2008年12月24日水曜日

キリストを通して与えられる神の愛

ヨハネによると、神様の愛のすべてがイエス様の内に宿っているということです。ヨハネはこう記しています。「わたしたちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から受けた。」(ヨハネによる福音書1:16)ではどの様にして、私達は御父の愛を受けたのでしょう。それは、キリストの内にいることによってです。

あなたは、キリストを通して神様の愛が与えられると知ることが、なぜそんなに大切なのだろう、と思われるかも知れません。それが私達の日常生活と、どう関わりがあるのだろうか、と。

どうやって神様の愛が、私達の日々の生活に影響をもたらすのでしょうか。その答えは、キリストの内に見つけなければなりません。なぜならイエス様はすでに、御父が御子を愛された様に、私達をも愛してくださる、と語ってくださいました。ですから、御父の愛がどの様に、イエス様の生活に影響をもたらしていたか、を見れば良いということです。

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」(第一ヨハネによる手紙3:16)ここにイエス様の内にある、神様の愛の実が見られます。イエス様は御自身を、他の者のためのいけにえとして献げられたのです。この聖句の後半部分は、私達の人生における神様の愛の目的を記しています。「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」神様の愛は、私達も自分の体を生けるいけにえとして献げる様、導いておられるのです。

兄弟・姉妹のために、本当に命を捨てるということがどういうことか、考えたことがありますか。ヨハネは、異国の地において殉教者になることを、話しているのではありません。臓器提供者となることを、話している訳でもありません。また死刑囚の代わりに、刑を受けることを話している訳でもありません。キリストだけが、その様ないけにえを献げられるのです。そうではなく、兄弟・姉妹に命と希望を与えられるクリスチャンとは、死んでいる者だけです。それはこの世に、すなわち、プライドや野望等、自分に完全に死んだ僕ということです。

この“死んだ”クリスチャンは、聖霊がその人の魂の在庫確認をすることを許している人です。その人は自分の心に残っている、汚いもの、神様のものでないものを見ます。そして神様の御元に行き、「主よ、私を焼き尽くして下さい。すべて取り去って下さい」と、叫ぶのです。その人はキリストの血潮によって聖められなければ、他の兄弟・姉妹のために命を捨てることが出来ないと知っているのです。