしまうそうです。私はいわゆるリバイバルを経験した教会が、今となっては、ほんの数年のう ちに聖霊の面影を失ってしまったのを知っています。それらの教会は乾ききり、空虚で、死んでいるかのようです。かつては千人もの信者が集った会堂が、今で はたった50人が集うのみで、まるでうつろな墓のようです。

イザヤはこう続けています。「正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である。わが民は平和の住みか、安らかな宿、憂いなき休息の場所に住まう。」(イザヤ書321718

正 義が働いているからこそ、平安があります。聖霊はすべての不安、混乱、非難を払い除けるのに大忙しです。その後に続くのは、平和な心、平安な家庭、神の教 会での平安です。そして神の民がキリストの平安にある時、彼らはたいがいのことでは動揺しなくなります。「しかし、森には雹が降る。町は大いに辱められ る。すべての水のほとりに種を蒔き、牛やろばを自由に放つあなたたちは、なんと幸いなことか。」(321920

イ ザヤの聖霊に関する預言は、ウジヤの治世にあるイスラエルに向けて語られたものでした。しかしこの同じ預言は、今日の神の民にも当てはまります。これは二 重の預言と言われているものです。実際、どの世代も聖霊の注ぎが必要です。そして今日の教会は、聖霊が本当に成し遂げようとされていることと比べれば、ま だ何も見ていないのです。