2009年4月14日火曜日

旅路の力

この世の何者も働きであなたを代える者はありません。もしかしてあなたは神学校の卒業証書があって、司教に、または教団に任命されて働きをしているかも知れません。しかし、使徒パウロは働きへの源をこう言っています。「わたしは、自分を強くして下さったわたしたちの主キリスト・イエスに感謝する。主はわたしを忠実な者と見て、この務に任じて下さったのである。」(1テモテ1:12

ここでパウロが「イエス様が自分を忠実なものと見て、その務に任じて」言っているのはどう言う意味でしょうか。使徒パウロの改宗の時、事件の三日後、キリストはパウロを務め-苦しみの働きに任じました。「わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」(使徒9:16)パウロがコリント人への手紙で言っているのはまさにこのことです。「このようにわたしたちは、あわれみを受けてこの務についているのだから、落胆せずに、」(2コリント4:1) かれは多くの苦しみを働きで受けているからこのことを言っているのです。そして私達にも同じ苦しみを受けると言っています。

パウロはイエス様がこの歩みについて約束した事があると言っています。キリストはパウロと全ての試みに共にいて、彼に忠実であると約束しています。ここで「共にいる」のギリシャ語は「継続した力の供給」と解釈されますが、そのことをパウロは宣言しています。「イエス様はこの旅路に必要な力を私に与えます。この働きに力を与え続けます。イエス様の故に私は弱くなってしまったり、諦めてしまったりしません。私は神の証人となるでしょう。」

私達の歩みで変化はつきものです。その変化は何が私達を囚えているかによって決まります。私達は自分の心を捉えているものになって行きます。私達の資質は私達の心にあるものによって影響され、変化しているのです。

私は神に霊的なものでその心と魂を満たす者を感謝します。その様な僕は彼らの眼を全て聖なる、清いものに留めています。キリストを見続け、共に時間を過ごし、礼拝し、キリストへの信仰で建てあげ続けます。聖霊はこれらの聖徒がキリストと似るものになるよう働き続けます。これらの信仰者は激しい、突然の苦しみに備えられています。怠惰な、怠け者の、祈りのない信仰者は心が溶けてしまうでしょう。彼等は恐れに押し潰されるでしょう。何故なら彼等は変えさせて下さる御霊が彼等のうちに働いてないからです。苦しい時がくれば彼等は乗り越えることが出来ないでしょう。

パウロは最後にこう締め括っています。「この務がそしりを招かないために、わたしたちはどんな事にも、人につまずきを与えないようにし、かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも、………悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。」(2コリント6:3-5 10)