2009年4月1日水曜日

御旨によって守られる

ダビデは祈りました。「神よ、わたしをお守りください。わたしはあなたに寄り頼みます。」(詩篇16:1)ここでダビデが使った「守る」のヘブル語には色んな意味が含まれています。「私の周りに茨の塀、垣根を置き、わたしを守り、保ってください。私の行くも来るも、全てを見張って下さい。」と言っています。

ダビデは神が正しい者を保たれると信じ切っていました。そして聖書はダビデが真に助けられ保たれたと言っています。かの祝福された人は宣言しています。「見よ、イスラエルを守る者は/まどろむこともなく、眠ることもない。主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。」(詩篇121:47)

ここでも「守る」と訳されたヘブライ語の単語が使われています。ダビデは同じく神による垣根、守りの超自然の塀のことを言っています。彼は私達に確証して言っています。「神はその目をあなたが行くどこでもあなたに注ぎます」。

真に主はすべての処で私達と共におられます-仕事場でも、教会でも、買物の時でも。神は私達の車、バス、地下鉄でも私達と共におられます。その生活のなかで、ダビデは言っているのは、神は悪から守られます。簡単に言えば、私達の神は総て守られるとのことです。神は神の子に対すあらゆる攻撃を虚しくすると約束しています。

何度も、神様は御自身がその民の救い主であることをお示しになりました。何のためでしょう。何故、主は私達を護られる事に執着されるのでしょうか。モーセの言葉に謎の糸があります。「そして主はこのすべての定めを行えと、われわれに命じられた。これはわれわれの神、主を恐れて、つねに幸いであること、また今日のように、主がわれわれを守って命を保たせるためである。」(申命記6:24) モーセがそこで言っているのは神が定めを与え給う理由はただ一つ、彼らを保ち守られるためです。では何故そうするのでしょうか。それは神が私達を救い護られるのと同じ理由です。

神がその選民、イスラエルを保たれたすべての方法を考えてみて下さい。神は彼等をエジプトで10の災害から護り、彼等を紅海においてパラオの軍隊から救い、荒野で蛇の毒から癒されました。人達は彼等の子やその孫らに、神がどのように保たれたかを言い伝えました。「主は全ての敵から私達を救い、水と食べ物を与え、私達の服は破られなかった。神は統べてで私達を保たれる」

しかし、これだけがイスラエルの証でしょうか。この保たれ、護られた人達は荒野で死んだのではないでしょうか。モーセは言いました。「われわれをそこから導き出し、かつてわれわれの先祖に誓われた地にはいらせ、それをわれわれに賜わった。」(申命記6:23) モーセはイスラエル人に言っています。「神があなた方を鎖から導き出したすべての奇跡を考えて見なさい。それはどういう意味ですか。あなたを天地創造のそのかた、特別にあなたを印し、選んだのは何故でしょうか。何故、神はあなたを奴隷働きから解放したのでしょうか。何故、あなたは捨てられて当然なのに、あなたを祝福するのでしょうか。」

主はあなたを保つのは、主があなたをある処に導くためです。主は、全ての奇跡以上に、あなたの人生で何かを成就したいと思っています。主はイスラエルの人々を保ち、彼らの廻りに垣根を設けたのはある目的があったからです。それは彼らが有用なものとなるためです。主は彼等を約束の地、定めの所に導いたのです。