2008年5月21日水曜日

信仰における究極の試練

私たち一人ひとりの人生において、そして各教会の歩みにおいて、神様が私たちに信仰上で究極の試練を与えられる時が必ずきます。それは、イスラエルの民がヨルダン川のほとりにある荒野で直面したものと同じものです。さて、それはどんな試練だったでしょうか。

それは巨人や、立ちはばかる高い壁や、私たちを滅ぼそうとする政権や力などといった先立つすべての危険を予測しながら、神様の約束を信じて完全に委ねることです。その試練とは、私たちの生涯を通して、神様の御言葉に信頼と確信をおくことです。それは神様が、私たちを悩ませるどんな問題や敵よりも大きい方だと信じきるということです。

私たちの天のお父様は、試練の度に揺れ動くような信仰を求めておられるのではありません。むしろ、生涯を通しての信仰、不可能な時にさえ主を信じ委ねきる信仰を求めていらっしゃいます。この様な信仰は、たとえどの様な状況にあっても、私たちの魂に平安と安らぎをもたらしてくれます。そしてこの平安があるのは、「私の神様は、何よりも大きい方。すべての、そしてどの様な苦難からも、私を救い出すことがお出来になる。」と、ただ一度だけ確固たる決断をしたからです。

私たちの主は愛に満ちた方ですが、同時に私たちが不信仰のうちに留まることを許されません。もしかしたら、幾度も幾度も試練に遭われ、大きな決断を迫られている方がおられるかも知れません。神様は究極の試練を耐え抜く信仰を望んでおられます。いかなる状況においても、神様があなたを守られるという信頼と確信が、決して揺り動かされることのないような信仰です。私たちの主は愛と忍耐に満ちておられますが、主の民が不信仰のうちに留まることを許されません。

信仰について様々な神学がありますが、簡単に言うならば、それは魔法や呪文のようにはいかないということです。信仰とは「信じます、本当に信じます・・・」とただ繰り返すだけで生まれるものではありません。そうではなく、神様に従う決心をすることです。従うことは信頼を反映します。

イスラエルの民がエリコの壁に直面した時、人々は何も話さず、ただ町の周りを歩くように言われました。信仰深い彼らは、「信じられるよう助けて下さい、主よ。信じたいのです。」などと心の中でささやいたりしませんでした。むしろ、神様が命じられたたった一つのことに集中していたのです。それは神様の御言葉に従い、ただ前進するということです。

これこそ信仰です。神様の御言葉に疑問を持ったり、それを軽視したりするのではなく、ただ書かれているすべてのことに従うと心に決めるということなのです。もし私たちの心に従う決意があるならば、神様は御言葉が混乱なしにはっきり分かるようにして下さいます。さらに、主が私たちに何かを求められる時、主は従うために必要な力と強さを与えて下さいます。「弱い者も、私は勇士だと言え。」(ヨエル410)「最後に言う。主により頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」(エペソ人への手紙610