2009年4月9日木曜日

委ね切る歩み

「委ねる」この単語はあなたにどんな意味を持っていますか。辞書の定義では「自分のモノを他の人に預ける」です。そうであるなら、あなたは自分に与えられたものから手を離すことになります。それは自分の持ち物、力、目標、あなたの命さえあったりします。

現代のクリスチャンは「委ねること」について色々聞きますが、本当にそれはどう言う事を意味しているのでしょうか。「委ねる歩み」とはイエス様が与え給うた命をイエス様に捧げることです。それが力、権利、道、あなたの言動を全て放棄することです。それは神が望むとおりの人生をあなたが歩むことを意味します。

イエス様も委ねた生を生きました。「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである」(ヨハネ6:38)「わたしは自分の栄光を求めてはいない。」(8:50)キリストは決して御自身では何もしませんでした。イエス様は御父の指示が無ければ何もしながったし、何も言いませんでした。「そこでイエスは言われた、「あなたがたが人の子を上げてしまった後はじめて、わたしがそういう者であること、また、わたしは自分からは何もせず、ただ父が教えて下さったままを話していたことが、わかってくるであろう。わたしをつかわされたかたは、わたしと一緒におられる。わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしているから」。(8:2829)

イエス様の完全な委ねは私達がどのように生きるべきかを示しています。あなたは「イエス様は受肉した神であり、その生はこの地に来る前に既に預けられている」というかも知れません。しかし、委ねるとはイエス様を含めて、自発的なものです。

「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである。」(ヨハネ10:1718)

イエス様がここで言っているのはこうです。「間違ってはいけません。自分をすべて委ねる行動は私が決めたからです。私は私の命を委ねる事を決めました。誰も私から私の命を取ったりしません。父は私に私の人生を捧げる特権を与えられました。父はこの杯を取るか、取るまいかは私が選ぶようしました。私が選んだのは、それは父を愛しているので、全委ねたのです。」

私達の天の父は今も同じ権:委ねる歩みを選ぶ特権を与えられました。誰もその人生を神に委ねるように強制していません。私達の主は私達の自由意志を犠牲にして、主に私達の命を捧げるようにしません。主は乳と蜜と果実が溢れる約束の地をただで与えられました。しかし、私たちは満ちる命の場所を選ばないかも知れません。

私達はキリストを全て受け入れることが出来ます。選んでキリストにあって、その言葉と導きに深く、自分が選んだたけ深くなることが出来るのです。