2008年12月16日火曜日

愛と憎しみ

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」(ルカによる福音書14:26)

ギリシア語で「憎む」とは、“比較的に言って、少しの愛を注ぐ”という意味があります。イエス様は、この世のものいかなるものが、主への愛とは比較出来なくなるほど、私達にイエス様だけを絶対的に強く愛するよう、呼びかけておられるのです。

考えてみて下さい。主の麗しい臨在に入り、何も求めなくてよいことが、どういうことか、私達に想像出来るでしょうか。ただ感謝の意から主に手を差し伸べ、主から完全に愛されるということが、想像出来るでしょうか。

私達は祈りにおいて、自己中心的かつ自分勝手になってしまいました。「これを下さい、来て下さい、祝福して下さい、用いて下さい、守って下さい」等々と。これらの祈りはすべて、聖書に基づくものかも知れませんが、それでもその焦点は、私達に当てられています。主に対する働きでさえ、自分勝手なものになっています。主への働きが祝福され、自分の信仰が本物であると証明される様、望んでいるからです。主は、私達がどれほど主のために働くかより、主にあってどの様な者にされていくかに興味を抱かれています。

これを読んでいる方の中で、ミニストリーの扉が閉ざされ、心を痛めておられる方がいらっしゃるかも知れません。自分は物置にしまわれてしまった、と感じておられるかも知れません。またある方は、必要を覚えている宣教地で働くことで、さらに神様の役に立てると思っておられるかも知れません。しかし、隠れた場所で祈ることで神様に愛を示すこと程、神様の役に立つことはないと、私は思います。私達が主を求める時、また神様を知るために御言葉を探り続ける時、私達は一番役に立っているのです。どんな働きをするよりも、ただ神様と二人っきりで交わることが、神様を祝福し喜ばせます。神様が私達に働きを委ねようとされる時は、それが近くであっても遠くであっても、神様との交わりから自然に生まれます。神様にとって、私達が世界を勝ち得るよりも、私達自身の心が完全に神様に向けられていることの方が、もっと大切なのです。

魂を得る働きを見下している訳ではなく、すべての霊的に祝福された宣教は、神様との交わりから生まれると、言いたいのです。常に祈りにあって主と共にいる証し者は、知恵と、絶好の機会と、神様の御心を行うための力が与えられています。