2009年10月30日金曜日

主にあって喜ぶ

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(フィリピ人への手紙 4:4)これは、パウロがフィリピ人に対して書いた手紙の結びの部分 です。彼は、「私は今捕らわれの身で、つながれている鎖は祝福です。この痛みは素晴らしい。」と言っているのではありません。私が思うに、パウロは釈放さ れるように日々祈り、何とかその苦しみを耐えられるように強さを求めていたことでしょう。イエス様でさえ、その苦しみと試練の時に、父に向かってこう叫ば れました、「なぜわたしを見捨てられたのですか。」私たちも、苦悩にあって最初に叫ぶのは、「なぜですか」という言葉です。そして主はその叫びに対して、 忍耐強くいて下さいます。

しかし同時に、神様は私たちの「もしも」とか「どうして」という質問に御言葉によって答えられるよう、私たちに 備えを与えて下さっています。パウロはこう記しています「わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知っているので(中略)わたしはそれを喜んでい ます。これからも喜びます。」(フィリピ人への手紙 1:16~18)パウロが言わんとしていることは、「私がこの困難にどうやって対処するかによって、 神様の御言葉が証明されると信じています。だから、私は福音に泥を塗ったり、それが無力だと思わせたりしないと心に決めたのです。」

「実 際、私の平然とした表情や、こんな状況にあっても平安に満ちていることで、キリストが述べ伝えられるのです。私を見るすべての人が、私の語る福音こそが、 降りかかる困難の中で私を導いて下さっているのだと知っています。それが、神様は誰でも、たとえ火の中、水の中を通るような状況であったとしても、その人 を導き出し、神様の福音がその経験を通して伝えられるという証しとなるのです。」

パウロとアブラハムを通して語られているメッセージ、そ れは「私たちは神様に対して、何か偉大なことをする必要はない」ということです。私たちに委ねられていること、それは私たちの人生を神様の御手に委ねて、 神様が私たちを養って下さると信じきることです。もし私たちがそれを行うなら、たとえ私たちがどんな状況下にあっても、神様の福音は述べ伝えられます。そ して特に私たちが困難にある時にこそ、キリストが私たちを通して明らかにされるのです。

私たちの教会の長老であるサムという方が、私にあ る時こう語ってくれました。「ディビッド牧師、あなたが困難に立ち向かう姿が、私には証しとなっています。」ただサムが気付いていないのは、彼の人生は私 にとって説教(メッセージ)となっているということです。彼は慢性の痛みを抱えており、毎晩数時間ずつしか眠れないような状況にあります。絶えず続く、激 しい痛みがあるにも関わらず、彼の主に対する献身的な態度は、私たち皆にとっての証しとなっています。彼の人生そのものが、パウロの説教と同じくらい強 く、キリストを述べ伝えています。

あなたが今通っている試練の中で、キリストは述べ伝えられているでしょうか。あなたの家族はあなたの中 に福音が働くのを見ることが出来ているでしょうか。それとも、あなたがパニックを起こしたり、絶望したり、神様の守りを疑ったりするのを見ているでしょう か。あなたはどうやって、降りかかる困難に立ち向かっているでしょうか。