2009年11月3日火曜日

どんな状況でも

パウロはローマで裁判にかけられるにあたり、ひどい状況下に置かれていました。(フィリピ人への手紙11314参照)常時兵士によって監禁され、彼の足は右と左にいる兵士にそれぞれつながれていたのです。彼らは粗野で、頑なで、言葉遣いもひどいものでした。また彼らにとっては、牢屋に入れられている者は全員罪を犯した犯罪者で、パウロもその内の一人と思われていました。

パ ウロが受けた侮辱の数々を想像してみて下さい。一人の時間は全くなく、自由な時間はなかったのです。友人からの面会はいつも、パウロの会話をあざ笑う兵士 達によって厳しく監視されていました。この様な仕打ちを受ければ、いかに神の人であったとしても、パウロの威厳が完全にはがされてしまったとしても、不思 議ではありません。

考 えてみて下さい。パウロは非常に活動的で、どこまでも続く道や、荒れ狂う海を旅しては、神様にある人々に出会い、交わりを持つことが大好きでした。そして 彼の一番の喜びは、その地方のいたる所で彼が開拓した教会を訪れることです。ところが今では鎖につながれ、世界でも最も冷酷で、神を冒涜する人達に縛り付 けられているのです。

パ ウロには二つの選択肢がありました。陰気で不機嫌な気分に陥り、「何故私が。」という身勝手な質問を繰り返すことも出来ました。絶望のどん底に閉じこも り、「私はここで完全に縛られ、ミニストリーも出来ずにいる、他の人は魂の収穫を楽しんでいるのに。どうして。」と、絶望的なうつ状態に自分を追い込むこ とも出来ました。

し かしパウロは代わりに、「どうやったら、現状でキリストの栄光を表すことが出来るだろう。どうやったら、この試練を通して何か素晴らしい良きことが起こさ れるだろう。」と考えることを選びました。この神様の僕は、「私には、現状を変えることは出来ない。ここで死んでしまうことだって、十分あり得る。でも、 私の行く道は神様によって整えられていることを知っている。だから、私はキリストを掲げ、鎖につながれながらでも世界に対して証しとなろう。」と決心した のです。「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」(フィリピ人への手紙120

パ ウロのこの姿勢は、心配や不幸などの暗い穴から、私たちが抜け出す唯一の方法を示しています。苦しみから解放されることを不安の中で待ち、私たちの将来を 無駄に過ごすことは可能です。もしそれが私たちのねらいとなるなら、私たちは試練にあっても自由であるという喜びと奇跡というものを完全に見逃してしまい ます。

パウロのこの言葉を考えてみて下さい、「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知って欲しい。」(フィリピ人への手紙112)パウロは言っています、「私のことを気の毒に思ったり、私が将来のことを思って落胆していると思ったりしないで下さい。また、私の役目は終わったなどと思わないで下さい。確かに私は鎖につながれ苦しんでいますが、このすべてにおいて福音は述べ伝えられているのです。