2008年12月31日水曜日

巧妙な戦士

何か私達に敵対することが起きると、神様の憐れみが私達の内に流れ込みます。一本の木が、強い嵐に吹き付けられるとどうなるか、想像してみて下さい。猛風によって、根こそぎ飛んで行ってしまいそうになります。枝は折れ、葉は散ってしまいます。根は引きちぎられ、芽はもぎ取られます。そして嵐が去った後その木は、絶望的な姿になってしまいます。

しかし、近づいてよく見てみましょう。同じ嵐によって、周りの地面が掘り起こされて、根が張りやすくなりました。その木は、水と栄養を確保するための、新たな道を発見したのです。そして古く死んでいた枝は、捨て去られました。芽はもぎ取られてしまったかも知れませんが、すぐに新芽が元気に顔を出すでしょう。その木は嵐によって強くされ、目に見えない形で成長を遂げたのです。収穫の時になれば、その木は多くの実を結ぶでしょう。

あなたは今、嵐の中にいらっしゃるかも知れません。猛風が吹き付け、あなたを激しく揺さぶるので、「もう倒れてしまうかも知れない」と思っておられるかも知れません。愛する皆さん、慌てないで下さい。その様な嵐の中にあって、あなたは霊的な根をしっかり張ろうとしているのだと、気付いて下さい。あなたを砕き、罪に対する嘆き悲しみを増し、神様の義に対する飢えを強めようと、神様があなたを成長させておられるのです。

神様はあなたを、戦いを恐れていながらも、巧妙で勇敢な十字架の戦士として整えておられるのです。あなたは時に、自分に失望してしまうことがあるかも知れませんが、主はあなたに対して、決して失望されません。事実、神様は望まれるならば、あなたを困難の中から簡単に抜き出すことがお出来になります。しかし神様はそうなされません。なぜなら困難によって、あなたの内に、神様に対する飢え渇きが強められていると御存知だからです。

ローマ人への手紙5章3節は、こう語っています、「苦難は忍耐を生み出します。」ここで使われている「生み出す」という言葉は、“完成する”という意味があります。

第二コリント人への手紙4章17節に、「わたしたちの一時の軽い困難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」と記されています。ここで使われている「もたらす」という言葉は、ローマ人への手紙5章3節で使われているのと同じ言葉です。

2008年12月30日火曜日

霊的成長について、すべてのクリスチャンが知るべきこと

「兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。」(第二テサロニケ人への手紙1:3)

パウロによる何と素晴らしい、テサロニケのクリスチャン達に対する賞賛でしょうか。ここでパウロが言っていることを、要約してみましょう。それは、「キリストにある信仰と、お互いに対する愛、その両方において、あなたがたがどれだけ成長したかを見ることは、本当に素晴らしい。どこにいっても、私はあなたがたの霊的成長を自慢しているのです。あなたがたのことを、ただ神様に感謝します」ということです。

この短い聖句の中で、パウロは私達に、愛と一致とにおいて成長しているキリストの体について、驚くべきイメージを与えてくれています。パウロが用いている「大いなる成長」という言葉は、ギリシア語で「他を超えて、さらに成長する」という意味があります。個人的にも集団的にも、テサロニケの信者の信仰と愛は、他の教会のそれを、はるかに超えていたのです。

もちろんテサロニケのクリスチャン達は、イエス様が再び来られるまで、ただ自分達の信仰にしがみついているだけではありませんでした。彼らは学び、動き、成長していたのです。そして彼らの人生が、その事実を証明しています。パウロによると、彼らの噂は、アジアの教会中に広まっていたということです。

察するに、彼らが聞いていたメッセージは、さらに深くキリストと歩みたいという思いを、彼らの内に起こさせていたのでしょう。それは彼らの肉の野望を溶かし、キリストらしくない習慣に気付かせました。そして彼らの内におられる聖霊が、民族や人種の壁を打ち壊してくださいました。彼らは、金持ちも貧しい人も、教育を受けた人もそうでない人も、どんな人でも受け入れる術を発見しました。そして愛の内に、お互いのことを思いやり合ったのです。

もしあなたが神様の御言葉によって養われるなら、人生において必ず継続して、霊的に成長していくはずです。そしてそれは自動的に起こるものなのです。

私の教会に集われる方が全員、テサロニケの教会についてパウロが語った様な「大いなる成長」をしているか、明言出来ません。しかし、それは多くの方について当てはまることだ、と言うことが出来ます。なぜなら、油注がれた真の神様の御言葉がメッセージとして語られるなら、それは必ず成長を促すからです。また使徒パウロは、真の御言葉の乳を望む者は、必ず成長すると言っています。

パウロは私達の霊の成長が、聖霊の働きであると説明しています。聖霊は常に働いておられ、私達を栄光から栄光へと変えておられる、とパウロは言います。御霊は絶えず私達の思いを新たにし、肉を正し、私達の内なる人に純粋さをもたらそうとしておられます。また私達の心の内で、怒り、苦い思い、恨み等、すべての悪しき思いを消し去るべく、働いておられます。そして御霊は、私達の内に親切、柔和、お互いを許す心を実らせてくださいます。聖霊は、私達をキリストの内に、成長させてくださるのです。私達が主の御名にふさわしい言動を行うよう、教えてくださっているのです。

さらにパウロは、こう私達に勧めています。「だれでも、自分をよく確かめなさい。」(第一コリント人への手紙11:28)ここで使われている“確かめる”という言葉は、ギリシア語で「綿密に検査する、試みる」という意味があります。パウロは「自分が神様の御言葉通り歩めているか、試してみなさい」と言っているのです。私達は常に「変わっているだろうか。もっと愛と柔和とに満ちることが出来ているだろうか。家族や友人を、尊敬をもって接することが出来ているだろうか。私の会話が、もっと正しいものとなっているだろうか」と自問する必要があるのです。

2008年12月29日月曜日

目に見えない成長

クリスチャンの中には、自分の霊的成長を語ることの出来る人達がいます。そしてあなた自身も、彼らの人生にはっきりとした変化を見ることが出来ます。その人達は、いかに聖霊が彼らの敵を打ち倒されたかを証しし、あなたも彼らの勝利を共に祝って喜びます。

しかしこの様なクリスチャンは、特例です。ほとんどのクリスチャンは、自分達の人生に霊的な成長を見ることが出来ません。彼らは祈り、聖書を読み、心から主を求めます。霊的な成長を妨げるものは、何もないのです。

しかし彼らは、自分達でその成長を見ることが出来ないのです。私がこのタイプのクリスチャンの一例です。私は、キリストの義の内に歩んでいるという自覚がありますが、成長していると感じたことがありません。事実、時折私はクリスチャンらしかぬ言動をしてしまっては、自分を責めてしまいます。その様な時、「私はクリスチャンになって何年も経つのに、どうして学ぶことが出来ないのだろう」と思ってしまいます。

おそらくテサロニケのクリスチャン達は、パウロが彼らを賞賛した時、非常に驚いたことと思います。(第二テサロニケ人への手紙1:3参照)彼らはきっと「私が大いに成長しているって?パウロは寝ぼけているに違いない」と思ったことでしょう。

しかしパウロは、霊の成長が隠され、秘めた所で行われるもとだと知っていました。聖書はそれを、観察することの出来ない、花や木の成長と同じ様なものだ、と言っています。「露のようにわたしはイスラエルに臨み、彼はゆりのように花咲き、レバノンの杉のように根を張る。その若枝は広がり、オリーブのように美しく、レバノンの杉のように香る。」(ホセア書14:6〜7)

神様は私達に、こう語っておられます。「ゆりを見てごらんなさい。その成長を目で見てみなさい。その日の終わりが来ても、肉眼では何の変化も見られないはずだ。しかし、わたしが露によって、毎朝そのゆりに水をやっている。だからそれは必ず成長するのだ」と。これと同じことが、霊の成長にも言えます。それは肉眼で、見ることは出来ません。

人々の中には、救われてから、過去の罪にまったく左右されない方がいます。その人達は、「イエス様を受け入れた瞬間から、主が誘惑を取り去ってくださいました。その時から完全に私は、その罪から解放されています」と、証しします。私は、多くの元薬物依存症の人達が、この様な経験をしているのを知っています。

しかし大半のクリスチャンにとって、これは彼らの証しとは異なります。イエス様を受け入れてから何年経っても、昔の悪習慣が戻ってきます。それは、彼ら自身も忌み嫌い、二度と欲しくも見たくもないと思っていることです。しかしどれ程苦しんでも、最後の思いは消え去りません。時が経つにつれ、彼らは失望してしまいます。彼らの魂は、「主よ、いつまで苦しめばなりませんか。いつになったら、この鎖は解き放たれますか」と叫びます。さらに悪魔がいつしかやってきて、「そのことから解放されることは不可能だ。こんな状況下にいて、お前が霊的に成長することなど出来ない」と語ります。

皆さん、勇気を出して下さい。良い知らせがあります。あなたはこれらの苦しみにあっても、その最中で成長しておられるのです。実際、あなたはその苦しみ故に、成長しておられるのかも知れません。

安心して下さい。もしあなたの内に、神様に対する畏れがあるなら、あなたは嵐の中から、より力強くなって、出て来ることが出来るでしょう。あなたは敵と戦う時に、神様の力と憐れみの全てを呼び求める訓練をしているのです。そして弱さを覚えていたとしても、その力と憐れみが、あなたを強めてくださいます。第一に、あなたは切羽詰まって祈ることを覚えます。第二に、あなたのプライドは、完全にはがされてしまいます。ですから実は嵐によって、あなたの人生のすべての面に、霊的な防御壁が立てられるのです。

2008年12月26日金曜日

神様の愛を知り、信じ、信頼し続けなさい

霊にあって陶酔し、困難にも試練にも遭わずにいるのなら、誰でも喜び続けることが出来ます。しかし神様は、どんな時でも、特に試みにある時にこそ、私達が神様の愛の内に留まる様、望んでおられるのです。

使徒ヨハネは、どの様に神様の愛に留まればよいのかを、とても明白に語ってくれています。「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(第一ヨハネによる手紙4:16)一言で言えば、もし私達が神様の愛に留まるなら、私達は神様の内に留まることが出来るということです。

ここで使われている“留まる”という言葉は、「待ち望む状態にいる」という意味があります。言い換えれば、神様は私達に、神様の愛が日々新たにされるということを、待ち望んで欲しいということです。私達は毎日、神様が私達を愛し、そして愛し続けてくださるのだ、ということを知りながら生きる必要があります。

現実的には、私達のほとんどが、自分の感情が上下するのに合わせて、神様の愛に近づいたり遠ざかったりしてしまいます。何か良いことをした時だけ、神様の愛の内にいて良いのだと感じてしまいます。しかし私達が試練や困難にある時、また神様の御心に反したことをしてしまった時は、神様の愛を疑ってしまいます。しかしその様な時こそ、神様の愛に頼るべき時なのです。これらの聖句を通して、神様は私達にこう語られています。「あなたがどの様な試練に直面しようと、あなたに対するわたしの愛を、決して疑ってはなりません。もし進んでわたしの愛に信頼を置くなら、わたしがあなたに望む、その通りの生き方をしていることになるのです」と。

エレミヤ書31章は、素晴らしい神様の愛を記しています。イスラエルは背信の時代にありました。人々は肥え太り、富に溢れ、ありとあらゆる悪に手を染めていました。

すると突然、彼らの欲が苦みに変わりました。彼らは、五感を満足させることに対する喜びを失ってしまったのです。彼らは叫びました、「主よ、私達は道を失ってしまいました。方向転換をするために、あなたが必要です」と。神様は、彼らのこの悔い改めの叫びを聞かれ、愛に溢れた神様の心が、彼らの元へと飛んで行きました。神様は民を、杖と教えとによって懲らしめられました。そしてイスラエルは「あなたはわたしを懲らしめられました。どうかわたしを立ち帰らせてください。わたしは立ち帰ります。わたしは背きましたが、後悔し、思い知らされ、悔い改めました」と叫びました。(エレミヤ書31:18〜19より抜粋)

ここでの神様の御言葉に、耳を傾けて下さい。「彼を退けるたびに、わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り、わたしは彼を憐れまずにはいられない。」(20節)「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。」(3節)

これこそ、神様の愛について、あなたが知るべきことです。神様はその民に、「わたしはあなたを懲らしめ、厳しい真実の言葉を語らねばならなかった。しかしそれでもあなたは、わたしが注いだ恵みと慈しみにも関わらず、わたしに対して罪を犯した。わたしの愛に背き、わたしを拒絶した。それでもなお、わたしの憐れみに満ちた心は、あなたに対して動き、苦しみにあるあなたを顧みる。そしてあなたに憐れみを注ぐ。わたしはあなたを赦し、完全に癒す」と言われるのです。

2008年12月25日木曜日

栄光のうちに歩む

困難の時を受け入れ難くさせている理由の一つは、神様の栄光に関する理解にあります。あなたは「その様なことは非常に崇高で、神学者に任せた方が良い題材だ」と思われるかも知れません。しかし神様の栄光は、すべての信者にとって、非常にリアルで実践的な価値を持っていると、私は確信しています。それを理解することによって、人生に打ち勝つ扉の鍵を開け放つことが出来ます。

神様の栄光は、主の存在と神性を現すものです。旧約聖書でモーセが神様の栄光を垣間見たことを、覚えておられるかも知れません。それまで、主は「わたしはある」という言葉の他、御自身について何も語られずにモーセを遣わされました。しかしモーセは、神様についてもっと知りたいと願いました。ですから彼は、「主よ、あなたの栄光を見させて下さい」と主に請うたのです。

神様はモーセを岩の隙間に隠すことで、この要求に応えました。そして聖書は、神様がモーセに御自身の栄光のすべてを現された、と記しています。(出エジプト記34:6〜7参照)神様は私達に、御自身の人類に対する偉大なその愛を通して、その栄光を知って欲しいと望んでおられます。そしてそれこそ、神様がモーセに現された方法です。

この箇所は、主がどの様な方であるか、私達が理解する上での要となる箇所だと思います。神様の栄光について考える時、私達はよく、神様の尊厳や威光、力や権力など、神様が民に対して現されているものを思い浮かべます。これらのすべては、神様の栄光を見た結果と言えるでしょう。しかし、それらは神様が私達に知っていて欲しいと望まれる、神様の栄光の姿ではないのです。主は、私達にその愛を示し、私達を赦し、憐れみを注ぎ、御自身と和解させることを、永遠に待ち望んでおられるのです。

神様の栄光の現れは、それを受ける者や、その理解を祈り求める者に対して、非常に強い影響をもたらします。その時までモーセは、主を「律法と怒りの神」としてしか見ていませんでした。彼は主の臨在にあって畏れに身を震わせ、イスラエルのために主に泣き叫び、請い求めました。これが彼にとっての、主との関係の土台となっていました。

しかし神様の栄光を垣間見た今、モーセの主に対する恐れは消え去りました。その代わり、主を礼拝する様に、心動かされたのです。「モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏した。」(出エジプト記34:8)彼は神様が、ただ彼を震え上がらせる恐ろしい雷や稲妻の様な方ではないと知ったのです。実際はその反対で、神様は愛であり、その神性は憐れみと優しさに満ちたものだったと気付いたのです。

ここで聖書が示している、素晴らしい真理を理解することが出来ますか。真の礼拝は、何の見返りも顧みない、神様の私達への愛によって揺り動かされた心から、湧き上がってくるものなのです。それは神様が御自身を、その良さを、憐れみを、赦しを、私達に与えてくださるのだ、という悟りに基づいています。ですからもし私達が神様を、霊と真とによって礼拝するのなら、私達の礼拝は、この素晴らしい真実に基づくものでなければなりません。

神様の栄光を受け取ったなら、私達の礼拝は絶対に変わります。何故でしょうか。それは神様の栄光を見ることで、私達の生き方が変わるからです。それは私達の態度や行動に影響をもたらし、私達を「栄光から栄光」へと造り変えて、さらに主に似る者としてくださいます。神様の愛と憐れみが現されるその度に、それは私達に、超自然的な変化をもたらすのです。

2008年12月24日水曜日

キリストを通して与えられる神の愛

ヨハネによると、神様の愛のすべてがイエス様の内に宿っているということです。ヨハネはこう記しています。「わたしたちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から受けた。」(ヨハネによる福音書1:16)ではどの様にして、私達は御父の愛を受けたのでしょう。それは、キリストの内にいることによってです。

あなたは、キリストを通して神様の愛が与えられると知ることが、なぜそんなに大切なのだろう、と思われるかも知れません。それが私達の日常生活と、どう関わりがあるのだろうか、と。

どうやって神様の愛が、私達の日々の生活に影響をもたらすのでしょうか。その答えは、キリストの内に見つけなければなりません。なぜならイエス様はすでに、御父が御子を愛された様に、私達をも愛してくださる、と語ってくださいました。ですから、御父の愛がどの様に、イエス様の生活に影響をもたらしていたか、を見れば良いということです。

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」(第一ヨハネによる手紙3:16)ここにイエス様の内にある、神様の愛の実が見られます。イエス様は御自身を、他の者のためのいけにえとして献げられたのです。この聖句の後半部分は、私達の人生における神様の愛の目的を記しています。「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」神様の愛は、私達も自分の体を生けるいけにえとして献げる様、導いておられるのです。

兄弟・姉妹のために、本当に命を捨てるということがどういうことか、考えたことがありますか。ヨハネは、異国の地において殉教者になることを、話しているのではありません。臓器提供者となることを、話している訳でもありません。また死刑囚の代わりに、刑を受けることを話している訳でもありません。キリストだけが、その様ないけにえを献げられるのです。そうではなく、兄弟・姉妹に命と希望を与えられるクリスチャンとは、死んでいる者だけです。それはこの世に、すなわち、プライドや野望等、自分に完全に死んだ僕ということです。

この“死んだ”クリスチャンは、聖霊がその人の魂の在庫確認をすることを許している人です。その人は自分の心に残っている、汚いもの、神様のものでないものを見ます。そして神様の御元に行き、「主よ、私を焼き尽くして下さい。すべて取り去って下さい」と、叫ぶのです。その人はキリストの血潮によって聖められなければ、他の兄弟・姉妹のために命を捨てることが出来ないと知っているのです。

2008年12月23日火曜日

神様の愛

最近になって私は、聖霊により揺り動かされ、この聖句へと導かれました。「しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。」(ユダによる手紙20〜21)この箇所を読みながら、私は御霊がこう囁かれるのを聞きました。「ディビッド、あなたはわたしの完全なる喜びと愛を、まだ経験していない。神学的にはよく理解しているが、その快感とわたしの愛のうちに留まることの平安を体験していない。今まであなたが経験してきたものは、足首までのもの。しかし実際は、あなたの目の前に、自由に泳ぐことの出来る、わたしの愛の大海原が広がっているのだ」と。

聖書は、神様の愛についての真実で満ちています。しかし時折私は、神様がなぜ自分の様な者を愛されるだろうか、と思ってしまいます。決して神様の愛を疑っている訳ではありません。それは逆に私自身の問題で、神様の私に対する愛を完全に知り尽くし、信じ尽くしていないのです。

私達が神様を信じる時、神様の愛の一部が明らかにされます。もしクリスチャンに、神様の愛について何を知っているか尋ねるなら、その多くは「私のために御子を遣わし、死んでくださったことで、神様の愛が分かります」と答えるでしょう。ヨハネによる福音書の3章16節を引用するでしょう。「神は、その独り子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

この真実を噛み締める瞬間とは、本当に素晴らしいものです。あなたは突然、「神様は、私が迷子で他人としてさまよっていた時から、私を愛していてくださったのだ。そして私のために、御自身の独り子をいけにえとされたことで、私への愛を示してくださったのだ」とことを悟ります。

しかし、一握りのクリスチャンだけが、神様の愛に留まることを学びます。主に対する愛について、少しは知っていますが、神様の私達への愛を追求することをあまりしません。事実、もしクリスチャン達に「神様の愛が書かれている、聖書の箇所を教えて下さい」と尋ねても、おそらく数カ所しか思い浮かべることが出来ないでしょう。しかし、神様の愛を知ることこそ、人生に打ち勝つ秘訣なのです。多くの人は、神様の愛を知らないために、霊的に冷めきり怠惰になってしまいます。彼らは、サタンに対する最大の武器が、聖霊の解き明かしにより、神様の愛を完全に知ることだと知らないのです。

イエス様は地上での最後の祈りの中で、こう言われました。「父よ、あなたは天地創造の前からわたしを愛してくださいました。」(ヨハネによる福音書17:24)これは何と素晴らしいことでしょう。キリストは創造の前より、父によってひたすらに愛されていたのです。
そしてイエス様は、次の偉大な祈りを捧げました。「父よ、あなたが私を愛しておられたように、彼らをも愛しておられます。」(21、23節)またこの様にも祈られました。「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるように。」(26節)キリストは「父よ、あなたがわたしを愛されたように、わたしの体の内に集める者達を、あなたが愛してくださると知っています」と言っておられるのです。

ここに秘められたメッセージは、御父は永遠の昔よりイエス様を愛しておられ、私達をも同じ様に愛されたということです。事実、御父の永遠の思いの中に、考えとして人間のことが浮かんでいた頃から、主はすでに私達の詳細を知り、救いの計画を立てておられたのです。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エペソ人への手紙1:4)

神様はどれ程長い間、あなたを愛してこられたのでしょうか。神様が存在されてからずっとです。なぜなら、神は愛だからです。愛することこそ、神様の性質なのです。神様は、あなたを罪人として愛されました。神様は、あなたが胎にいる時から愛されました。神様は、世界が生まれる前からあなたを愛されました。あなたに対する神様の愛は、始まりがありません。そしてそれには終わりもないのです。

神様はいつ、あなたを愛することを止められるでしょうか。それは神様が、御子を愛されるのを止められる時です。そしてそんなことは、絶対にあり得ません。キリストはこう語っておられます。「イエスは、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(ヨハネによる福音書13:1)

2008年12月22日月曜日

神様の愛に留まりなさい

数年前、神様は私の心の内に、ロングアイランドで、少年の家を始めなさいという思いを植えられました。この働きに関して私は、強い主の導きを感じました。しかし、そのたった18ヶ月後に、州が少年の家運営に関する厳しい制令を下し、私達はその家を閉鎖するしかありませんでした。

その短い運営期間中、私達は4人の少年をお世話しました。少年の家が閉鎖されてから、彼らとは音信不通になっていました。私はよく、この少年の家事業のことを思い出しては、それが最大の失敗であったと思っていました。30年以上もの間、なぜ神様が私にその事業を進めることを許されたのか、分からないでいました。

しかし最近になって、私はクリフォードという名前の男性から、一通の手紙を受け取りました。その手紙の中で、彼は次の様なことを語ってくれました。

「ディビッド兄弟、私はロングアイランドの少年の家に送られた、4人の少年の一人です。そこでの寮母・父さん達は、とても親切で優しい方々でした。私達に聖書を教え、教会へ連れて行って下さいました。ある日、彼らは私達を、リバイバル集会が行われている教会へ連れ行って下さいました。その時の私は、非常に苦々しい思いで一杯でした。しかしその教会で、聖霊様が私の心に触れ始められたのです。私はメッセンジャーが『イエス様はあなたを愛しています』と言うのを耳にしました。長年の痛み、迷い、絶望感が露にされました。私はひざまずき、祈りました。それは35年前のことです。今、神様は私を説教者して召され、フルタイムの奉仕者となるよう、導いてくださっています。この感謝の気持ちは、この間ずっと、私の中で温められていました。私の面倒を見て下さって、本当にありがとうございました。神様の愛とは何か、知ることが出来ました。」

この手紙は、私達がキリストのために行うことは全て、決して無駄になることはないのだと証明してくれます。あの少年の家は、失敗ではなかったのです。なぜなら一人の失われた、さまようユダヤ人の少年が、神様の愛の意味を見つけることが出来たからです。

2008年12月19日金曜日

サタンの巧みな業

「アッシリアの王は、ラブ・シャケを大軍と共にヒゼキヤ王のいるエルサレムに遣わした。」(列王記下18:17)アッシリアは、今日の「繁栄への手引き」を象徴しています。悪魔はあなたの城壁の周りを、力強い者、美しい者、またすべてにおいて成功を収めているように見える者を率いて、練り歩きます。その者たちを目にする時、あなたは囚人であるかのように意気消沈してしまします。

罪にある者からの最初の罠とは、信者の完全なる主への信頼を疑うことです。王の遣いであったラブ・シャケという名前は、「酔いつぶれた遣い」という意味があります。彼は主を信じる人々を嘲りました。(列王記下18:19〜20参照)彼の言い分は、「神はお前たちをこの混乱から救い出さない。お前たちはただ、滅びるだけだ。大変な危機にあっても、お前達の信仰など、何の役にも立ちやしない」ということでした。

サタンは、さらにこれに一ひねり加えました。サタンはあなたに、神様がこれらすべての困難の背後にいるのだと囁きます。アッシリアの使者は、こう叫びました。「わたしは今、主とかかわりなくこの所を滅ぼしに来たのだろうか。主がわたしに、『この地に向かって攻め上り、これを滅ぼせ』とお命じになったのだ」と。(列王記下18:25)サタンは、神様があなたに仕返しをし、あなたに怒りを覚えていらっしゃると信じ込ませたいのです。これこそ、サタンの狡猾な偽りです。サタンは神様があなたを見捨て、困難と悲しみの中に突き落とされたのだと、あなたに信じ込ませようとしているのです。すべての問題は、あなたの過去の罪に対する神様からの懲らしめなのだと、信じ込ませたいのです。それを信じてはなりません。それはあなたを滅ぼそうとする、サタンの企みです。

私達の主は、救い主であり、守り主です。イザヤはこう語っています、救い主が来られるのは、「シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた、正義の樫の木と呼ばれる」と。(イザヤ書61:3)

愛する聖徒の皆さん、あなたは滅びに向かってなどいません。あなたの心が本当に主に向けられているからこそ、あなたは攻撃を受け、敵の偽りに惑わされているだけなのです。サタンは神様へのあなたの信仰を、打ち砕こうとしているのです。

2008年12月18日木曜日

戦いへの招き

「また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍してくる敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てなければ、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」(ルカによる福音書14:31〜33)

エノクはこう、預言しました。「見よ、主は数知れない聖なる者たちを引き連れて来られる。」(ユダの手紙14)聖書は、私達が主のための王や祭司であり、サタンとの戦いへ行く何十万もの人々を率いるのだと記しています。サタンが私達に敵対するのは、私達をひたすらに憎んでいるからです。(黙示録12:17参照)

これから来ることについて、私達は準備を整えねばなりません。霊の戦いが起こり、神様の民に対して、悪の洪水が押し寄せることを覚悟しなければなりません。もし私達が、キリストを知る決意を固めるなら、キリストにあって、私達は絶対に打ち負かされることがないのだと、知る必要があります。聖書はこの様に記しています。「あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。」(第一ヨハネの手紙4:4)神様は私達が、敵のどの様な力にも必ず勝利すると、保証してくださっています。すべての天の大軍が、私達のために戦ってくださっているからです。

神様がさらに聖霊を私達に与え、全地と地獄の群れに対して、私達一人ひとりがこう叫ぶことの出来るように祈ります。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。しかし、これらのすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって、輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものの、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ人への手紙8:35、37〜39)

これこそ、イエス様を飢え求める者の上げる、ときの声なのです。

神様にあるすべての男女は、キリストに対しての生けるいけにえとなろうと決心した時から、地獄の悪しき企みの標的となります。信仰による聖い歩みをしようと心に決めている者に対して、地獄の群れが放たれます。

あなたが、サタンの偽りに満ちた計画を危ぶませるものとなったため、サタンはあなたを攻撃し、その道に障害物を置くでしょう。あなたは不戦敗し、諦め、いい加減で、実を結ばずにさまよう者となる道を選択することが出来ます。

でも私は、悪魔の計画に反旗を翻し、信仰によって立ち上がり、戦うことを選びます。サタンは完全に主に信頼をおく者を、押さえつけておくことが出来ないのです。

2008年12月17日水曜日

完成させること

「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することは出来なかった』と言うだろう。」(ルカによる福音書14:28〜30)

キリストは、彼に従う者の多くが、完成するに必要なものを持っていないことを知っていました。彼らが背を向け、レースを完走することがないと知っていました。キリストを知り、成熟した弟子となり、もっとキリストに似る者とされようという、完全なる志をもって始めながら、途中で離れて行ってしまうことほど、信者にとって悲劇的なことはありません。その様な人は、最初に費用を計算しなかったので、土台を築きながらも完成出来なかった人です。

実際にレースを完走した人達と会うことは、何と素晴らしいことでしょうか。これらの信者は、キリストの知恵と知識に満ちています。彼らは日々、瞬間毎に、変えられています。パウロは彼らに、励ましの言葉を述べています。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(第二コリント人への手紙3:18)彼らが望むのは天国ではなく、栄光に満ちたキリストの御姿なのです。

このディボーションを読まれておられる方の中には、信仰の歩みにおいて一時休止していたり、後戻りしたりしておられる方がおられるかも知れません。それは小さなステップの様に見えるかも知れませんが、神様の愛から大きく離れる原因になってしまいます。もしこれがあなたに当てはまることでしたら、聖霊があなたを引き戻そうとされておられることに、気づいてください。悔い改め、自分に死に、完全に委ねることへと。そしてこの瞬間、時というものが重要な役割を果たします。もしキリストを知りたいと思われるなら、今、そうして下さい。そして、完成させて下さい。

2008年12月16日火曜日

愛と憎しみ

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」(ルカによる福音書14:26)

ギリシア語で「憎む」とは、“比較的に言って、少しの愛を注ぐ”という意味があります。イエス様は、この世のものいかなるものが、主への愛とは比較出来なくなるほど、私達にイエス様だけを絶対的に強く愛するよう、呼びかけておられるのです。

考えてみて下さい。主の麗しい臨在に入り、何も求めなくてよいことが、どういうことか、私達に想像出来るでしょうか。ただ感謝の意から主に手を差し伸べ、主から完全に愛されるということが、想像出来るでしょうか。

私達は祈りにおいて、自己中心的かつ自分勝手になってしまいました。「これを下さい、来て下さい、祝福して下さい、用いて下さい、守って下さい」等々と。これらの祈りはすべて、聖書に基づくものかも知れませんが、それでもその焦点は、私達に当てられています。主に対する働きでさえ、自分勝手なものになっています。主への働きが祝福され、自分の信仰が本物であると証明される様、望んでいるからです。主は、私達がどれほど主のために働くかより、主にあってどの様な者にされていくかに興味を抱かれています。

これを読んでいる方の中で、ミニストリーの扉が閉ざされ、心を痛めておられる方がいらっしゃるかも知れません。自分は物置にしまわれてしまった、と感じておられるかも知れません。またある方は、必要を覚えている宣教地で働くことで、さらに神様の役に立てると思っておられるかも知れません。しかし、隠れた場所で祈ることで神様に愛を示すこと程、神様の役に立つことはないと、私は思います。私達が主を求める時、また神様を知るために御言葉を探り続ける時、私達は一番役に立っているのです。どんな働きをするよりも、ただ神様と二人っきりで交わることが、神様を祝福し喜ばせます。神様が私達に働きを委ねようとされる時は、それが近くであっても遠くであっても、神様との交わりから自然に生まれます。神様にとって、私達が世界を勝ち得るよりも、私達自身の心が完全に神様に向けられていることの方が、もっと大切なのです。

魂を得る働きを見下している訳ではなく、すべての霊的に祝福された宣教は、神様との交わりから生まれると、言いたいのです。常に祈りにあって主と共にいる証し者は、知恵と、絶好の機会と、神様の御心を行うための力が与えられています。

2008年12月15日月曜日

主の食卓

ある古いゴスペルソングが、私にとって、非常に奥深い意味を持っています。その歌詞は「イエス様は食卓を備えられている。それは神様の聖徒らが食する所。選ばれた神の人々が来て楽しむ。」

何て素晴らしい考えでしょう。主は従う者達に、天国で食卓を備えてくださっているのです。イエス様は、弟子達にこう言われました。「わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、私の国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」(ルカによる福音書22:29〜30)主への飢えを覚えるとは、信仰によって、私達もこの食事の座に着くということです。

使徒パウロが「過越祭を祝い続けようではありませんか」(第一コリント人への手紙 5:8)と命じるのは、私達のために、天国においてキリストと共に、王の食事の席が備えられているということを、私達が明確に理解するためです。パウロはこう言っています、「必ず出席しなさい。あなたの席が空席になっているとは、言わせてはなりません」と。

しかし残念なのは、イエス・キリストの教会が、この「祭りを祝い続ける」ということの意味を理解していないということです。私達は、キリストによって引き上げられた後、御国で彼と共に座することの名誉と素晴らしさを、理解することが出来ません。私達は、食卓に着くことで、精一杯になっています。正餐よりも、仕えることで霊的な喜びを得るよう、私達は勘違いを犯してしまっています。私達は、もっともっと主のために働く一方で、もっともっと、主御自身を知らなくなっています。主のために、私達の心も体も酷使しながら、ほとんど祭りをお祝いしません。

天国において主が、その僕や、牧師や、羊飼い達から、他のことよりもただ一つ求められることとは、主の食卓に共に座することです。この食卓は、霊的な交わりを持つためのもので、毎日備えられています。「祭りをお祝いする」とは、食べ物と、力と、知恵と、交わりを求めて、主の元に継続的にやって来るということです。

十字架の後、すべての霊的な偉人達には、一つの共通点がありました。彼らは主の食卓の座を畏れたのです。彼らはキリストの偉大さに、我を失っていました。彼らは皆、亡くなる時に、自分達がいかに、まだキリストとその生涯のことをよく知らないでいるかを嘆きました。

私達が今日描いている、キリストのビジョンは、あまりに小さく制限されています。この堕落した時代の、複雑で増加するばかりの問題に打ち勝つためには、偉大さを語る福音が必要です。神様は、ただこの世の問題を解決されるだけではありません。神様の偉大さの内にあって、それらの問題は一飲みにされてしまいます。キリストの偉大さをはっきり持つ人は、どんな問題も、悪魔も、この世の力も、恐れる必要がありません。その人は、いかにキリストが、そのどれよりも偉大であるかを知っているからです。もし私達がこの様に、キリストの偉大さについての理解を抱くなら、すなわち、それがいかに制限なく、豊かで、莫大であるかを知るならば、私達はもう二度と、人生の問題に心を失うことがないでしょう。

パウロは、私達の良き見本です。彼はキリストの啓示を、ただただ深めようと決意していました。事実、彼がキリストについて知っていたことはすべて、啓示から来ました。それらは彼が、主の食卓に座する時に与えられ、聖霊によって明らかにされたのです。思い出して下さい、彼がエルサレムにいる弟子達を訪ねていったのは、改心した3年後のことでした。そして彼は、弟子達とたった15日間一緒にいただけで、すぐに宣教の旅に出て行きました。後にパウロはこう語っています、「秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。」(エペソ人への手紙3:3)聖霊は、神様の深く隠された秘密を御存知です。パウロは恵みの賜物によって、「キリストの計り知れない富」(エペソ人への手紙3:8)について理解し、その福音を語り告げることが出来る様、常に祈り求めていました。

真実の言葉を見つけるために、様々な矛盾する声をかき分けるだけでは満足出来なくなった信者を、主は探しておられます。深く、個人的な交わりから来る主の啓示を、私達が求めるよう、主は願っておられます。

2008年12月12日金曜日

信仰の戦場から

パウロがエルサレムに行くと決めたのは、そこでリバイバルが起きていたからではありません。彼は失望した宣教師が、神様からの啓示を求めてやって来る状況とは違います。彼はエルサレムに行く理由を、こう明言しています。「わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、話すためでした。」(ガラテヤ人への手紙2:1〜2より抜粋 )パウロは、神様が御自分の民に示したいと願っていた奥義を証しするために、エルサレムに向かったのです。

この信仰の人は、個人的に栄光に輝くキリストの啓示を体験しました。彼が宣べ伝えていた教義は、独り部屋に閉じこもって、本や解説書を読むことで学んだものではありません。彼は独り神学的な真実を瞑想することにふけり「いつか私の研究の成果が、未来の世代の人々に読まれるのだ」と夢見る哲学者ではありませんでした。

どうやって、またどこからパウロが彼の手紙を執筆していたか、お伝えしましょう。彼は暗い、湿った監獄から手紙を書いていたのです。背中に鞭打たれ、血を流した後にこれらの手紙を書いたのです。また船が難破し、海から這い上がって来た後に、これらの手紙を書いたのです。

パウロは、彼が人々に教えていたことはすべて、信仰の戦場から来たのだという自覚がありました。そして直面していた苦しみのすべては、福音のためなのだと考え、それらを喜んだのです。彼はこう言いました。「これでようやく、難破した経験のある船員に対して、また希望もなく監獄されている収容者に対して、死の危機に瀕したことのある人に対して、権威をもって宣教出来る。聞く耳のある者が主の真実を聞くことの出来るよう、神様の御霊が、私を経験豊富なベテラン兵士としてくださったのです」と。

神様はあなたをサタンの手に引き渡されたのではありません。それどころか、神様は御霊を通して、あなたの内で目に見えない働きをするために、あなたが試練を経験することを、許されているのです。キリストの栄光が、あなたの内で永遠に形成されているのです。

誰か他の人や、他のものによって、自分の真の霊性を磨くことは出来ません。神様の栄光を経験するには、あなたが今いるその場所で、それが良くても悪くても、その環境のままで、栄光を経験する必要があるのです。

パウロの霊の強さに関する一番の秘密とは、彼がいかにどんな状況をも不満をもらすことなく受け入れたか、ということです。彼はこう記しています。「わたしは自分のおかれた境遇に満足することを習い覚えたのです。」(フィリピ人への手紙4:11)

ここで使われている「満足する」とは、ギリシア語で“攻撃をかわす”という意味があります。パウロは「私は自分をひどい環境から救い出そうとは思いません。神様に、『私を救い出してください』ともお願いしません。反対に、私はどんな境遇をも受け入れます。経験から言って、それらはすべて、主が永遠のものを私の内で実らせておられるからだと知っているからです」と言っているのです。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。」(第一コリント人への手紙10:13)パウロがここで使っている「耐える」という言葉は、私達の境遇が変わることのないことを示唆しています。ここでのポイントは、与えられた環境下で、いかに私達が耐えるか、ということです。それは何故でしょうか。神様がもし環境を変えられれば、私達が最終的に滅びてしまうと御存知だからです。神様は私達を愛しておられるからこそ、私達が苦しむのを許されるのです。

困難にある時の私達の役目とは、苦しみの中にあっても、満足を覚えるに必要な力と資源のすべてを、神様が備えて下さっていると信頼することです。誤解しないで下さい。困難にあって満足することは、困難を楽しむこととは異なります。それはただ、困難から自分自身を救い出そうとすることを、止めることを意味します。私達は、神様が許される環境に満足し、それを耐えねばなりません。それは私達の主が必ず、御子にあって私達の憩いをもたらしてくださると信じているからです。

2008年12月11日木曜日

この時代の忍耐

「忍耐する」とは、“困難の中でも続行する、諦めずに耐え忍ぶ”という意味があります。簡単に言うならば、続行する、忍耐するということです。しかし今の時代、この言葉はあまり意味を持ちません。今日のクリスチャンの多くは、配偶者に、家族に、また神様に、諦めを抱いています。

ペテロはこのことについて、こう述べています。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みなのだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。」(第一ペテロ2:19)さらに彼はこう続けています。「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続く様にと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(第一ペテロ2:20〜25)

使徒パウロは私達に、こう命じています。「キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい。」(第二テモテへの手紙2:3)また主御自身が、次の約束を与えてくださっています。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイによる福音書24:13)

あなたにお尋ねします。あなたが直面している困難とは、一体何ですか。結婚生活が波乱状態にありますか。仕事の危機に瀕しておられますか。親戚や、大家さんや、友人との間に問題を抱えていたり、彼らに裏切られたりしましたか。

私達は希望を抱くべきです。パウロは苦しみましたが、決して諦めず、彼の深い信仰、揺るぎない平安、成熟さ、理解も決して止まることがありませんでした。彼はこう語っています。「もし私が霊的な人となるなら、もし私が本当に主を喜ばせたいなら、環境に逆らうことは出来ません。私は決して諦めず、耐え忍びます。この世の何ものも、神様の御霊が試練に立ち向かうために、私に与えてくださっているものを、与えることは出来ません。神様は私を、霊的な者へと育ててくださっているのです。」

パウロの人生は、キリストの霊による息吹が吹き入れられていました。そして真の霊的な人は、皆そうあるべきなのです。聖霊は神様の天の息吹を、すべての僕の内なる人に注ぎます。その人は落胆しません。自分のおかれた環境に対して、不平不満をもらしたりしません。人生における大変な試練にあったとしても、その人は微笑むことが出来ます。それはその人が、神様が内に働いて、永遠の栄光を示して下さることを知っているからです。

2008年12月10日水曜日

あなたに与えられたキリストの啓示

もしあなたが牧師、宣教師、または教師であるなら、考えてみて下さい。あなたは一体何を教えているのでしょう。それは人から教わったことですか。ある素晴らしい先生が受けた啓示を、そのまま伝えておられますか。それとも、自分自身でイエス・キリストについての啓示を経験されましたか。もし経験されたことがあるなら、それは成長し続けていますか。御国があなたに開かれていますか。

パウロは言いました。「我らは神の中に生き、動き、存在する。」(使徒行伝17:28)本当に神様にある人は、この小さいながらも莫大な円の内に生きます。その一挙手一投足、その存在のすべては、キリストの思いの内に包まれています。何年か前、私は聖霊がキリストのみを語る様、導いておられるのを感じました。私の内に、ただキリストだけを述べ伝えたい、という強い思いがありました。しかし私の心は定まっておらず、この円だけでは小さ過ぎると思ってしまいました。結果として、私がいただいた啓示は消え去っていきました。

キリストを述べ伝えるために、私達は聖霊から、常にキリストの啓示を受ける必要があります。そうでなければ、私達の伝えることは、活気のないものとなってしまうでしょう。もし聖霊が神様の御心を知り、隠された神様の奥義を探すなら、そして私達の内に聖霊が豊かな水の流れとして満ちてくださるなら、私達はその流れで満たされる準備をする必要があります。決して終わることのない、キリストの啓示で満たされ続けなければなりません。この様な啓示は、主に従おうという態度を示し、聖霊が主の御心を明らかにしてくださることを信じている主の僕すべてに備えられています。

パウロは、キリストが彼に示されているだけではなく、彼の内に示されていると言いました。(ガラテヤ人への手紙1:16参照)説教者の生活やミニストリーで力を持たない御言葉なら、たとえそれが説教として分かち合われたとしても、神様の目にそれは、無駄なものとして写ります。浅はかなクリスチャン達には、キリストを論争として取り扱うことが良いことの様に写るかもしれません。しかし、真の神の人には、そうではありません。私達は、永遠に深まり続けるキリストの啓示を伝えなければなりません。そしてただ伝えるだけではなく、その啓示が自分の人生にもたらした変化をも伝える必要があるのです。

パウロも個人的な悩みを打ち明けました。「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」(第一コリント人への手紙9:27)パウロはキリストにおける救いを疑っていた訳ではありません。ここで使われている「失格者」という言葉は、ギリシア語で“認められていないもの”又は“価値のないもの”という意味があります。パウロは、キリストの裁きの座に着く時、よく知りもしないキリストについて教えたり、自分が行動に移さなかった福音を宣教したりしたことについて裁かれることを、非常に恐れていました。パウロがよく用いている「キリストを生きる」もしくは「我が内に生きるキリスト」とは、このことを表しています。

私達は次の質問に個人的、また正直に答えるまで、自分自身を神の僕と呼ぶことは出来ません。「私は心からキリストだけを求めているだろうか。キリストだけが、我がすべてであり、唯一の生きる目的だろうか。」

あなたはこの質問に「はい」と答えられますか。もし心から「はい」と答えることが出来るなら、パウロが語っている、自分の人生の汚点を指摘することが出来ます。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」(フィリピ人への手紙3:8)キリストの啓示の素晴らしさ故、すべてのものを損失と見なしていますか。あなたが本当にキリストだけを求めるなら、あなたのミニストリーは単なる職業ではなくなり、祈りとなります。催促されてキリストを求めるのではなく、キリストと交わることを望む心から、頻繁に自ら隠れた場所に行くようになるでしょう。主を礼拝し、急がされることなく主との交わりの時を持ち、主を愛し、手を上げて主を賛美し、主を求め、主の知恵に対して感謝を捧げることでしょう。

2008年12月9日火曜日

依り頼む心

詩編の著者は、こう記しています。「わたしたちの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。」(詩編22:4〜5)

「依り頼む」というヘブル語の語源は“絶壁から自分自身を放り投げる”ということを示唆します。それはまるで、子どもが垂木に登ってはみたものの、降りられなくなった光景のようです。その子は父親が「飛び降りなさい」と言う声を聞き、言われるままに、父の腕の中に飛び込みます。あなたは今、この様な状況におられますか。絶壁に立ち、ぐらつき、イエス様の御腕に飛び込むしか選択はない、という状態ですか。ただ諦めてしまうことは、依り頼むことと違います。それは単なる運命論でしかありません。依り頼むことと、受け身で観念することとは、大きく異なります。依り頼むとは、能動的に信じることです。

私達がイエス様を強く求めれば求める程、私達はしっかりとイエス様に依り頼むことが出来ます。人生において、イエス様が全体的な構図を捉えておられず、自分が主権を握っていた方が良いと思えてしまい、イエス様に依り頼むことが出来ないことがあるかも知れません。しかしイエス様に近づき、もっと彼を知ることで、その考えは変わるでしょう。命綱の端っこにしがみつき、どうしても助けが必要な時だけイエス様に近づくのではなく、常にイエス様と共に歩むことで、待ち受ける試練を警告してくださる御声が聞こえるようになります。

依り頼む心は、常に「私の歩みのすべては、主によって定められています。主こそ私の愛する父であり、私が苦しみや試練を通るのを許されます。しかしそれは、決して私が耐えられないものではありません。神様がいつも逃げ道を備えてくださるからです。主は私に、永遠の御計画と使命を持っていてくださいます。私の髪の毛の数を御存知で、私を母の胎にて形作ってくださいました。神様は私が座るのも、立つのも、横になるのも御存知です。私を目に入れても痛くない者として見てくださるからです。主こそ神であられます。私の神であるだけではなく、私に訪れる、すべてのことやものの神様でもあられます」と言います。

また完全な心とは、砕かれた心です。

詩編の著者であるダビデは、こう語っています。「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。」(詩編34:18)

砕かれた心とは、単に嘆き悲しんだり、押しつぶされたり、謙遜したりする心ではありません。真に砕かれた心は、神様が人間に与えてくださっている、最も素晴らしい力を解き放つことが出来ます。それは死人を甦らせることよりも、病人を癒すことよりも、さらに素晴らしい力です。私達が神様の御前で本当に心砕かれるなら、廃虚を建て直し、神様に特別な栄光と誉れをもたらすことの出来る力が与えられます。

砕かれることは、壊されたり、登ったりと、壁と関わりがあります。ダビデはエルサレムの壁を登ることと、神様の民が砕かれることとを関連づけました。「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。御旨のままにシオンを恵み、エルサレムの城壁を築いてください。そのときには、正しいいけにえも焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれるでしょう。」(詩編51:17〜19より抜粋)

ネヘミヤは心砕かれた者で、彼の物語は、エルサレムの壊れた城壁に関することでした。(ネヘミヤ書2:12〜15参照)夜の闇の中、ネヘミヤは砕かれた城壁を見ました。ここで使われている「砕かれた」という言葉は、ヘブル語の「シャバー」です。そしてそれは、詩編51章17節にある「砕かれた心」で使われている言葉と同じものです。ヘブル語での意味を踏まえて言うなら、ネヘミヤの心は2つの方法で砕かれていました。一つ目は廃虚を嘆く心、そして二つ目は再建の希望によって、心がはち切れそうになっていたことです。

真の砕かれた心とは、こういうことです。それはまず、教会や家庭の崩壊を見て嘆き、主の苦悩を感じること。この様な心は、主の御名が非難されることに、痛みを覚えます。そしてまたこの様な心は、ダビデ同様、自分自身を見つめ、恥と失敗を見つけ出します。しかし砕かれた心に関する二つ目の重要点は、希望です。真に砕かれた心を持つ人は、神様からの「わたしは癒し、再建し、回復する。廃虚を片付け、基礎を建て始めなさい」という御声を耳にしているのです。

2008年12月8日月曜日

神様と共に歩む

「エノクは神と共に歩んだ。」(創世記5:24)原文のヘブル語で「歩む」とは、エノクが上ったり下ったり、出たり入ったり、進んだり下がったり、神様と手を取り合い、語り合い、神様に近づき続けていた様を表しています。エノクは365年、もしくは1年365日ですから、年を年分生きたと言えるでしょう。彼の内に、私達は新しいタイプの信者を見ます。成人してからの365年間の毎日、彼は主と手を取り合って歩みました。主こそ彼の人生そのものでした。だからこそ、彼は人生の最後で、死を見ることがなかったのです。(ヘブル人への手紙11:5参照)

神様が取られたエノクと同じ様に、神様と親しく共に歩む者は、サタンの手から取られます。サタンの闇の王国から取り去られ、キリストの光の王国へと導き入れられるのです。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。」(コロサイ人への手紙1:13)

エノクは堕落した社会にあって、神様を喜ばせる歩みをすることを学びました。彼はまったく普通の人で、私達が直面しているのと同じ問題や重荷を背負い、初代教会時代に見られた一部の信者の様に、荒れ野にある洞穴で隠れた生活を送ったりしませんでした。彼には妻子があり、責任と義務がありました。エノクは一人隠れて、聖い人生を送っていた訳ではありませんでした。

「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」(創世記5:24)ヘブル人への手紙の中で、私達はこれがエノクの移動、すなわち彼が死を体験しなかったことを表しているのだと知ることが出来ます。しかしここに、さらに深い真理があります。創世記5章で使われている「いなくなった」という言葉は、「この世の者ではない」という意味をも持つのです。エノクは霊的また本質的に、この堕落した世界の者ではありませんでした。日毎彼は主と共に歩み、少しずつこの世のものから離れていきました。パウロの如く、エノクは日々この地上での生活に死に、霊によって天国の領域へと引き上げられていたのです。

しかし地上での歩みを続けていた間、エノクはすべての責任を果たしました。家族を養い、働き、仕えました。しかし彼は、この世のものに捕らえられていませんでした。日常生活の何ものをも、彼を神様との歩みから引き離すことは出来なかったのです。

ヘブル人への手紙11章5節は、こう明確に記しています。「(エノクが)移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。」エノクのしたことの一体何が、神様をそこまで喜ばせたのでしょうか。それは彼の神様との歩みが、神様の愛される信仰を生み出したからです。次の二つの箇所は切り離すことが出来ません。「移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」(ヘブル人への手紙11:5〜6)私達はこの聖句をよく耳にしますが、その前の節と共に読まれることは、ほとんどありません。しかし聖書全体を通して、神様と親しく歩んだ者は皆、深い信仰を持った人達でした。もし教会が、日毎神様と共に歩み、神様と絶え間なく交わりを持つなら、結果として神様を喜ばせる信仰に溢れた人達を生み出すでしょう。

エノクの周りで、人類は堕落していくばかりでした。しかし人々が切望、頑なさ、好色に溢れて野獣と化しいく中で、エノクは共に歩む方にだんだん似る者となっていきました。

「信仰によってエノクは移された。」これは私達の理解を超えてしまう様な、驚くべき真理です。エノクの信仰のすべては、たった一つの望みに焦点が置かれていました。それは主と共にいるということです。そしてその信仰に対する応えとして、神様はエノクを移されたのです。エノクは、もはや覆いの後ろに隠れていることができませんでした彼はただ、主を仰ぎ見たかったのです。

私達の兄弟であるエノクには、聖書も賛美歌集も、信仰の仲間も先生も、内に宿る聖霊も、至聖所へのアクセスをもたらす裂け目もありませんでした。ただ彼は神様を知っていたのです。

「神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」(ヘブル人への手紙11:6)どうやって私達は、エノクが神様を報われる方であると信じていたと知ることが出来るでしょうか。彼が神様を喜ばせる信仰を持っていたことによってです。神様は報いと報酬を与えられる方、すなわち信仰の深さに応えられる方です。では、熱心に求める達に、主はどのように報われるでしょうか。

信仰により神様を信じ、神様と共に歩む者に与えられる、3つの重要な報酬があります。

1.一つ目は、神様が私達の人生を統べ治めてくださること。主をないがしろにする人は、悪魔が働いて占領するに従い、人生のコントロールを失います。その人がただイエス様と恋に落ち、彼と歩むなら、神様はすぐに、サタンがいかに彼の人生の主権を握ることが出来ないかを示し、キリストが彼の人生を統べ治められるようにしてくださいます。

2.二つ目の報酬は「真の光」を持つ信仰から来ます。私達が主と共に歩む時、私達は光、導き、分別、啓示の報酬を受けます。それらは神様が与えてくださる、神様をさらに知るためのものです。

3. 信仰の歩みから来る三つ目の報酬は、すべての敵からの擁護です。「どのような武器があなたに対して作られても、何一つ役に立つことはない。」(イザヤ書54:17)原文のヘブル語では、この箇所は「どんな計画も、どんな破壊の道具も、悪魔のどんな大砲も、あなたを押したり、打ち負かしたりすることはなく、必ずなくなってしまう」と訳されます。

2008年12月5日金曜日

戦利品に託された神様の御計画

ダビデと彼の軍が不在であった時、アマレク人がツィクラグという村を奇襲しました。略奪者達は村を焼き払い、女性と子どもを全員捕虜として連れ去りました。ダビデが戻った時、「兵士は皆、息子、娘のことで悩み、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したので、ダビデは苦しんだ。だが、ダビデはその神、主によって力を奮い起こした。」(サムエル記上30:6)

これこそ霊的戦いです。これはただ、ダビデ一人に向けられた攻撃ではありません。これは神様の永遠の計画に対しての、徹底した急襲でした。

霊的戦いの焦点とは、いかに敵が常にキリストの種を摘み取ろうとしているかにあります。そしてこの事実は、十字架から2,000年経った今でも変わりありません。悪魔は今も神様の種を滅ぼし、キリストの種である私達に攻撃を仕掛けることで、その目的を果たそうとします。ダビデは、彼の兵士達のぼやきを聞いて、恐れました。しかし彼は、自分と神様との関係が正しいことを確信していました。そして聖書は、彼がいかに神様によって励まされたかを記しています。すぐにこの信仰の人は、アマレク人の追跡に転じました。そしてすぐさま彼らに追いつき、奪い取られたすべての人々と財産を奪い返しました。(サムエル記上30:19〜20参照)ダビデはツィクラグから取り去られたものだけではなく、アマレク人が奪い取ったすべての戦利品を取り戻しました。

ダビデはこれらの戦利品をどうしたでしょうか。彼は神様のご計画を続行するために、それらを用いました。さらに、彼はユダの長老たち、また以前彼とその僕をかくまってくれていた町に対して、戦利品を贈り物として送り届けました。(サムエル記上30:26と31参照)これは、霊の戦いを通して神様が抱いているご計画のもう一つの例です。私達は戦利品を、自分達のためだけに勝ち取るのではなく、キリストの体のために勝ち取るのです。私達が得た資源は、他の人々に祝福をもたらすために与えられているのです。

サマリアが飢饉にあった時、アラム軍が町を占領しました。アラム軍は町の外に陣営を張り、サマリア人が飢え死にするのを待っていました。城壁の内側の状態は非常に悪化し、ロバの頭が銀80枚で売られるようになりました。あまりの飢えから、女性達は自分達の子どもを、食料として煮てしまおうとしていた程です。異常な事態だったしか言えません。(列王記下6章参照)

その頃、城壁の外で生活していた、4人の重い皮膚病を患っていた人達がこう相談しました。「どうしてわたしたちは死ぬまでここに座っていられようか。町に入ろうと言ってみたところで、町は飢饉に見舞われていて、わたしたちはそこで死ぬだけだし、ここに座っていても死ぬだけだ。そうならアラムの陣営に投降しよう。もし彼らが生かしてくれるなら、わたしたちは生き延びることができる。もしわたしたちを殺すなら、死ぬまでのことだ。」(列王記下7:3〜4)こうして彼らはアラムの陣営に向かいました。

彼らが陣営に到着した時、すべては静まり返っていました。誰一人として見かけることが出来なかったので、彼らは天幕の一つひとつを探りましたが、誰も見つけることが出来ませんでした。聖書はこう説明しています。「主が戦車の音や軍馬の音や大軍の音をアラムの陣営に響き渡らせられたため、彼らは、『見よ、イスラエルの王が我々を攻めるためにヘト人の諸王やエジプトの諸王を買収したのだ』と言い合い、夕暮れに立って逃げ去った。彼らは天幕も馬もろばも捨て、陣営をそのままにして、命を惜しんで逃げ去った。」(7:6〜7)

重い皮膚病を患っている者達がこのことに気付いた時、彼らは天幕を渡り歩き、食べたり飲んだりした後、町に帰ってこう言いました、「私達と共に来てみて下さい。信じられないでしょうが、アラム軍は陣営を逃げ去りました」と。(7:10参照)主は事態を完全にひっくり返されました。主は戦利品を用いて、神の民を再建し力を与え、地上での御計画を続行されたのです。

話の筋が掴めましたか。あなたに襲いかかっている、現在の戦いの理由が見え始めてきましたか。主に信頼をおく者は、敵のどんな力にも輝かしい勝利を収めると約束されています。神様はあなたにこう知らせたいのです。「あなたは必ず勝利を収めます。しかしただ打ち勝つだけではなく、わたしの王国のために、あなたの内にさらに素晴らしい計画を立てているのです。あなたはこの戦いから、どうしたら良いか分からない程の戦利品を持って歩み出るでしょう」と。

2008年12月4日木曜日

霊の戦いにおける戦利品

「彼らは主の神殿を修理するために戦利品の一部を聖別した。」(歴代誌上26:27)この聖句は、非常に意味深く、人生を転換させる様な、驚くべき真実を示しています。それは戦いにおいてしか、勝ち得ることの出来ない戦利品について語っているのです。そしてその戦利品を勝ち取ってから、彼らは神様の宮を建て上げるためにそれらを聖別しました。

この聖句に隠された、力強い真理を完全に理解するなら、なぜ主が私達の人生に厳しい霊的戦いを許されるのかが理解出来ます。多くのクリスチャン達は、神様を受け入れたなら困難はもう訪れることがなく、残りの人生はなだらかな船路が続くと思っています。これ程真実からかけ離れたものはありません。神様は戦いを許されるばかりか、私達の人生において、それらの戦いに素晴らしい意図をもっておられます。

戦いにおける戦利品とは、何でしょうか。戦利品とは、略奪したもの、勝者によって戦いで勝ち得たものを意味します。聖書では創世記の14章で、他国の王達が連合してソドムとゴモラを侵略した時に、初めて戦利品についての記載があります。これらの侵略者達は、ソドムとゴモラの地の住民を捕虜とし、その所有物を略奪しました。「ソドムとゴモラの財産や食糧はすべて奪い去られ、ソドムに住んでいたアブラムの甥ロトも、財産もろとも連れ去られた。」(創世記14:11〜12)

甥のロトが捕虜とされたと聞いたアブラムは、318人の僕を集めて、敵の王達を追跡しました。聖書は、彼が侵略者に襲いかかり、「すべての財産を取り返し、親族のロトとその財産、女達やそのほかの人々も取り返した」と記しています。(14:15〜16)

この場面で、勝利に満ちたアブラムを思い描いてみて下さい。彼は喜びに満ちた人々と、山と積まれた様々な物を乗せた台車の列を先導していました。途中彼はサレムの王であるメルキゼデクに出会います。聖書は、彼がこの王に戦利品の什一を献げる様に導かれた、と記しています。(14:20参照)「この人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムさえ、最上の戦利品の中から十分の一を献げたのです。」(ヘブル人への手紙7:4)

ここに、神様が私達に理解を促す原理があります。私達の主は、私達が勝利を収めるか否かより、もっと大きなことに関心を寄せておられるということです。主は私達に、戦利品や、様々な物、霊的な富を与えたいと願っていらっしゃいます。私達は、様々な資源で山積みの台車を持って、戦いから歩み出るべきなのです。これこそ、次の箇所でパウロが語っていることです。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」(ローマ人への手紙8:37)
ダビデは、戦いで勝ち得た戦利品に対して、敬虔な態度を示しました。彼が人生の終盤で立てた制令に、それを見ることが出来ます。ダビデは彼の息子、ソロモンをイスラエルの王として任命しました。そして国のリーダー達を呼び集め、神殿の維持に関して、神聖なる命令を立てようとしました。この聖なる働きに際して使われた資源は何だったでしょうか。「彼らは主の神殿を修理するために戦利品の一部を聖別した。」(歴代誌上26:27)

この前後の状況を説明しましょう。すべての戦いに勝利する度に、ダビデは戦利品を勝ち取り、金、銀、真ちゅう、材木、金銭など、数えきれない程のものを蓄えました。ダビデにはたった一つの意図がありました。それはこれらの戦利品を、神殿建築に用いるということでした。

聖書が神殿維持について語る時、原文のヘブル語では「家を直す、建てられたものを強化する」という意味があります。これらの資源は、神殿の最初の荘厳さを維持する為に、用いられるべきものだったのです。

今日、神様の宮はどこにあるのでしょう。それは神様の人々、すなわちあなたと、私と、世界中にある主の教会からなります。パウロによると、私達の体は聖霊の宮とされています。そして古代イスラエル同様、私達の主は、今も戦利品を用いて御自身の神殿を維持されているのです。ですから、私達の霊的戦いは、単なる生存の糧以上のものがあるのです。戦いの一つひとつを通して、神様は豊かな富と資源を、私達に備えてくださいます。神様は私達の戦いによって、豊かに資源の貯蓄をなさいます。そしてこれらの戦利品は、イエス・キリストの教会を建て上げ、また維持するために聖別されているのです。 

考えてみてください。ソロモンが神殿を建築した後何年も、貯蓄してあった戦利品によってその維持がなされました。神様の宮は活気に満ちていたのは、神様の民が、ただすべての困難に勝利するだけではなく、多くの戦利品をもってその戦いから歩み出たからです。この「戦いによる供給」という原理は、聖書のいたるところで見ることが出来ます。

2008年12月3日水曜日

複製の出来ない霊性

ここニューヨーク市では、ロレックスの腕時計が15ドルで購入出来ます。ニューヨーク市民なら誰でも知っている様に、これらの腕時計は本物のロレックスではありません。それらはコピー商品、すなわち非常に安価な偽物なのです。

今日、すべてのものに対して、コピー商品が出回っている様に見受けられます。しかしたった一つ、絶対に複製出来ないものがあります。それは真の霊性です。真の霊によるものは、何一つ複製することが出来ないのです。主は御自身の作品を御存知で、人の手によって複製された神の業の偽物を、決して受け入れられません。何故でしょうか。それは真の霊性を、人の手によって複製することは不可能だからです。それは聖霊の御業によってのみ、可能なことなのです。聖霊は神の民の内で、絶え間なく新たな働きを続けています。そしてその働きを、人間の手で複製することは絶対に不可能なのです。

ここに、今日の宗教の大きな誤りがあります。ただ聖書の知識や原則を人々に授けさえすれば、その人達は霊的になると思ってしまっています。しかし真実は、誰も、どんな団体も、人々の内に霊性を生み出す力を持っていないのです。ただ聖霊だけに、その力が与えられています。

私達の内に働かれている、神様の霊の御業のほとんどは、目で見ることが出来ません。ですから真に霊的な人達は、目に見える証拠を探したりしません。パウロはこう語っています。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(第二コリント人への手紙4:18)

この前後の箇所でパウロは、苦しみと困難について語っています。彼は、「聖霊以外は誰も、私達に何が起こっているのか、完全に知り得ません。そして厳しい試練の最中にある時にこそ、真の霊性が問われるのです」と言っています。

神様の霊の導きに委ねている人達、すなわち困難にあっても、それは主がその人の内で何かを生み出そうとしているのだと確信している人達は、試練のるつぼから揺るぎない信仰をもって出てきます。そして彼らは、すべてがうまくいっていた時よりも、困難にある時の方が、聖霊によって多くを学んだと、証しするのです。

私の長年に亘る主との歩みの中で、人生がうまくいっている時には、霊的な成長を見ることがあまりありませんでした。むしろ、その様な霊的成長は、聖霊が許された困難、苦痛、試練を乗り越えた時に見られました。

彼自身の信仰生活の中で、パウロはこう言いました。「聖霊ははっきりと、苦難が私を待ち受けていると告げられました。」(使徒業伝20:22〜23参照)事実、パウロの人生は、常に困難で満ちていました。困難は絶えることなく、彼の上に降り掛かったのです。

「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」(第二コリント人への手紙4:17)パウロによると、困難や苦難は私達の内に永遠の価値を生み出してくれます。彼は「地上での困難は、おそらく命がある限り続くでしょう。しかしそれも永遠と比べれば、ほんの一瞬の様なものです。そして今、困難を耐える私達の内に、神様が永遠に続く神様の栄光を明らかにしてくださっているのです」と語っています。

2008年12月2日火曜日

キリストを勝ち得る

「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められたからです。」(フィリピ人への手紙3:8)

パウロは完全に、主に魅了されていました。ではなぜ、キリストを“得る”必要があったのでしょう。キリストは、使徒だけにではなく、彼の人生において、既にはっきりと御自身を表されました。しかしそれでも、パウロはキリストの心と愛を勝ち取らねばならない、と強く感じたのです。

パウロの存在すべて、すなわち彼のミニストリー、人生、そして人生におけるすべての目的は、彼の主である神様を喜ばせることだけに焦点が当てられていました。その他のものはすべて、例え良いものであっても、塵あくたにしか過ぎませんでした。

この箇所で「イエス様の心を勝ち取るとは、どういうことだろう」と思われるかも知れません。神様の愛は、すでに私達に注がれているのではないのでしょうか。事実、神様の情け深い愛は、人類すべてに注がれています。しかし、ほんの一握りのクリスチャンしか経験したことのない、もう一つの愛があるのです。それは妻と夫との間に見られる様な、キリストとの親密で深い愛です。

この愛は、雅歌に表現されています。雅歌はキリストの愛を示すものとされ、ある箇所では、主が花嫁を次の様に語っています。

「あなたはわたしの心をときめかす。あなたのひと目も、首飾りのひとつの玉も、それだけでわたしの心をときめかす・・・花嫁よ、あなたの愛は美しく、ぶどう酒よりもあなたの愛は快い。」(雅歌4:9〜10)

キリストの花嫁は、主を喜ばせたいと願い、他の何ものからも離れ、従順に生きている、聖い人々のことです。そしてキリストの心は、彼らに対してときめきます。ここで使われている「ときめく」という言葉は、“心を失う”または“心を奪われる”という意味があります。キング・ジェームス訳の聖書では、キリストの心はたった一目でときめいた、と記されています。この「一目」とはキリストだけに注がれた、誠意のことだと思います。

2008年12月1日月曜日

金よりも尊い

エステル妃のお話は、聖書の中でも、最も厳しい霊的戦いを記したものの一つです。悪魔はハマンを用いて、地上での神様のご計画を阻止しようと企みました。この裕福で影響力を持った男は、ペルシアの王を説得し、インドからエチオピアをまたぐその王国内のユダヤ人を、一人残らず抹消する様、命令を下したのです。

ハマンが最初に見たユダヤ人は、義なる人であったエステルの叔父、モルデカイでした。ハマンはモルデカイのために、特別な絞首台を用意していましたが、その計画はエステルによって阻止されました。それは彼女が、神の民に祈りを要請し、ハマンの命令を撤回させるために、自分自身の命を投げ出したからです。神様は、ハマンが企んでいた悪しき計画を明るみに出されたので、ハマンは自分が立てた絞首台に吊るされました。王はただ死の命令を撤回しただけでなく、今日で言えば何十億ドルもするハマンの家を、エステルに譲り渡しました。

しかしこのお話での戦利品は、ハマンの家だけではありませんでした。聖書は「それはユダヤ人にとって輝かしく、祝うべきこと、喜ばしく、誉れあることであった」と記しています。(エステル記8:16)これらは、敵との戦いにおいて勝ち取った、真の戦利品です。

私達の試練は、霊的な富を与えてくれるだけではなく、私達に強さや純粋さを与え、継続的に維持してくれます。私達が主に信頼を置くなら、主は私達の試練が、金よりも価値のある信仰を生み出す様にしてくださいます。「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、賞賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」(第一ペテロの手紙1:7)

「そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ人への手紙2:15)

イエス様はカルバリによって悪魔に打ち勝ち、そのすべての支配と権威を奪い取られました。キリストが勝利の内に墓から復活された時、主は数え切れない捕虜を、サタンの手から解放しました。そして主の血潮によって購われた行列は、今も行進を続けているのです。

驚くべきことに、カルバリでのキリストの勝利は、死に打ち勝つことよりもさらに素晴らしいものを与えて下さいました。それはこの人生においての戦利品、すなわち、恵み、憐れみ、平和、赦し、力、信仰、等勝利にある人生を歩むために必要なものすべてです。主は御自身の宮を維持するため、必要のすべてを備えてくださっています。「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。」(ヘブル人への手紙3:6)
聖霊はここで、驚くべき真実を解き明かしてくださっています。それは、イエス様が御霊の内に、私達のすべての必要を与えてくださっている、ということです。しかし主の宮の維持するために、その宝庫を訪れるのは、私達の役目であり、主の宮を維持するために必要なものはすべて、直接私達の戦利品からくるべきなのです。

維持のために必要なものは、キリストがすべて与えてくださっています。主は私達を神様の住まいに導き入れてくださいました。主がその家の礎となり、その家全体を完全に清められたのです。最後に、主は私達に至聖所へのアクセスを与えてくださいました。すなわち信仰によって、私達は完全に整えられ、宮として完成させられるのです。イエス様は、未完成の家を建てられたのではありません。主の宮は完成しているのです。

この宮は、きちんと維持されていなければなりません。常に修理が行き届いていなければなりません。もちろん、必要なものはすべて、キリスト御自身の御霊の内に与えられています。キリストこそ、すべての戦利品の出納官なのです。これらの戦利品は、私達がその必要を感じ、神様と恊働する時に解放されます。

神様との恊働は、私達が試練のただ中にいる時に始まります。試練の真っただ中で、私達が勝ち得るのは、キリストらしさです。敵との戦いから、教訓、信仰、練達を戦利品として勝ち取ります。戦いには価値があります。ですから、これらの戦いから良きものが生まれると、確信出来るのです。

2008年11月28日金曜日

信仰によって試練と向き合う

もし試練も、争いも、衝突もなかったら、私達はおそらく消極的で生温い者となってしまうでしょう。腐食が進み、私達の宮は、やがて廃虚と化してしまいます。勝ち取った領域を、管理することも出来ません。敵の計画は明白です、それは私達を戦いから退けてしまうことです。敵のねらいは、私達からすべての戦いを取り除いてしまうことなのです。

戦い続ける強さや、敵を打ち負かす力等、私達には霊的な戦いを続けるのに、必要なもののすべてが与えられています。そして私達が、いつの日か主の御前に立つ時、主は「あの時何が起こったか、覚えているか。あの厳しい戦いを。それを通して達成したことのすべてを見てごらんなさい。これらの成果はみな、あなたが勝ち取った戦いによって、確保されたのだよ」と解き明かしてくださいます。

単純かつ明白な事実とは、神様が人間の体の内に、素晴らしい宝を納めてくださっている、ということです。神様はあなたを、神様の霊が宿られる宮とされました。あなたには、この宮を管理する責任があります。もし怠惰で軽卒になってしまい、維持に必要な働きを怠ってしまうなら、すなわち、定期的な祈り、御言葉による養い、他の聖徒らとの交わりを怠るなら、腐食が始まってしまいます。そしていつしか、完全に廃虚と化してしまうのです。

50年に亘る、自分のミニストリーを振り返る時、何度も投げ出してしまいたくなった場面がありました。そんな時には、「主よ、この攻撃は何故起こっているのですか。どこから来たのですか。一体いつ終わるのですか。これに対する目的など、全く見えません」と祈ったものです。しかし時が経つと、やがてこれらの試練の成果が、見られるようになりました。そしてその成果とは、資源、力、霊的な富であり、その他の方法では、どうやっても手に入れられなかったものでした。

皆さんに強く勧めます。あなたに襲いかかる試練を、信仰によって捉え、神様がそれを許されたのだ、と信じるのです。神様はその試練を通して、あなたをさらに強めようとされているのです。それはあなたがサタンを阻害するため、あなたを周りの人々の祝福とするため、すべてを聖め神様の栄光とされるためです。

「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものではないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」(第二コリント人への手紙4:7〜9)

「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(第二コリント人への手紙4:17〜18)

2008年11月27日木曜日

恐れてはなりません

もしあなたが御霊と共に歩むなら、絶えず悪霊からの攻撃に遭うでしょう。しかし、どんな悪の力をも恐れる必要はありません。いつ、どんな所であっても。

パウロは常に、悪の力から攻撃を受けていました。彼がパフォスという所で宣教していると、悪霊が彼を邪魔しようとしました。「ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。彼は対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした。」(使徒行伝13:6〜8より抜粋)

「バルイエス」とは、“イエスの息子”又は“光の天使”という意味があります。これは悪魔がパウロに反抗していた証しです。しかし聖霊が、使徒パウロの内に満ちていました。「パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、言った。『ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。』するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。」(使徒行伝13:9〜12)

パウロは“聖霊に満たされ”すべての闇の力を打ち倒したのです。

悪魔があなたを攻撃することに、悲しみを抱くだけでは十分ではありません。使徒行伝16章で、パウロは悲しみました。「悲しむ」とは、“動揺する、思い悩む”という意味があります。彼は何日も悲しみに暮れていましたが、神様の霊がパウロの内に満ちたので、彼は悪の力にこう言い放ちました。「もう十分だ!イエス様の御名によって命じる、悲しみよ、消え去れ!」(使徒行伝16:16〜18参照)

愛する皆さん、私達は悪魔が好き勝手にするのを、許してしまっています。時には私達も、聖霊の力によって立ち上がり、「もう十分だ!イエス様の御名によって命じる、消え去れ!」と言い放つ必要があります。

私達が権威を掲げて、悪魔に立ち去る様命じるなら、サタンはありとあらゆる武器をもって、あなたに攻撃をしかけてくるでしょう。パウロが、使徒行伝16章16節から18節において、悪霊に取り憑かれていた女性を癒した直後、サタンは事を起こし始めました。会衆を誘導し、パウロとシラスに対して暴動を起こさせたので、彼らは突如、大変な危機に陥りました。

市の高官は、彼らを鞭打ち、投獄するよう命じました。彼らの背中に振り落とされた、鞭の一振り一振りに合わせて、サタンがこう言うのが聞こえてきます。「勝利を得たとでも思ったのか。わたしの悪魔を追い出し、わたしに勝る権威を握っているとでも思ったのか。」

悪魔は、御霊のうちに歩む神様の僕が鞭打たれれば打たれるほど、さらに賛美が生まれるということを、知らなかったようです。その人を危機に陥れ、問題や苦難で縛り付けたとしても、彼は歌い、叫び、高らかに賛美を捧げるでしょう。

「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。」(使徒行伝16:25)

もし私達が御霊のうちに歩むなら、神様が私達をいかなるサタンの束縛からも、超自然的な力をもって救い出して下さると、信じなくてはなりません。神様がそのために、地震を起こされるかも知れません。事実これこそ、神様がパウロのために成されたことです。

「突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。」(26節)サタンは、あなたが今まで経験をしたことがない様な、ひどい苦難や試みをもたらそうとします。サタンはあなたを、罪悪感や自責に落し入れたいのです。愛する聖徒の皆さん、あなたは聖霊のうちに立ち上がり、あなたを取り巻く環境や、あなたを縛り付けるものから目をそらさなくてはなりません。すべてを自分の力で解決しようとするのは、止めましょう。神様を讃え、賛美を捧げ、神様に信頼するのです。神様があなたを救い出してくださいます。

2008年11月26日水曜日

聖霊と共に歩むことの奥義

サムエル記上9章には、サウルが逃げ出したロバを探す様、父親から命じられたことが記されています。僕を従えたサウルは、ありとあらゆる所を探し回ります。最終的に彼は落胆し、探すのを止めようとします。しかしその瞬間、サウルの僕は、彼に先見者であるサムエルのことを、「彼だったらロバを探し出すことが出来るかも知れない」と話します。

ここでのサムエルは、神様の御心を知る者として、いわば聖霊の様な働きをします。彼の内には、ロバの居場所以上のものが、与えられていたのです。彼はサウルが神様によって選ばれ、天の永遠の目的を果たすために、大きな役目を担っていることを知っていました。

サウルが訪ねて来た時に、まずサムエルがしたことは、祝宴を開くことでした。(サムエル記上9:19参照)これこそ、御霊が私達に望んでおられることです。それは私達が、主の祝宴の座につき、神様の御心に耳を傾けることを意味しています。

サムエルはサウルに、共に交わることが出来る様、心配事をすべて捨て去るように命じました。(サムエル記上 9:20〜25参照)サムエルはこう、言っていたのです。「ロバの居場所に気を向けてはなりません。それは既に解決しています。それよりもずっと重要なことが、起ころうとしているのです。それには、神様の御心に触れ、神様の永遠の目的を知ることが必要です」と。

その夜、交わりの時間を持った後、二人だけで密接な対談が持てる様、サムエルはサウルに、彼の僕に席を外してもらうように命じました。(サムエル記上9:27、10:1参照)

神様がここで何を言わんとしていらっしゃるか、分かりますか。「もしあなたが、本当に御霊によって歩みたいのなら、本当にわたしの油注ぎを望むのなら、ロバの居場所以上のものを、求めなければならない。わたしの臨在に入り、わたしの御心と願いを知らなければならない。わたしの願いは、あなたに油を注ぎ、わたしの御国のために用いることなのだ。」

愛する皆さん、ロバの居場所のことなど忘れて下さい。居場所だけでなく、その他すべてのことを忘れ去ってしまうのです。聖霊があなたに、神様の奥義を解き明かされるままに、委ねて下さい。神様の臨在に固く立ち、あなたに御心を分かち合われるのを待つのです。これこそ、御霊に導かれて歩むことの極みです。

主の臨在の内に時を過ごすことで、失われた世にキリストを示すことになります。

「わたしたちは落胆しません・・・真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。」(第二コリント人への手紙4:1〜2)使徒パウロは、私達が真理を表す者として召されているのだと語っています。もちろん私達は、イエス様こそが真理であると知っています。ではパウロが「あなたがたは真理を表す者だ」と言う時、彼は一体何を意味しているのでしょう。

パウロはここで、目に見える表現のことを語っているのです。「明示」とは、あることに光を当て、それを明確にし、理解し易くするということです。簡単に言うならば、パウロは人々がイエス様を知り、理解し易くなる様に、私達は召されているのだ、と言っているのです。私達一人ひとりの人生を通して、キリストの性質が輝き出されるべきなのです。

パウロはこの「キリストの明示」に関して、さらに述べています。彼は私達が、世界に対する神様の手紙なのだ、と言っているのです。「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それはわたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」(第二コリント人への手紙3:2〜3)私達の人生は、聖霊によって書かれ、世の人々のために送られた手紙なのです。そして私達は、周囲の人々によって、読まれ続けます。

一体どうやったら、神様の世に対する手紙になることが出来るのでしょうか。それは御霊の働きによってです。私達が救われた瞬間に、聖霊は私達の内にイエス様のイメージを焼き付けられました。そしてそのイメージを、私達の内に日々映し出します。聖霊の使命は、私達の内にキリストのイメージをはっきりと、また正直に映し出し、人々の良心に語りかけるようにすることです。

2008年11月25日火曜日

聖霊の導きのまま歩むとは

「聖霊に導かれて歩みなさい」という御言葉は、一握りの特別な聖徒に与えられているのではなく、すべての人に対して与えられています。ここに、どうやって聖霊の導きを手に入れるかが記されています。「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい・・・」(ガラテヤ人への手紙5:16)

1.あなたのすべてをもって、この導きを求めなければなりません。まずは聖霊に、あなたの友、また案内人となって欲しいとお願いするのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(ルカによる福音書11:9)

もしあなたが救われていらっしゃるなら、聖霊はすでに、あなたに与えられています。ただ御霊に、主権を握っていただく様お願いし、すべてをお委ねするのです。心の中で、聖霊の導きに従うのだ、という決心をする必要があります。モーセは後の日のことに関して、こう語りました。「しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めなければならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。」(申命記4:29)

2.聖霊の御声を聞き分けることに集中し、あなたの抱える問題や試みから、目を背けなければなりません。もしもパウロとシラスとテモテが、問題に焦点を当てていたなら、彼らは恐れと絶望感に飲み込まれていたことでしょう。しかし彼らは、賛美と礼拝を捧げることで、神様に焦点を当てていました。

私達が祈る時よく、過去の失敗に焦点を当てることがあります。過去の失敗を何度も再生し、「もしあんな失敗を犯して、神様をがっかりさせていなかったら、今頃はもっと人生の先を歩んでいただろうに」と言います。

過去のことは、すべて水に流してしまうのです。あなたの過去はすべて、イエス様の血潮によって覆われています。そして未来も捨て去るのです。神様だけが、あなたの未来を御存知だからです。その代わり、あなたの思いと心のすべてを、聖霊だけに向けるのです。

3.聖霊との交わりに、時間を割かなくてはなりません。聖霊は、急いでいる者にお語りになられません。忍耐をもって、待ち望むのです。主を求め、賛美を捧げるのです。あなたに囁きかける偽りの声に、耳を貸してはなりません。聖霊がそれらの囁きよりも偉大であること、またあなたが惑わされたり、騙されたりするのを聖霊がお許しになられないこと信じるのです。

「あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。」(第一ヨハネ4:4)

2008年11月24日月曜日

神様はあなたを愛しておられます!

天のお父様は、あなたを愛しておられます。しかし、これは多くのクリスチャン達にが、神様を完全に受け入れられていない点でもあります。彼らは何度も、罪悪感や敗北感を味わうことを許します。しかし一方で、神様の御霊がお父様の愛によって、彼らを満たすことを許可出来ずにいます。

律法主義者は、罪の意識の下に生きることを、生き甲斐としています。その人は、神様の愛を完全に理解することも、聖霊が神様の愛によって、彼の霊に働きかけるのを許可することも出来ないでいます。

私達、タイム・スクエアー教会では、義なる人、また心からイエス様を愛する人は、叱責を好む、と教えてきました。その人は、聖霊がその人の内に隠された、罪や不信仰をあらわにすることを許す様になります。なぜなら、罪と向き合えば向き合う程、その人はさらなる喜びと解放を味わうことが出来るからです。

しかし多くのクリスチャン達に見られるのは、「裁きを与え続けて下さい、主よ。私の罪を指摘し、叱責して下さい」という態度です。これは真の罪の意識とは異なります。私のニュースレターに対する返答・意見に、この様な反応が多く見受けられます。私が裁きに満ちたメッセージを書くと、それに同意する返事が押し寄せます。

しかし、私がイエス様の愛の素晴らしさについて語ると、「あなたはもう、真実を語っていない」と綴った手紙を受け取ります。それはまるで、人々が「叱責なしのメッセージは福音ではない」と言っているかの様です。この様な信者は、聖霊による大きな“愛の計画”に触れたことがないのです。

これは、聖霊に導かれて歩むことを、経験から学ばなくてはならない対象の一つです。そしてそれは感情によって、左右されるべきではありません。聖霊に導かれて歩むとは、御霊が私達に遣わされた使命を、私達の内に果たすことを許すということです。そしてそれは、今、あなたの心を神様の愛で満ち溢れさせることなのです。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ人への手紙5:5)

イザヤはこう言っています。「母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける。」(イザヤ書66:13)イザヤは、「(神を)背き続け、心のままに歩んで」いた、頑固な神様の民に書き記したのです。(イザヤ書57:17)

指導を聞き入れず、頑固で聞き分けのない生徒を、先生はどれ程我慢し続けるでしょう。そう長くはありません。しかし預言者イザヤは、人間にとっての最高のイメージを用いました。それは、母の子に対する愛です。そしてこのイメージによって、私達に対する神様の愛を示したのです。

私の教会に集われている、あるお母さんは、州の外れにある刑務所に収容中の息子さんを、一日がかりで訪ねて行かれます。彼女は、たった少しの面会時間の為に、何時間もバスに乗って行くのです。この様なお母さんは、くすんだ刑務所の制服に身を包んだ息子を窓越しに見つめ、彼の瞳の奥に隠された苦難を見ます。そして訪問する度に少しずつ、彼女の内で何かが死んでいくのを体験します。しかし彼女は、決して息子さんを見放しません。彼は今でも、彼女にとっては息子だからです。

これこそ、聖霊が伝えようとしておられる、私達に対する神様の愛なのです。御霊はこう語ることで、私達に慰めをもたらします。「あなたはかつて、イエス様にすべてを捧げると言いました。あなたの愛を捧げると言いました。そしてイエス様は、今もあなたを愛しておられます。そしてわたしも、あなたを決して見放したりしません。わたしはイエス様によって、ある使命を与えられたのです。そしてその使命を果たすために、働き続けます」と。

御霊による以外に、この世での真の慰めはありません。だからこそ、あなたの内に聖霊が宿られることが必要なのです。聖霊だけが、夜、あなたを温かな布団に寝かしつけ、あなたの心を完全なる平安で満たすことがお出来になります。聖霊だけが、あなたが苦しみと痛みを覚える時に、真の慰めを与えることがお出来になります。聖霊こそ、「これはその場しのぎの慰めではありません。これは永遠の慰めです」と言って、私達に確信を与えてくださるのです。

2008年11月21日金曜日

砕かれて、聖霊によって満たされなさい

旧約・新約両聖書において、聖霊は非常に珍しい方法で、人々の上に降りました。建物を震わせ、人々は異言によって神様を讃える様になりました。そこには聖霊による、完全な支配がありました。

ペンテコステの日には、聖霊が力強く、激しい風として降りました。聖霊が注がれた時、すべてのものが揺り動かされました。(使徒行伝2:4及び 4:11 参照)

バプテスマのヨハネはこう教えました。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしはその方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(ルカによる福音書3:16)

愛する皆さん、聖書は明確に語っています。イエス様があなたの元に来られる時、彼はあなたが聖霊と火による洗礼を受けることを望んでおられるのです。聖霊は火をもたらします。その火とは、真っ赤で熱い、イエス様の愛のために燃える炎です。では、何故多くのクリスチャン達が、熱くなったり、冷めてしまったりして、なかなか自分を捧げきることが出来ないのでいるのでしょうか。それは彼らが、イエス様による聖霊の洗礼を受けることを、拒絶しているからではないでしょうか。

「その方(聖霊)が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」(ヨハネによる福音書16:8)これらのクリスチャンが確信に至ることが出来ないのは、彼らの内の玉座に着く様に、聖霊を招き入れていないからではないでしょうか。聖霊は神様の測量機です。キリストに対して不適切なものはすべて、聖霊がそれを明らかにし、私達が御言葉に従う様、力を与えてくださいます。この様な時にこそ、聖霊は私達の慰め主となられます。なぜなら聖霊は、私達の罪を明らかにし、それを捨て去る様、力付けてくださるからです。これこそ真の慰めです。

聖霊は決して、あなたに馬鹿げたことをさせたりなさいません。しかし時に聖霊が降りると、罪人達からして見れば、まるで私達が酔っぱらっているかの様に振る舞うことがあります。多くの教会で、聖霊はあまり受け入れられていません。それは聖霊が、騒がしく、気分を害し、予測不可能なものであると思われているからです。

2008年11月20日木曜日

御霊の働き

聖霊は、無秩序でいい加減な方法で、私達の内に働かれる訳ではありません。私達がうまく人生をこなし、危機や寂しさに沈む夜を乗り越えるのを助ける為だけに存在している訳でもありません。私達を競技場に戻す前に、少し力を与えようと待っておられる訳でもありません。

聖霊が成される御業のすべては、聖霊が来られた理由に関わっています。それは私達を花嫁として、御国に連れて行くということです。御霊は、その使命を果たすためだけに働かれます。そう、聖霊は私達の案内人であり、慰め主であり、弱い時の力です。しかし、私達を救い出すためのこれらの御業のすべて、すなわち、私達の内で御自身を表される御業の一つひとつは、私達を花嫁として整えることを目的としているのです。

また、御霊はただ世に賜物を与えるためだけに存在している訳ではありません。そうではなく、御霊の与える賜物の一つには、それぞれ目的があるのです。聖霊が掲げるメッセージはたった一つ。すべての教えは、ある中核的な真実に向かっています。私達の内で、聖霊は宝石の様に輝いておられるかも知れませんが、その輝きの一つひとつは、私達に唯一の真実をもたらすためにあるのです。そしてその真実とは、次の通りです。

「あなたは自分のものではありません。代価をもって購われたものです。キリストの花嫁として選ばれた者なのです。そして、あなたを他のどんな切望からも解き放つために、神様の霊が遣わされているのです。真実こそ、罪の束縛をすべて解き、不信仰を取り扱ってくれます。あなたはこの世に属する者ではありません。あなたには、素晴らしい花婿との対面と、婚礼の宴が待ち受けているのです。すべての準備は整っているので、わたしがあなたの準備を手伝っているのです。神様への激しい愛を内に秘めた、非の打ち所のない者として、あなたを紹介したいのです。」

これこそが聖霊の御業です。キリストを教会に表すことで、私達がキリストと恋に落ちるためです。そしてこの愛こそ、私達を支えるのです。

2008年11月19日水曜日

信仰によって聖霊を受ける

「あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。」(ガラテヤ人への手紙3:2)聖徒の皆さん、この聖句はあなたの信仰を燃やし、信仰によって神様の約束を信じるよう促すべきです。「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。」(ヤコブの手紙1:6〜7)

この賜物が与えられる様、神様に求められましたか。聖霊を求めておられますか。扉を叩き続けておられますか。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカによる福音書11:13)

ただ求めれば、受け取ることが出来るのです。聖霊の洗礼を受けることを天のお父様に求めれば、神様は必ず与えてくださいます。

私達はこの世にはびこる悪に直面します。悪魔はその力を振りかざし、悪しき霊の大軍は、御国との最後の戦いに備えています。しかしサタンは、聖霊に満ち、信仰と従順の内に歩む、義なる神様の子どもに立ち向かうことは出来ません。真に聖霊に満ちたクリスチャンは、地獄の大軍を追い払う者です。

神様、どうか聖霊を遣わしてください。聖霊を注いでください。聖霊によって、力強く洗礼を授けてください。そして揺るぎない信仰と共に、サタンが強く働く所へと、私達を遣わしてください。

使徒パウロは言いました、「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ人への手紙5:16)また、こうも語っています。「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(5:25)

クリスチャンとして、私達は「聖霊の導きに従って歩む」という言葉を幾度も耳にしてきました。多くのクリスチャン達は、聖霊の導きに従って歩んでいると言うものの、それが本当にどういう意味なのか、しらないでいます。お尋ねしましょう。あなたは聖霊の導きに従って歩み、聖霊の内に生きていらっしゃいますか。そしてそれはあなたにとって、どういう意味がありますか。

私にとって「聖霊の導きに従って歩む」とは、次の一文に集約されます。それは“聖霊の導きに従って歩むことは、ただ私達の内で、神様が聖霊を遣わされた業の成就をゆるすこと”です。

何故神様が聖霊を遣わされたかを理解するまで、あなたの内で聖霊が働かれるのをゆるすことは出来ません。

聖霊は、神様からたった一つの永遠の目的を果たす為に、私達の元へ遣わされました。そして私達が、この聖霊の使命と私達の内での働きを理解しないならば、次の2つの内、どちらかの間違いを犯すことになります。一つ目は、ほんの少しの霊的な賜物を受け取る等、限られた聖霊の御業で満足し、私達の人生において聖霊が成そうとされている、素晴らしい永遠の目的を見逃してしまうことです。二つ目は、聖霊を求めながら、私達の内で完全に聖霊を無視してしまうことです。それは聖霊が神秘的であり、その存在は信仰によって受け取るもので、私達には決して理解することが出来ないものである、という考えからきます。

聖霊は、あなたの内で、また私の内で、確信を与え、聖め、力を与え、備えるために、私達の元に来てくださいました。聖霊は、私達をキリストと結ばれる花嫁として整えるために、この世に遣わされているのです。

旧約聖書時代の信者と聖霊の関係を示したものが、創世記24章に記載されています。アブラハムは、彼の最も年老いた僕、エリエゼルを遣わし、息子であるイサクに花嫁を探し出す様、命じました。エリエゼルという名前は、「力強い、神の助け手」という意味があり、言ってみれば聖霊の様なものです。そしてこの力強い助け手が、リベカをイサクの花嫁として連れ帰って来た様に、聖霊もまた、私達の主、イエス・キリストの元に、必ず花嫁を連れ帰られます。

神様はリベカをイサクの花嫁として選ばれました。そして神様は、エリエゼルを彼女の元へ、真っ直ぐに導かれました。この僕の任務と目的のすべては、たった一つ。それはリベカをイサクの元の連れ帰ることでした。彼はリベカに、彼女の持っていたものすべてを捨て、イサク自身に、またイサクと結婚することに夢中になるよう、働きかけねばなりませんでした。リベカの両親は、エリエゼルに告げました。「このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申することはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻になさってください。」(創世記24:50〜51)

そしてこれと同じことが、皆さんと私にも起こっているのです。神様は私達を、神様の花嫁として選んでくださいました。私達の救い、すなわちキリストのものとして選ばれることは、主の御意志によるものです。神様は私達をイエス様の元へと導くために、聖霊を遣わされました。もし私達が彼を信じるなら、聖霊は私達を、キリストの永遠の花嫁として無事に連れ帰ってくださいます。

2008年11月18日火曜日

「アバ父よ」

聖霊は、私達とイエス様、及び私達と父なる神様との関係を、簡素化してくださいます。 私達に「アバ父よ」と神様に呼びかける様、促してくださるのは、聖霊です。

この表現は、聖書時代に東洋で用いられていた、養子縁組にまつわる習慣から来ています。養子縁組の書類がすべて整い、養父によって承認されるまで、養子とされた子どもは、養父をただの父としてしか呼ぶことが出来ません。「アバ」とは“私の父”という意味なので、養父を「アバ父よ」と呼ぶ権利がないのです。

しかし、書類が整い、登録が済み、承認を受けるや否や、養子とされた子どもの世話役は、彼を養父の元へと連れて行きます。そしてその時初めて、彼は「アバ父よ!」と呼ぶことが出来るのです。養父の腕に抱かれ、その子は、「私のお父さん、あなたはただの父ではなく、私のお父さんです」と叫ぶのです。

これこそが、聖霊の働きとミニストリーです。御霊はキリストについてのあなたの世話役であり、あなたを父なる神様の元へと導きます。そしてこう、私達に告げるのです。「書類はすべて承認を受けました。あなたはもう、孤児ではありません。法的に、神様の子とされたのです。あなたには、ひたすらに愛と富と力に満ちた父がいます。彼に抱きつきなさい。『わが父よ』と呼んでごらんなさい。あなたに神様がどれ程あなたを愛しておられるかを示すため、わたしは来たのです。神様はあなたを愛しておられ、あなたを求めておられます」と。

私達の叫びは、これ以上とない喜びと感謝からくるものであるはずです。私達の内におられる御霊は、「あなたは神様の相続人です。イエス様が勝ち取られたものすべてを相続する者です」と叫んでおられます。この様な素晴らしい財産を相続することが出来るのは、あなたのお父様が宇宙一裕福な方だからです。神様に近づくことをためらう必要はありません。お父様はあなたに対して怒りを燃やしておられる訳ではありません。貧しさに打ちひしがれ、喜びと霊的勝利を失った孤児の様に振る舞うのは止めましょう。あなたは見捨てられてはいないのです。お父様の存在を、存分に楽しめば良いのです。

私達は見捨てられていないばかりか、迷いや苦しみの時にも、聖霊が私達と共にいてくださいます。
聖霊の任務とは、キリストの花嫁をその花婿がいない間、慰めることです。「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(ヨハネによる福音書14:16)「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(26節)
“慰め主”とは「痛みや悲しみの時になだめる者」という意味です。それは痛みと悲しみを和らげ、安堵をもたらし、慰め、励ます者のことです。しかし私は次のギリシア語の定義が気に入っています。「あなたを温かで、安全な寝床に横たえてくださるお方。」あなたの魂が冷たく暗い闇に沈む時、御霊は、その心地よく、慰めに満ちた御手によって、あなたをやわらかな布団に寝かしつけてくださいます。

御霊を慰め主と呼ぶことで、イエス様は実に確実な予測を立てられました。イエス様は、彼に従う者達が苦しみの目に遭うこと、終わりの日に大きな痛みと苦しみがあり、いかに慰めが必要となるかを予測されたのです。

聖霊は、御自身が神様の力のすべてをもって、あなたの内に住まわれているかを思い起こさせることで、あなたに慰めをもたらします。ですからあなたは、こう叫ぶことが出来るのです。「世界中のすべての力より、悪魔のすべての力より、私の内におられる方の力は勝っている」と。神様は私達を悪魔の手から守られるために、聖霊を遣わされ、その力を与えられたのです。それは、私達の霊を引き上げ、打ちひしがれた思いを追い出して、神様の愛によってあなたの心を満ち溢れさせるためです。

「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。そして希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ人への手紙5:3、5)

2008年11月17日月曜日

御国の前触れ

前触れとは、前もって体験すること、または認識することです。聖書はこれを保証金と呼んでいます。(例:「わたしたちが御国を受け継ぐための保証」エペソ人への手紙1:14より)それは全体を経験する前に、一部のみを体験するという意味です。私達が受け継ぐもの、それはキリスト御自身です。そして私達がキリストの花嫁となり、永遠の交わりを楽しむことの前触れとして、聖霊は私達を主の臨在に導き入れてくださいます。

パウロは神様の内にある人々を「聖霊で証印を押された者」と表現しています。(エペソ人への手紙1:13)これは御霊の働きによって、特別に印をつけられた人々のことを表しているのです。聖霊は彼らの内に、特徴的な印を押し、また素晴らしい内なる働きを起こしたのです。それは彼らを、永遠に変えられた者とする超自然的なものです。

彼らはもはや、ただの信者ではありません。 この世のものではなく、天のものに情熱を寄せているので、彼らはもはや、この世に属する者ではありません。彼らはこの世の出来事に押し流されません。むしろ、彼らは揺り動かされない者となったのです。また彼らは、生温かったり、中途半端だったりすることはありません。それどころか、彼らの心は昼も夜も、「主なるイエス様、早く来て下さい」と叫ぶのです。

一体彼らに何が起こったのでしょうか。聖霊が彼らの内で、何を行ったのでしょうか。何が彼らに、主に属する者だという証印を押したのでしょうか。それは簡単に言うと、こういうことです。聖霊が彼らに、素晴らしい主の臨在を、前触れとして体験させてくださったからです。御霊は彼らに近づき、御国を垣間見せました。それによって彼らは、神様の偉大なる素晴らしさを、超自然的な明示によって体験したのです。御霊は私達に、御国を待ち望む様、“御国の一片”を与えてくださったのです。

黙示録に書かれている終わりの日に、御霊はどんな花嫁をイエス様に備えられるのでしょうか。生温い人でしょうか。中途半端な愛、または冷めきった愛を持った人でしょうか。イエス様を熱愛していない人でしょうか。キリストとの親密な交わりを望まない人がいるでしょうか。

もしあなたが本当にイエス様を愛しておられるなら、常に彼のことが頭から離れないでしょう。あなたの歩みの一歩一歩に、主は臨在しておられます。クリスチャンの中には、「それは死んでからの話だ。天国に行けば、すべては変わる。その時に主の特別な花嫁とされるのだ」と思っている人がいます。いいえ、死が人を聖めるのではありません。御霊は今、ここにおられます。御霊は今生きておられ、あなたの内に働いておられます。あなたが死のこちら側にあるうちに、キリストに対する熱愛を生むために。

ローマ人への手紙8章26節に、御霊が信者の内にいかに強く働かれているかが記されています。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」

ここで使われている「うめき」という言葉は、ギリシア語で“熱望”すなわち、もっとキリストを切望すること、という意味があります。あまりにキリストを切望し、その臨在にたたずんでいるので、深いうめきの他、言葉が何も出て来ないかも知れません。それは「イエス様、あなただけがこの世界での唯一の幸せです。わたしはあなたの良さを体験しました。あなたのすべてを経験させてください」と願うことです。

これこそが、御霊の内に歩む者の印です。その人は、イエス様に対する強い欲求をもっています。パウロ同様、その人はこの世を去り、主とまみえる日を心待ちにしています。

2008年11月14日金曜日

深夜零時1分前

サムエル記上13章で、サウルはすべての信者がいつかは経験しなくてはならない、決定的な瞬間に直面しました。それは、信仰によって神様を待ち望むか、我慢出来ずに自分の手でなんとかしようとするか、という決断を迫られる時です。

サウルにとっての分岐点は、戦争を暗示する不吉な暗雲が、イスラエルの上に広がっていた時に訪れました。ペリシテ人は騎手、鉄製の戦車、最新兵器を振り回す歩兵からなる、大軍を従えていました。一方のイスラエルは、全軍を通して、たった2本の剣しか持っていませんでした。その1本はサウルのもの、そしてもう1本は彼の息子であるヨナタンのものでした。残りの兵は全員、木製の槍や、農道具等、持ち合わせの兵器を使用せねばなりませんでした。

この場面の1週間前、サムエルはサウルに、戦闘に行く前にギリガルにて彼を待つように命じました。預言者は7日後に来て、主に適切ないけにえを捧げると言ったのです。

約束の7日が過ぎてもサムエルの姿は見られず、サウルの兵士達はまとまりを失い始めていました。それどころか、王は戦いに対して、主からの託宣を受けていませんでした。

サウルはどうしたでしょうか。固く立ち、「例えサムエルが8日かかろうが、私は神様からの御言葉に固く立つ。生きるとしても死ぬとしても、私は主の命令に従う」と宣言したでしょうか。いいえ。サウルは狼狽しました。周りの状況に飲み込まれてしまったのです。結局彼は、神様の御言葉を自分に良い様に解釈し、自分のやり方を通しました。サウルはその場にいた祭司に、サムエル抜きでいけにえを捧げる様に命じました。このことによって、彼は主に対して重大な罪を犯してしまったのです。(サムエル記上13:11〜12)

神様が約束に遅れるということは、絶対にありません。主はサムエルがギリガルに向かっている道中の、その一歩一歩を知っておられました。主は預言者を、天のナビゲーションシステムに従わせ、主が定められたその瞬間にギリガルに到着する様、完全に計画しておられたのです。本来ならサムエルは、7日目にはそこに着くことが出来ました。例えそれが、7日目の深夜1分前だったとしても。

神様は歴史を通して、決して変わることがありません。そして今日も、主の民がこの掟に従うかに関心を持っていらっしゃいます。「主の御声に聞き従いなさい、そして主の御命令に背いてはなりません。」(サムエル記上12:15より要約)例え私達の人生が手に負えない状況であっても、それは問題ではありません。私達は、主にある完全な信頼の内に歩むべきなのです。例え絶望的な状況にあったとしても、恐れの内に行動を起こすべきではありません。むしろ、御言葉が約束されている通り、神様が私達を救い出されるのを、我慢強く待つべきなのです。

実際神様は、ペリシテ人の大軍に迫られていたサウルの、すぐ側に立っておられたのです。主はサウルが直面していた危機を御存知で、主の御目は、その詳細のすべてに注がれていました。

私達の神様は、あなたが直面している危機の詳細を、すべて見ることがお出来になります。主はあなたに押し迫る、人生の問題の一つひとつを見ておられます。そして日々、その状況が深刻化していることを御存知です。祈り、揺るぎない信仰と共に神様を待ち望む者は、大変な危険に遭遇することがありません。そればかりか、神様はあなたの「これ程の借金をどうやって返済すれば良いというのか・・・結婚生活に全く望みが持てない・・・どうやったら仕事をクビにならずに済むだろうか・・・」等という、恐れに満ちた思いを、すべて御存知です。しかし神様の御命令は真実です。「恐れず、わたしより先に進んではいけない。あなたはただ、祈れば良い。そしてわたしに信頼しなさい。わたしに信頼を置く者を、わたしは祝福する」と。

神様が教会に対して語られた、次の御言葉を見てみましょう。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」(ヘブル人への手紙11:6)「民よ、どのような時にも神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。」(詩編62:9)「主を畏れる人よ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。」(詩編115:11)「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなた道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」(箴言3:5〜6)

不信仰は致命的で、そのもたらす結果は悲劇的です。もし私達が、主に頼るのではなく、自分の手で試みから逃げ出そうとするなら、恐ろしい結果に直面することになります。

2008年11月13日木曜日

霊的な良薬

「敵をも愛しなさい」という神様の掟は、苦くてまずい薬のようです。しかし、私が小さい頃に飲まされたビーバー香油同様、それは癒しをもたらす薬です。正に「良薬口に苦し」ということです。

イエス様ははっきり、こう語られています。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしはあなたに言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイによる福音書5:43〜44)

イエス様は、律法に反することを語られていたのでしょうか。そうではありません。イエス様は、律法に侵入していた肉の霊を翻そうとされたのです。当時のユダヤ人は、ユダヤ人のみを愛していました。彼らは、異邦人の手を握ることや、さらには異邦人の衣が自分の衣に触れることすら許していませんでした。しかしこれは、神様の律法の本質とは食い違っていたのです。律法は聖く、こう教えています。「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。」(箴言25:21〜22)

私達は政権にある者達の、みだらな行いを憎むことが出来ます。同性愛者や中絶者など、キリストを忌む者達の罪を憎むことが出来ます。しかし主は、彼らを人間として、イエス様が彼らのために死なれた人々として、私達も彼らを愛する様、命じておられるのです。そして彼らのために祈る様、命じておられます。もし私が、ある人の掲げている主義ではなく、その人自身を軽蔑するなら、私はキリストを代表出来ていません。

私はここ、ニューヨーク市の五番街で、同性愛者のパレードを見ました。25万人もの人達が、多くは半裸で、「神様は同性愛者である」と記したサインを掲げて歩いていたのです。また私は、彼らが行列から離れ、「神様はあなたの罪を憎んでおられますが、あなたを愛しておられます」というサインを掲げたクリスチャン達に、食って掛かっている姿を見ました。

私は怒りで顔が真っ赤になりました。ソドムの様に、彼らの上に硫黄の火が降る様に求めたい気分でした。しかし私は反省し、心の中でこう自分に言いました。「私はまるで、イエス様を拒絶した人々の上に、火を降らせて滅ぼしをもたらすよう、弟子達が求めたのと同じである」と。

同性愛は罪です。不貞も罪です。また許さないことや、 無慈悲も罪なのです。

あなたの敵を愛しなさい。好戦的でうっとうしく思う様な罪人達を愛しなさい。彼らのために祈りなさい。迫害する者達を祝福しなさい。

これこそ、イエス様が命じられたことです。

ですから、これを実行しましょう。

2008年11月12日水曜日

ダニエル―異なるタイプの人

ダニエルは自分が砕かれた者であることを語る、異なるタイプの人でした。「わたしは主なる神を仰いで断食し、粗布をまとい、灰をかぶって祈りをささげ、嘆願した。わたしは主なる神に祈り、罪を告白してこう言った。」(ダニエル書9:3〜4)一方でダニエルは神様の御心を知っていたので、時を読むことが出来ました.「わたしダニエルは文書を読んでいて、エルサレムの荒廃の時が終わるまでには、主が預言者エレミヤに告げられたように、70年という年数のあることを悟った。」(ダニエル書9:2)

どうやってダニエルはこの様に砕かれ、知識と識別を持つ人となったのでしょう。それは神様の御言葉を学ぶことから始まりました。ダニエルは、御言葉が彼を支配するに委ねました。そして心に御言葉を蓄えていたので、聖句をよく引用しました。「モーセの律法に記されている通り・・・」(ダニエル書9:13)

ダニエル書10章では、この信仰深い預言者が、キリストに関するビジョンを受けたことが記されています。「目を上げて眺めると、見よ、一人の人が麻の衣を着、純金の帯を腰に締めて立っていた。体は宝石のようで、顔は稲妻のよう、目は松明の炎のようで、腕と足は磨かれた青銅のよう、話す声は大群衆の声のようであった。」(10:5〜6)

あなたの力のすべて、思いのすべてをもって、神様を追い求めると、今日心に誓って下さい。そしてかつてない程の愛と渇望をもって、御言葉に触れて下さい。断食によって砕かれる様、また神様の重荷を背負うことが出来る様祈るのです。そして最後に、聖霊が天の恵みをあなたに与えることを妨げるものすべてを告白し、それらから離れて下さい。異なるタイプの人となる方法は、誰にでも与えられています。あなたはこの方法を用いられますか。

この様な方法によって、神様に触れられることが出来ます。ダニエルは、こう証ししています。「突然、一つの手がわたしに触れて引き起こしたので、わたしは手と膝をついた。」(ダニエル書10:10)ここで使われている「触れる」という言葉は、“激しく掴む”という意味があります。ダニエルは「神様が御手を私の上に置かれた時、私は顔を伏せました。それは私の内なるすべてのものが、主を求める様切迫した渇望を与えてくれました。」

神様が誰かの人生に触れられる時、これと同じことが起こります。その人はひざまずき、祈りの勇士となり、激しく主を求める様になります。

神様は、何故特定の人にだけ触れてこの様な緊迫感を与えられるのだろうと、私はよく思います。何故一部の神様の僕が主を飢え渇いて求める時、他の信仰深い人々は自分の道を歩み続けるのでしょうか。神様に触れられた僕達は、主と親密な関係を持っています。彼らは天から啓示を受けます。そして他の人はあまり楽しまない、キリストとの歩みを楽しみます。

何故神様はダニエルの上に手を置き、彼に触れられたのでしょう。何故彼は他の誰も見ることが出来なかったことを見、聞くことの出来ないことを聞くことが出来たのでしょう。ダニエルはこう語っています。「この幻を見たのはわたしダニエルひとりであって、共にいた人々は何も見なかった。」(ダニエル書10:7)

神様は、神様のメッセージを語る声が必要だったのです。神様は祈る僕、神様の召しに対して信仰をもって応える者が必要だったのです。ダニエルこそ、その人でした。彼は一日に3度、熱心に祈りを捧げていました.そして彼が川岸を歩んでいる時、キリストは彼に啓示を与えたのです。(ダニエル書10:7〜9参照)

神様がダニエルを神託として用いた理由は次の通りです。
1.ダニエルは祈りを止めなかったため(ダニエル書10:2〜3参照)
2.ダニエルは社会と教会の霊的堕落に関して、心を痛めていたため(ダニエル書9章参照)
3.ダニエルは罪を隠したり罪から逃れたりしようとしなかったため (ダニエル書9:4〜5)

2008年11月11日火曜日

聖霊が必要です

ある人は救われてからもう何年も経っているでしょう。ある人は一年前に救われたかも知れません。またある人は数ヶ月前、もしくは数週間前に救われたばかりかも知れません。罪から救われるということは、素晴らしいことです。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくされるのです。あなたが救われているということを、心から嬉しく思います。

しかし、私達の主、イエス・キリストの良き勇士となるためには、ただ救われているだけでは十分ではありません。あなたには、もっと大きなものが与えられているのです。あなたは聖霊によるバプテスマを受けなければなりません。

パウロの時代、聖霊の存在を知らない人々がいました。「彼らに、『信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか』と言うと、彼らは、『いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません』と言った。」(使徒行伝19:2)彼らは救われていましたが、彼らが聖霊によって満たされたり、聖霊のバプテスマを受けたりしていなかったことがはっきり分かります。

私達は、聖霊の力と御業によって救われると信じてます。しかし聖書はそれに加えて、聖霊による洗礼、満たしがあると語っています。

イエス様御自身も、弟子達と信者が聖霊によるバプテスマを受けるまで、彼らを世界に遣わされませんでした。もちろん弟子達は純粋な心を持っていたことでしょう。病む者を癒し、悪霊を追い出す信仰を持っていました。御言葉を信じ、すでにキリストについて伝道し、改宗者が生まれていました。彼らはイエス様の甦りを目撃しました。これ以上に何が必要だというのでしょうか。彼らはイエス様のために、死ぬ覚悟が出来ていました。彼らのイエス様に対する愛が、国々に出て行き神様の御業をするには十分でなかったのでしょうか。

愛する皆さん、そのどれも十分ではなかったのです。彼らにはさらに必要なものがあったのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒行伝1:8)

本当に聖霊が欲しいですか。聖霊があなたの上に降り、火によってあなたにバプテスマを授けられるのを求めておられますか。聖霊はあなたのために与えられているのだ、と完全に確信していなければなりません。自分では何者でもなく、何も持たず、聖霊による導きと力なしでは何も出来ないのだ、と確信するに至る必要があります。

聖霊が今もバプテスマを授け、信者の上に降り、その体を所有しているのだと、知るべきです。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもにも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」(使徒行伝2:38〜39)

毎日、毎時、世界中で多くの人々が聖霊によるバプテスマを受けています。彼らは聖書に記された約束を目にしたか、それにまつわるメッセージを耳にしたのでしょう。それで彼らは約束の成就を主張し、洗礼を受けることが出来たのです。

聖霊によるバプテスマは、特に終わりの日に生きている人々に与えられています。「終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。そのときには、わたしの霊を注ぐ。」(使徒行伝2:17〜18より抜粋)聖霊は求める者に与えられます。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカによる福音書11:13)神様はあなたが霊の内に生き、歩むことを望んでおられます。何か必要がある時、誰か他の人にその必要を満たしてもらう様、頼むべきではありません。私達は、聖霊が働かれるままに神様の御言葉を語り、病む人の上に手を置き、悪霊を追い出す様に召されているのです。私達は聖霊と力に満たされた証し者として召されているのです。

2008年11月10日月曜日

御言葉による支配

もしキリストが王国の支配者であり、私達がその支配下にあるなら、私達の人生はキリストによって支配されなければなりません。ではイエス様によって支配されるとは、実際どういうことを意味するのでしょうか。
辞書によると、「支配する」とは、“導くこと、指導すること、すべての行動やその権力下にある者の態度を管理すること”とあります。要するに、一つひとつの考えや言動を含む、私達の行動や態度のすべてを、イエス様が管理されるのを許すということです。

また、イエス様は世界のすべての国々を統べ治めておられます。聖書はこう語っています。「神はとこしえに力強く支配し、御目は国々を見渡す。背く者は驕ることを許されない。」(詩編66:7)「主は天に御座を固く据え、主権をもってすべてを統治される。」(詩編103:19)

騙されてはなりません。アメリカ合衆国は、共和党や、民主党、もしくはどんな人間の権威によって支配されているのではないのです。経済界や、大企業によって支配されているのでもありません。どんな力―この世の力も超自然の力も―合衆国やその他のどんな国をも支配することは出来ません。それが出来るのは、神様だけです。神様は王の王、主の主として、天の御座からすべての被造物を管理し、統べ治めておられます。

全米を通して、モラルの低下、オカルト団体の増加、逸脱した性の問題、無神論者のはっきりした主張などが見られます。クリスチャンの中には、地獄からの大群が、サタンの闇の王国を建て上げるために、米国をじわじわと占領していっている、と不安を抱く人達がいます。

しかし私達は恐れる心配などありません。イザヤはこう語っています。「主は、逆らう者の杖と支配者の鞭を折られた。ああ、お前は天から落ちた明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた。もろもろの国を倒した者よ。しかし、お前は陰府に落とされた、墓穴の底に。お前を見る者は、まじまじと見つめ、お前であることを知って、言う。『これがかつて地を騒がせ、国々を揺るがせた者か。』」(イザヤ書14:5、12、15〜16)

愛する皆さん、私達の神様は、サタンのことをほんの少しも心配しておられないのです。悪魔がこの国を襲っていると、私達が目にするものに対して、神様は全くやきもきしておられません。たった一言の御言葉によって、サタンは永遠に消え去り、永遠の苦しみを味わうのです。ですから、私達はどんな悪をも恐れる必要がないのです。

神様の王国、すなわち神様の民の心の内に建て上げられた王国の他には、どんな国家も完全かつ力強い神様の支配を見ることが出来ません。

イエス様は言われました。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカによる福音書17:21)そして私達の心の中にある、この王国において、キリストは私達を導き、癒し、私達の言動と態度を管理されるのです。

「ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。」(イザヤ書9:6)この聖句は、永遠に続くイエス様の権威について語っているのです。しかしここにはもう一つの、重要な意味があります。それは、私達が常に私達の支配に対する服従を増すべきだということです。

正直に、自分は日々イエス様の支配に対する服従を増している、と言うことが出来ますか。あなたの言動を少しずつ、イエス様の権威の下に委ねていますか。
もしイエス様が天国におられ、御父の右の座からすべてを治めておられるなら、どうやって地上での王国を統べ治められているのだろう、と思われるかも知れません。この答えは、ヘブル人への手紙に見つけることが出来ます。この手紙の著者は、旧約聖書の時代には、神様が預言者を通して語られたと記しています。しかし今日、主は御子を通して語られるのです。(ヘブル人への手紙参照1:1〜2)

イエス様は私達に与えられた、肉となった聖なる御言葉、明示的な神様のメッセージです。代わりに御父は聖霊を私達に与え、イエス様が地上にて語られた御言葉を思い出させてくれます。ですから、イエス様は文字として綴られた、明白な神様の御言葉によって、私達を統べ治めておられるのです。聖書は私達の王の笏であり、それを通して神様の御言葉を私達に示してくださいます。

もし書面として与えられている神様の御言葉によって支配されるに任せた人の証しを読みたいと思われるなら、詩編119:11にそれを見ることが出来ます。「わたしは仰せを心に納めています。あなたに対して過ちを犯すことのないように。」(119:105, 123, 133, 162をも参照のこと。)

2008年11月7日金曜日

恵みの成長を妨げるもの

エペソ人への手紙4章31節において、パウロはキリストの恵みにおける成長を促すために、私達が生活から取り除かなければならないものを列挙しています。「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。」

私達はパウロが並べたこれらの問題を、軽視するべきではありません。私達が恵みにおいて成長するなら、これらのことに直面しなければならないと、パウロは語っているのです。もしここでパウロの挙げている問題を無視するなら、あなたは聖霊を悲しませることになります。あなたの成長は妨げられ、あなたは霊的なゾンビとなってしまうでしょう。

パウロが挙げた最初の3つ、無慈悲、憤り、怒りは、理解し易いと思います。無慈悲とは、過去の傷を手放そうとしなかったり、過去の過ちを許さなかったりすることです。憤りとは、激しい怒りと共に、復讐を望むことです。怒りとは激高、すなわち瞬間的な憤激や、誰かに向かってじわじわと憤りを燃やすことです。悪意とは、破壊的な言葉を発すること、すなわち誰かを立て上げる言葉を発することと正反対のことです。悪意を持って語る言葉とは、敵意に満ち、誰かを傷つける言葉のことです。

わめきとは何にも無いことに対して、突然爆発すること、すなわち必要のない大騒ぎをし、無意味に大きな雑音を立てることです。些細なことを取り上げて大きな問題としたり、癒しや平和をもたらす代わりに修羅場を作り出したりすることで、私達はわめきます。

パウロのリストの最後はそしりです。そしりとは、誰かが苦しむことを望むことです。多くのクリスチャンにとって、そしりとは、自分を苦しめた人を神様が懲らしめられるのを望むことです。それは非道な霊であり、大抵心の奥底にしまい込まれています。

パウロが「これらを一切の悪意と一緒に捨てなさい」と言ったのは、即席の解決について語っているのではありません。彼は長い時を要する、成長過程について説明しているのです。時に私達は、これらの悪意をコントロールすることに失敗するかも知れません。しかし私達がすぐに悔い改め、その人との関係の修復に徹するなら、これらの問題は時が経つにつれて消え去っていきます。

2008年11月6日木曜日

爆発的な成長

私達が私達を苦しめる人達の成長を促す時、私達は恵みにおいて、爆発的に成長します。

「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。」(エペソ人への手紙 4:29〜30)ここでパウロが用いている“造り上げる”という言葉の語源には「家を建てる者」という意味があります。またその語源は「立て上げる」という語源から来ています。要するに、造り上げる者は皆、神様の家、すなわち教会を建て上げる者なのです。

パウロはここで、私達が語る言葉について3つの重要な点を挙げています。
1.私達の言葉は、神様の民を立て上げるために使うべきだということ
2.私達の言葉は、人々に恵みを与えるために使うべきだということ
3.私達の発する言葉によって、聖霊を悲しませることがあるということ

過去の偉大なる信仰に満ちた人々の伝記を読むと、私は深く反省させられます。彼らは御国中心の考え方をしていました。御言葉に熱心で、よく祈り、恵みにおける成長を願っていました。彼らの人生で最も私の心を打つのは、彼らのキリストに対する献身的な姿勢や、祈りの激しさだけではありません。もちろん、これらは彼らの内に生まれた、素晴らしい霊の実です。しかしそれよりも、私が彼らの共通点として見るのは、いかに彼らが恵みにおける成長を望み、聖い言葉が流れ出す、純粋な心が与えられる様願っていたか、ということです。「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。」(マタイによる福音書12:34)

私が自分の為ではなく、他の人々の為に生きようとする時、恵みにおいて成長することが出来ます。この恵みにおける成長は、家庭において、伴侶や子ども達にキリストらしさを証しすることから始まらなければなりません。自分の家庭こそ、「自分がいつも正しい」という思いを捨て去ることによって、すべての問題や誤解に打ち勝つ場所とされるべきなのです。

いつも自分が正しくなければいけない、と思わなくなることで、かつて無い程に神様の恵みを楽しむことが出来るようになりました。私達がつまらない論争に勝とうとするのを止め、お互いを立て上げることを求めるなら、すべての口論や権利の主張はなくなります。

皆さん、恵みにおいて成長しようではありませんか。

2008年11月5日水曜日

異なるタイプの僕達

旧約聖書に記されている信仰に満ちた人の偉業を読む時、私の心は燃やされます。この神の僕達は、神様の御名に対して重荷を持ち、今日のクリスチャンの多くが驚きを覚える様な、力ある業の数々を成し遂げました。

旧約時代に生きたこの聖徒らは、神様の御言葉なしに進むことを岩の様に固く拒絶しました。そして彼らは神様の宮の堕落に対し、幾日にも亘って涙を流し嘆きました。彼らは食べることも、飲むことも、体を洗うことも拒否しました。頭から髪の毛の束を、またヒゲを引き抜きました。予言者エレミアは、365日もの間、神様の来るべき裁きを警告し続け、エルサレムの街角で身を横たえました。

この聖徒達は、一体どこからその霊的な権力とスタミナを得ていたのでしょうか。彼らは全く異なる種類の人達、今日の教会で見られる僕達とは全く異なるタイプの僕達だったのです。私は自分を彼らと、又彼らの歩み方と比較することは出来ません。私は完全に彼らの様な者には、なれていません。実際、彼らの様な人は、誰一人として知りません。

このことは、私の心を乱します。聖書はこれらの旧約時代の僕達が行った偉業は、私達の教訓として記されている、と語っています。「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。」(第一コリント人への手紙10:11)彼らの話は前例として、いかに神様の心を動かすか、またいかに堕落した人々を悔い改めに導くかを示すために記されているのです。

では、この聖徒達は特別な人種だったのでしょうか。彼らは、はっきり心に決めた宿命を抱き、私達の時代では見られない超自然的な力を受けた、スーパーマンの様な人達だったのでしょうか。全くそうではありません。聖書は、彼らがいかに私や皆さんと全く同じ様に、肉による熱情に悩まされていたかを記しています。(ヤコブによる手紙5:17参照)事実、彼らの前例は、私達が従うべき模範となってくれています。彼らには、神様の働きを促す様な性質がありました。だからこそ神様は、彼らを用いて御業を成そうとされたのです。そして神様は今日私達にも、彼らと同じ性質を求める様、促しておられます。

エズラは国家全体を目覚めさせた、信仰に満ちた神の人でした。聖書は、神様がエズラの上に御手を置かれたと語っています。エズラはこう証ししています。「わたしは、わが神なる主の御手の加護によって勇気を得た。」(エズラ記7:28)言い換えるならば、神様は御手を伸ばされ、エズラを抱き、彼を異なる者へと変えられたということです。

神様は何故、エズラに対してこうなされたのでしょうか。当時のイスラエルには、何百人という書記官がいました。彼らは全員、神様の御言葉を学び、人々にそれを説明するという、同じ召しを受けていました。何がエズラを、他の書記官とは異なる者にしていたのでしょうか。何が主に、この僕の上に御手を置く様、そしてエルサレム再建の為に、彼を5万人の頂点に立たせる様、導かれたのでしょうか。

聖書はその答えを記しています。「エズラは主の律法を研究して実行し、イスラエルに掟と法を教えることに専念した。」(エズラ記7:10)答えは簡単です。エズラは自分で決断したのです。彼は何事よりも、ただ神様の御言葉を求め、それに従おうと決心しました。そしてその決断からそれることがありませんでした。彼は自分自身にこう言い聞かせたのです、「私は御言葉の弟子となる。読むものすべてを実行に移すのだ」と。

神様がエズラの上に御手を置かれる前から、彼は御言葉を求めることに熱心でした。彼は御言葉が自分を探り、洗い出し、すべての肉と霊の汚れから清めるままに委ねました。エズラは飢え渇いて御言葉を求め、そこに喜びを見いだしました。彼は御言葉が、神様の選ばれたどんな召しにも答えられる様、彼の心を整えられるままに委ねました。だからこそ、神様は彼の上に御手を置かれ、彼に油を注がれたのです。

2008年11月4日火曜日

神様の特別部隊

米国軍隊の特別部隊について耳にされたことがあるでしょうか。彼らは特別な訓練を受けた、軍隊の中の軍隊であり、非常に熱心なエリート集団です。特別部隊は、上官によって招集された、完全なるボランティアによって構成されています。

アフガニスタンでの戦争が始まる前、ウサマ・ビンラディンはアメリカ軍が弱く、臆病で、山岳での戦いに対して訓練がなされていない軍隊である、と発言しました。彼はタリバン軍が、アメリカ部隊を侮辱と共に帰還に追い込むと予測していました。しかし彼は特別部隊のことを考慮していなかったのです。この恐れを知らない部隊は、たった2,000人でアフガニスタンに侵入しました。数日の間に、敵の本拠地を完全に把握することが出来たのです。

霊的な領域において、神様はこれと同じ様なことをなされている、と私は信じています。祈っている間に、私は聖霊によって感銘を受けました。神様は天において、極秘作戦にあたっておられているのです。神様は、通常部隊の中から、ボランティアによるエリート軍を、軍隊の中の軍隊として起こそうとしておられます。この特別部隊は、神様が敵との戦いにおいて、直接触れ、動かすことが出来る勇士達から構成されています。この状況は、サウルの特別部隊について記した箇所で、目にすることが出来ます。聖書はこう記しています、「神に心を動かされた勇士たちは、サウルに従った。」(サムエル記上10:26)

今日の神様の特別部隊は、若者も、中年者も、年配者をも含みます。彼らは皆、隠れた部屋においての祈りによって、ずっと訓練されてきました。イエス様と親密な時間を持つことで、彼らはどの様に戦えば良いかを学んできたのです。ですから、彼らは例えそれが山岳戦であっても、盆地での戦いであっても、どの様な霊的領域においても戦う術を知っています。

神様の軍隊の中の軍隊は、すべての国々に置かれています。その戦略はまだ極秘となっているかも知れませんが、そのうちにキリストの御名と力によって行われる戦術が、明らかにされることでしょう。神様の御言葉が成り、飢饉は終着に向かっています。主は勝利を取られます。その御言葉は、すべてに打ち勝ちます。

「自分の神を知る民は確固として行動する。」(ダニエル書11:32)

「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ書40:31)

2008年11月3日月曜日

神の家族

キリストの御名による力を主張することは、難しく、隠された神学的な真実ではありません。私の書斎には、イエス様の御名についてのみ書かれた本がたくさんあります。これらの著者達は、キリストの御名に秘められた奥義を、信者達がさらに深く理解出来る様にと、執筆したのです。しかしこれらの本の多くは、あまりに深くまで探求しているため、読者の理解力を遥かに超えてしまっています。

イエス様の御名について私達が知るべきことは、幼子でも理解出来るような、非常に簡単なものである、と私は信じています。それは基本的にこういうことです。「イエス様の御名によって求める時、それはイエス様御自身が御父にお願いしているのと同じことなのだ、と私達が完全に確信するべきである」ということです。「これは本当だろうか」とあなたは思われるかも知れません。その理由をご説明しましょう。

私達は、神様がいかに御子を愛しておられるかを知っています。神様はイエス様と共に語り合い、イエス様が地上におられた間、彼を教え続けられました。そして神様は、イエス様の祈りをすべて聞かれただけでなく、そのすべてに対してお答えになられました。イエス様はこのことについて、証ししておられます。「神様はいつでも、わたしに耳を傾けておられる」と。言い換えれば、御父は御子の願いを、一度も退けたことがないということです。

今日、イエス様を信じる者は皆、彼の御子としての権利を衣としてまとっているのです。そして天のお父様は、心から私達を御自身の子どもとして受け入れてくださいます。何故でしょうか。それは私達が、キリストと霊的に結ばれているからです。十字架と復活を通して、イエス様は私達とお父様を結びつけてくださいました。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」(ヨハネによる福音書17:21〜23より抜粋)

簡単に言うなら、私達は今や神の家族である、ということです。御父と一つであり、また御子とも一つなのです。私達は養子縁組をしていただき、すべての子どもが受け取る相続権を完全に与えていただきました。すなわち、天におけるすべての力と富は、キリストによって、すべて私達に与えられているということです。

“イエス様のお名前を通して”祈ることは、単なる方程式ではありません。このフレーズを口に出すことによって、力が生まれる訳ではないのです。その力は、イエス様が私達の主張を取り上げ、御自身の持つ特権によって私達を御父の元に導いてくださる、と信じることから来ます。イエス様は私達の代弁者、すなわち私達の代わりにお願いしてくださる方なのです。その力は、御父が御子の願いを退けたことがなく、私達が御父の御子に対する誠実さの恩恵を被る者であると、完全に信じることから来ます。

2008年10月31日金曜日

恵みにおける成長

パウロはエペソの人々に、こう警告しました。「もはや未熟な者でなくなりなさい。」(エペソ人への手紙4:14)あなたは、「この箇所は、私には関係ない。私の土台は、聖書にしっかり基づいている。一時的で、新しい聖書の教えや、人々をキリストから引き離してしまう、ちっぽけなトリックに、私は騙されたりしない。私は神様の御言葉に、しっかり根ざしている」と思われるかも知れません。

しかし、次のパウロの言葉を聞いて下さい。「人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風にように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることがないようにしなさい。」(エペソ人への手紙4:14)あなたは間違った教理に、心を騒がせることはないかも知れません。パウロはそれでもあなたが、他のものに心を乱されるものがあると語っています。彼は「あなたに敵対する人々が企てる、悪しき計画によって心を乱されていますか」とあなたに聞いています。

パウロの言葉は、自分自身を吟味する様、促しています。自分はキリストにある兄弟又は姉妹であると言いながら、私達に対する悪い噂を流す人たちに対して、どんな態度を取っているでしょうか。

パウロが「もはや未熟な者でなくなりなさい」と命じる時、彼は実際に、「あなたの敵達―噂や中傷、嘘や偽り、ずるさや悪賢さ、詐欺や裏細工を用いる者達―彼らは皆、反抗的な子ども達なのです。ひねくれて、甘やかされた子ども達。そして彼らは神様の恵みが、彼らの内に働くのを許していません。ですから、彼らの意地悪で、大人気のない策略に陥ることが無い様にしなさい。彼らはあなたが嫌がらせに対して、子どもの様な反応を示すのを待っているのです。しかし、あなたは子どもっぽい応対をするべきではないのです」と言っているのです。

その次の節で、パウロは私たちに成長するよう促しています。「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」(エペソ人への手紙4:16)パウロは、「あなたは嫌がらせや、他人から傷つけられることや、自分にまつわる悪評や、嘘やでまかせをコントロールるすことは出来ません。しかし、あなたはこれらを成長の糧とすることが出来ます。これらをキリストに似る者とされる機会としなさい。優しく、砕かれた霊を持って対応しなさい。あなたに対して意地悪で、あなたを利用する人を許しなさい」と言っています。

2008年10月30日木曜日

地獄を揺り動かす祈り

ダニエル書が書かれた時、イスラエルはバビロンにて捕囚とされていました。そして長年のミニストリーを経て、6章でダニエルは80歳になっていました。

ダニエルは常に祈りにある人でした。そして年老いた今も、ゆったりした生活を送ろうという気はありませんでした。ダニエルが落胆したり、燃え尽きたりしたとは、聖書のどこにも記されていません。その反対で、ダニエルは始動しかけたところでした。聖書は、80歳になっても、彼の祈りが地獄を揺り動かし、悪魔を怒らせたと記しています。

ダレイオス王はダニエルを王国において、最も高い位に昇進させました。彼は3人いた大臣の一人で、他の2人と共に、王子と120地方からの総督を統べ治めていました。ダレイオス王は、他の2人よりもダニエルを気に入っており、彼に政務と、裁判官や知識人達を教える担当の長としました。(ダニエル書6:3)

もちろんダニエルは、非常に忙しい預言者でした。多忙なスケジュールに、長時間の会議の数々と、彼に圧し掛かっていた圧力は想像するに、た易いものでしょう。しかしダニエルから祈りを取り上げるものは、何もありませんでした。どんなに忙しくても、彼は決して祈ることを止めなかったのです。祈りは、彼にとって最も大切な任務であり、他のいかなることよりも優先されるべきものであり続けました。一日に3度、彼は大臣としての責任や要求や義務から抜け出し、主との時間を持ちました。彼はただ、周りのすべてから撤退し、祈ったのです。そして神様は、彼に答えられました。ダニエルは彼の知識、導き、お告げ、預言のすべてを、ひざまずいて祈る時に与えられたのです。(ダニエル書6:10参照)

地獄を揺り動かす祈りとは一体どんな祈りだろう、とあなたは思われるかも知れません。それは国や教会が堕落してしまっているのを目にする、従順で信仰に満ちた主の僕から来ます。この人はひざまずき、主に向かって叫びます、「主よ、私はこの環境に馴染んでしまいたくありません。この堕落した時代にあって、あなたが力を握っていることを証しする、生きた例として下さい。他の人が祈っているかどうかは、関係ありません。私はあなたに向かってお祈りします。」と。

忙し過ぎてお祈り出来ないのですか。「祈りによって受け取ります」と言っているのですか。「神様は私の心を御存知だ。私がどれだけ忙しいかも知っておられる。日中を通して、頭の中でお祈りしている」と自分に言い聞かせておられるかも知れません。

神様は、私達と二人きりで、ゆとりをもった時を持ちたいと願っておられます。そうならば、祈りはただリクエストを伝えるだけの時間ではなく、愛と献身の行いとなります。

2008年10月29日水曜日

キリストにある力を主張する

イエス様が地上での最後の数時間を、弟子達と共に過ごしている時、イエス様は彼らに言われました。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。」(ヨハネによる福音書16:23)そしてこう命じられました、「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(16:24)

何と素晴らしい御言葉でしょうか。この場面において、キリストは弟子達に、御自身が彼らを放れ去ること、そしてしばらくの間、彼らを見ることが出来ないことを、伝えられました。しかし同時に、イエス様は彼らに、天におけるすべての祝福へのアクセスを保障されたのです。彼らはただ、イエス様の御名によって願えば良いということです。

弟子達は、扉を叩き、探し、神様のものを求めることを、イエス様から個人的に教わりました。彼らはキリストの内にある、御父の恵みについて―その恵み、権威、力のすべてについて―を直接教わったのです。そして彼らは、イエス様が人々にこう語るのを聞きました。「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。」(ヨハネによる福音書14:12~14)

弟子達に対するキリストの言葉は、私をチャレンジします。「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。」(ヨハネによる福音書16:24)この箇所を読むと、主が私にささやかれる声が聞こえてきます。「ディビッド、あなたはわたしが与えた力を主張していない。あなたはただ、わたしの名によって願えば良いだけなのに」と。

すべての肉においての罪よりも、神様の心を悲しませるもの、それは、私達がいかに神様の約束を信じていないかです。また神様が、私達の祈りに答えられないのでは、という疑いを深めていることです。そして人々が、キリストの内にある力を、だんだん主張しなくなっていることです。

あなたがどれ程、キリストに似る者とされる様願ったとしても、神様の宝庫には、それをはるかに超える、霊的な知識の源が備えられています。大きな願いを持ちましょう。知恵を、導きを、啓示を求めましょう。しかしこれらは、疑いではなく信仰によって、求めなければいけません。

2008年10月28日火曜日

あなたのキリストの偉大さ

ヨハネによる福音書14章は、2つの素晴らしい約束を記しています。一つ目に、イエス様はこう宣言されています。「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。」(ヨハネによる福音書14:12~14)最後の節で、イエス様は単純かつ明確に、こう言われています、「わたしの名によって願うなら、それを叶えてあげよう」と。

その2節後、イエス様はこう約束されています。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」(ヨハネによる福音書14:16~18)ここでイエス様は、「わたしはあなたがたに真理の霊を授ける。そしてこの霊の力が、あなたがたの内に留まるでしょう」と言われています。

この2つの素晴らしい約束は、イエス様がなされたものです。しかし、これら2つの間に挟まれた節を見てみて下さい。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」(ヨハネによる福音書14:15)何故この言葉が、この場所に記されているのでしょう。キリストは私達にこう、語っておられるのです、「従順さの問題が、これらの約束に関係しています」と。要するに、この2つの約束は、神様の御言葉を守り、それに従うことに関わっているということです。私達がキリストにある力を主張するにあたって、一切障害となるものがない様、御言葉が与えられているのです。

私は、イエス様の御名によって、何も願わなかったり、小さいことしか願わなかったりすることは、イエス様に対しての侮辱にあたると確信しています。毎年、多くのクリスチャン達が妥協してしまっています。彼らは最終的に、「救いさえあれば良い」というところに行き着いています。いつか御国にたどり着くこと以外は、何の期待も持っていないのです。

あなたに尋ねます。「あなたはキリストに対する期待の、最終段階にありますか。キリストの恵みと力によって救われること以外に、何の期待も抱いていないのですか。あなたのキリストは、この日を生きるのに必要な力を与えるだけでお終いですか。キリストは、サタンからの攻撃が大半の人生において、時々平安と喜びの場所となっているだけでお終いですか。」

これらの箇所は、私にこう教えてくれています、「私のイエス様の大きさは、私の願いの大きさに比例しているのだ」と。しかし残念ながら、多くのクリスチャンは不信仰によって、キリストを力無いものにしてしまっています。愛する皆さん、私は私のキリストを制限してしまいたくありません。そうではなく、地獄中の悪魔達に、私の神様がいかに大きいかを、私の願いの大きさによって示してやりたいのです。私はキリストに、さらに多くを期待しています。私の人生において、かつて無いほど、大きなキリストとなって欲しいのです。

2008年10月27日月曜日

御手に記されたあなたの名前

私達には祈りによって、素晴らしい権威が与えられています。では実際、一体どの様にして、この権威を用いるべきなのでしょうか。それは、キリストの御名を通してです。私達がイエス様の内に信仰を持った時、イエス様は私達に、御自身の御名を与えてくださいました。イエス様のいけにえによって、「私はキリストのものです。私は彼の内にいます。彼と一つとされています」と言う事が出来る様になりました。すると素晴らしいことに、イエス様が私達の名前を手にしてくださったのです。大祭司として、イエス様は私達の名前を、その御手に記されました。ですから私達の名前は、イエス様の御名の下で、天に登録されているのです。

「キリストの御名によって」という言葉が、単に重要な方程式ではないということが、分かっていただけるでしょう。そうではなく、文字通りそれが私達の立場を示しているのです。そしてその立場は、天のお父様によって承認されています。イエス様はこう言われています。「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。」(ヨハネによる福音書16:26~27)

ここに、何故イエス様が私達に、彼の御名によって祈る様、命じられたかが記されています。「あなたがわたしの名によって願うなら、その願いは、わたしが父にお願いするのと同じ力と影響が与えられる。」言い換えるならば、私達の祈りが、御父の御座の前でイエス様の口から発せられたものと見なされる、ということです。同様に、私達が病む者の上に手を置いて祈るのならば、神様はそれを、イエス様が癒しをもたらすために、その人に手を置いているのだと見なされるということです。

これはまた、何故私達が恵みの御座に、大胆に近づくべきかを示しています。それは、受け取るためです。私達は確信を持って、「天のお父様、私は出て行き実を結ぶよう、キリストの内に選ばれた者として、御前に立っています。今、私の喜びが満ち溢れるよう、大胆に願いを申し上げます」と祈るべきなのです。

私は多くのクリスチャン達が「イエス様の御名によってお祈りしたのに、聞かれなかった」と言うのを耳にします。この人達は、「イエス様の御名による力を宣言しようとしたのに、うまくいかなかった」と語っています。私達の祈りが聞かれない理由は、たくさんあります。私達が罪を犯すことで、キリストとの交わりが汚されてしまいます。それは、神様からの祝福をせき止めてしまう、障害となります。そして私達がそれらの罪を取り除くまで、神様は私達の祈りに答えられません。

または、神様に対する私達の生温さや、中途半端な態度が障害となっているかも知れません。疑いによって、キリストの力が私達の内に流れ込むのを止めているかも知れません。ヤコブはこう警告しています。「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。」(ヤコブの手紙1:6~7)

ヤコブは明確に語っています、「揺れ動くものは、神様から何も受け取ることが出来ない」と。ここでヤコブが使っている、「揺れ動く」という言葉は、“決断していない”という意味があります。事実、この様な人達が神様にお願いをする時、彼らは神様を試しているのです。心の中で彼らは、「主よ、もし答えてくださるなら、あなたに従います。この祈りに答えてくださるなら、あなたにすべてを捧げます。でももし答えてくださらないなら、自分のやり方で生きていきます」と。

しかし神様は、下心のある取り引きをなされません。神様は私達の心を御存知で、御子に対しての決心がついているか否か、お見通しなのです。神様は、キリストにすべてを委ねた者のために、キリストの内にある力を取っておかれます。

2008年10月24日金曜日

主はすべてを求めておられます

「なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。もはや泣くことはない。主はあなたの呼ぶ声に答えて、必ず恵みを与えられる。あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ、ここを歩け。右に行け、左に行け』と。あなたたちは祭りを祝う夜のように歌い、笛に合わせて進む者のように心楽しむ。」(イザヤ書18~19、 21、29より抜粋)イザヤは「もしあなたが、ただ主を待ち望むなら―再び主を呼び求め、主に信頼するようになるなら―主は私が言ったことすべて、またそれ以上のことを成してくださいます」と言っているのです。

神様がただ一言発せられるだけで、敵は私達の前に打ちのめされます。「アッシリアは主の声のゆえにおののく。」(イザヤ書30:31)愛する皆さん、神様に解決出来ない問題はありません。私達のために勝利出来ない戦いはありません。神様はそれを、口から出る御言葉だけで成されるのです。イザヤはこう言っています、「主の息が焼き尽くす硫黄の流れのように、そこに臨む。」(イザヤ書30:33) 

しかし、すべてのことにおいて、神様に信頼することは、簡単なことではありません。最近のことですが、私はニューヨーク市にある私の教会の建物について、主の御心を求めました。私は主にこう言いました、「天のお父様、このことについて、あなたに一切をお委ねします。私はあなたの御心を求めましたから、平安の内に待ち望みます」と。神様はこの様に返答されました。「ディビッド、あなたが自分の所有地や、財産など、物質的なものに関して、わたしに信頼を置いてくれていることは素晴らしいことだ。しかし、あなたはまだ、自分の健康について、わたしを信頼していない。」

私は自分の年齢を、よくわきまえているつもりです。そして自分がいなくなった後、家族がどうなるのか、非常に心配しています。主からの御言葉は、稲妻の様に私に突き刺さりました。私は物質上の心配はすべて主の御手に委ねているのに、永遠についての心配は委ねられていなかったのです。それに気付き、私は「主よ、あなたは私がすべてを委ねることを、求めていらっしゃるのですね」と祈りました。

そうです、聖徒なる皆さん、神様はすべてを求めておられるのです―あなたの健康も、家族も、将来も。神様はあなたに、すべての問題について神様に委ねて欲しいと願っておられます。そしてあなたに、平安と、確信と、憩いの中で生活して欲しいと願っておられるのです。ですから、隠れた場所に行き、主と二人っきりの時間を持って下さい。すべてを携えて、御前に行くのです。神様は、「あなたはわたしが背後から、『こっちに進みなさい、この道を歩みなさい』と語る言葉を聞く」と約束してくださっています。

信仰を証明するものは、安らぎです。信頼し切った信仰は、心に平安をもたらします。そして真の信仰は、すべてを主の御手に委ねます。

2008年10月23日木曜日

霊的な強さと信頼

私達がすべての必要を神様の御手に委ね、神様の御力に信頼を置く時、聖霊は私達に力を与えてくださいます。

ルツはその良い例です。彼女は夫に先立たれてから、義理の母であるナオミと一緒に生活していました。ナオミはルツの将来と生活を心配していました。ですから、彼女はルツに裕福であるボアズの元に行って身を横たえ、家系を絶やさない責任を果たすようお願いしなさい、と助言しました。

その夜、もみ殻を吹き分ける仕事が終わった後、ボアズは「山と積まれた麦束の端に身を横たえ」(ルツ記3:7)、毛布を被りました。翌朝目が覚めた時、彼は自分の足元に女性が寝ているのを見て驚きました。(ルツがそこにいたことは、ふしだらなことではありませんでした。この様なことは、当時慣習的に、よく行われていたことでした。)

ルツは彼に言いました、「どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。」(ルツ記3:9)基本的に彼女が言いたかったのは、「同族の者としての責任を果たしてくれますか。私を養ってくれますか。」ということです。実際、彼女は「私と結婚してくれますか」とお願いしたのです。

これは決してずる賢い策略ではありません。ルツとナオミは、すべて神様の掟に従って行ったのです。キリストがルツの血統から来たことで、これが正しかったのだと分かります。ルツが帰宅した時、ナオミは彼女にこう尋ねました、「娘よ、どうでしたか。」(3:16)言い換えると、彼女は「婚約したルツと呼ぶべきなの?それともまだ“やもめルツ”なの?」と聞いていたのです。

ルツはナオミに、一部始終を伝えました。ナオミの知恵に満ちた助言を聞いて下さい。「わたしの娘よ、成り行きがはっきりするまでじっとしていなさい。あの人は、今日中に決着がつかなければ、落ち着かないでしょう。」(ルツ記3:18)ナオミはこのことについて祈り、神様の導きを求めていたので、神様は彼女に助言を与えていました。神様は彼女に、家を絶やさぬ責任に関する律法のことを知らせました。(この概念はキリストの典型、また予兆となりました。)ですからナオミは、彼女とルツが、自分達の責任は果たしたという確信を持つことが出来たのです。次はじっと待ち、神様が約束を成就してくださるのを信じる番です。彼女は、「ルツ、すべては主の御手にあります。落ち着いて、平静にしていましょう」と言いました。

平安と平和が、ナオミの家を覆いました。取り乱し、爪を噛み、「神様は本当に働かれるのかしら。いつ起こるのかしら」と心配する者は、誰もいませんでした。この二人の信心深い女性は、落ち着いて、神様に賛美を捧げることが出来ました。

お祈りしていますか?信じていますか?主の救いをじっと待つ準備が出来ていますか?主はすべてを統べ治めていらっしゃいます。

2008年10月22日水曜日

祈りの民となること

エレミヤ書5章において、神様は「エルサレムの通りを巡り、よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか、正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう。」と言われました。(エレミヤ書5:1)主が言わんとされていること、それは「もしわたしを求める者が一人でもいるなら、わたしは憐れみを持とう」ということです。

バビロンでの奴隷生活にあった時、神様はダニエルをその様な人として見つけられました。そして今日、歴史上でかつてなかった程に、主はその様に、神様を敬う人達を探しておられるのです。主は生垣を建て直し、隔たりに立つ、従順な僕達を探しておられるのです。

ダニエルの様に、その様な人は、神様の御言葉を手にしている時に見つけ出されます。聖霊がダニエルに降った時、彼はエレミヤ書を読んでいました。その瞬間に御霊が、イスラエルに神様の救いの時が訪れたのだと、明らかにされたのです。この啓示が与えられると、ダニエルは祈るように導かれました。「わたしは主なる神を仰いで断食し、粗布をまとい、灰をかぶって祈りをささげ、嘆願した。わたしは主なる神に祈り、罪を告白した。」(ダニエル書9:3~4)

ダニエルは、主の民が元通りに回復される準備が出来ていないと知っていました。しかし彼は、仲間の罪を非難したでしょうか。いいえ。ダニエルは、自分を道徳的に堕落していた周囲の人々と同じ様に見なしました。「わたしたちは罪を犯し悪行を重ね、背き逆らって、あなたの戒めと裁きから離れ去りました。主よ、恥を被るのはわたしたちです。あなたに対して罪を犯したのですから。」(ダニエル書9:5、8)

神様は御自身の民を祝福されることを、強く望んでおられます。しかし、もし私達の心が、この世の霊によって汚染されているなら、私達は神様の祝福を受け取る準備が出来ていません。ダニエルは、次の様な厳しい言葉を述べました。「モーセの律法に記されているこの恐ろしい災難は、紛れもなくわたしたちを襲いました。それでもなお、わたしたちは罪を離れて主なる神の怒りをなだめることをせず、またあなたのまことに目覚めることもできませんでした。主はその悪を見張っておられ、それをわたしたちの上に下されました。」(ダニエル書9:13~14)

神様との歩みを見直し、私達が妥協している部分を聖霊に見せていただくようにしましょう。堕落した国家のために祈るだけではなく、「主よ、私の心をご覧ください。私の内にはびこる、この世の霊をさらし出してください」と神様に叫び求めましょう。そうすることで、私達もダニエルの様に、家族や国家の救いのために祈ることが出来る様になります。

2008年10月21日火曜日

神様の新しく素晴らしい御業

「しかし、わが名のために、わたしがイスラエルを連れ出したときに見ていた諸国民の前で、わが名を汚すことがないようにした。」(エゼキエル書20:14))

神様は、何か新しく、素晴らしいことを成さろうとしていらっしゃいます。この新しいこととは、リバイバルや覚醒よりも、さらに素晴らしいことです。それは、御名がこれ以上汚されることが耐えられなくなった時に、神様が御自身で起こされる御業のことです。やがて神様は、御言葉がひどく踏みにじられ、また教会が憎悪によってひどく汚染されているのをご覧になり、失われた世界を前に、御名を守るために立ち上がられる時がやってきます。

“わが名のために”と言って、神様は2つの偉大なことを成されます。まず一つ目は、国々と主の教会を、素晴らしい購いの裁きによって清められる、ということです。神様の宮が、同性愛者や詐欺師によって侵害されることに、終止符を打たれます。そしてミニストリーを清めて聖別し、御自身の心を持った羊飼い達をおこされます。

二つ目に神様は、憐れみという介在によって、御自身の御名に栄光をもたらされます。裁きの御座が整えられる時、神様は超自然的な力をもって、残された者達を御元へと立ち帰らされます。イスラエルが裁きを受けた時に神様が成されたのと同じことを、再び未来にも行ってくださいます。

エゼキエル書36:21~38を読んでみて下さい。要約すると、次の様な預言が与えられた、ということになります。「わたしは異邦人によって汚されたわが名を憐れむ。それはあなたがたのためではなく、わが名のために行うのである。異邦人たちは、わたしこそが神であると知るだろう。わたしがあなたがたの上に聖水を振り掛けるので、あなたがたは一切の汚れから、清められる。わたしはあなたがたに、新しい心と霊を与える。あなたがたがわたしの道を歩む様にする。わたしがあなたがたを、一切の汚れから守る。あなたがたのためではなく、わたし自身の御名のために、これを行う。」

「『しかし、わたしは手を引き戻し、わが名のために、わたしがイスラエルを連れ出したときに見ていた諸国民の前でわたしの名を汚すことがないようにした。お前たちの悪い道や堕落した行いによることなく、わが名のゆえに、わたしが働きかけるとき、イスラエルの家よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる』と主なる神は言われる。」(エゼキエル書20:22、44)

2008年10月20日月曜日

霊的な強さの秘密

「まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある』と。」(イザヤ書30:15)

ここに、神様の霊的な強さの秘密があります。「安らかに信頼していることにこそ力がある」ということです。ここで使われている「安らか」にという言葉は、ヘブル語で“静養”という意味です。そしてこの「静養」とは、“落ち着いていること、穏やかであること、不安がないこと、閑静であること、下からの支えがある所で横になること”という意味があります。

今日のクリスチャンの中で、この様な安らかな信頼を持っている人は、あまりいません。多くの人は、たくさんの活動に参加し、富や財産や快楽を得ようと、必死に走り回っています。ミニストリーにおいても、神様の僕達は不安を覚え、カンファレンスや、セミナーや、ベストセラー本に答えを探そうと、躍起になっています。誰もが導きや答え、また魂を静める何かを欲しがっています。しかし彼らは、主以外の所に、それを探し求めているのです。彼らは、神様がすでにこのことについて、イザヤを通して語られたのだと、気づいていないのです。もし彼らが、主こそすべての源であると、主に立ち帰らないならば、彼らの探求は悲しみと混乱に終わってしまいます。

イザヤは、神様の義が私達の内で、何を成し遂げるべきなのかを、語っています。「正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である。」(イザヤ書32:17)もし私達が、本当に義の内に歩むなら、私達の人生は平安な霊と、心の安らぎと、神様との平和という実を生むことでしょう。

イザヤが周囲を見回すと、神様の民が、人に信頼を置き、馬や戦車により頼み、エジプトへ助けを求めて逃れていくのを見ました。多くの大使が行き来し、リーダーたちは、緊急会議を開いて策略を練っていました。誰もがパニックに陥り、「どうしたら良いのだろう」と嘆いていました。

彼らに対してイザヤは、こう言いました。「こんな道を たどる必要はないのです。堕落した道から、立ち帰りなさい。他人に信頼を置き、反抗した態度を悔い改めるのです。主に立ち帰りなさい。そうすれば、主はあなたを平和で覆ってくださるでしょう。今あなたが直面しているすべての状況のただ中にあって、主はあなたに平安と安らぎを与えてくださいます。」

2008年10月17日金曜日

41日目

もし、あなたが41日目、荒野で誘惑を受けられた直後のイエス様に遭遇したら、と想像してみて下さい。その御顔は輝いているでしょう。素晴らしい勝利を得た後ですから、喜びに満ち、御父を誉め讃えていることでしょう。

あなたは、活気と自信に満ちているイエス様を目にします。地獄の力に立ち向かう準備が整われたイエス様は、大胆に、闇に覆われた大都市に出て行きます。福音を述べ伝え、神様の御言葉を確信していらっしゃいます。病人を癒され、御父が共にいてくださると御存知です。

一方、あなたが自分の人生に目を向けると、正反対の状況を目にします。未だに乾いた荒野での体験が続いています。サタンからの激しい攻撃に耐え、あなたの魂は元気を失っています。「イエス様は、私が通っている様な試練は経験されなかった。イエス様はこんなことでつまずかれたりしないだろう」と思われるかも知れません。

あなたが牧師を見ると、とても強い信仰を持った人の様に見えるかも知れません。彼の言うことは、神様の臨在を確信している様に聞こえ、あなたは「彼は私が抱えている様な問題など、経験したことはないだろう」と思うでしょう。もしあなたが真実を見ることが出来たなら、と思います。神様が彼をミニストリーに導き出された後、彼が荒野で厳しい試練を経験したことを、あなたは知らないでしょう。彼が自分自身を失いそうになり、落胆にくれていたことを、あなたは知らないでしょう。そして彼の素晴らしい説教が、彼自身の試練から生まれたものだということを、あなたは知らないでしょう。

パウロは、自分の義を他人の義と比較しないよう、警告しています。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。」(第二コリント人への手紙10:12)

私達は他人の心を読むことが出来ません。41日目に、イエス様が長く厳しい試練を終えられたばかりだということを、いったい誰が知り得たでしょうか。人々が目にした栄光が、彼らの経験したことがないような困難から生まれたものだということを、いったい誰が知り得たでしょうか。

私達は、イエス様だけを見つめるべきです。そして、彼の義と聖さのみに、より頼むべきなのです。主は私達全員に、同じ権利を与えてくださっています。

神様は、あなたが試練にある時も、あなたを愛しておられます。神様御自身の御霊が、あなたを荒野へと導き出されたのです。しかし、御子はすでにそこに行き、あなたが経験していることのすべてを知っておられるのです。あなたが主に完全なる信頼を置く様、神様が成されている御業の 完成を見ましょう。あなたはこの試練から、自信だけでなく、神様のもつ憐れみと、他人を助けるための力を持って、抜け出すでしょう。

2008年10月16日木曜日

泣いてしまいなさい

あなたがひどく心を痛める時は、隠れた場所に行って、嘆きのすべてを泣きはらしてしまいなさい。

イエス様は涙を流されました。ペテロも苦い涙を流しました。ペテロは、神様の御子を否定してしまったという痛みを抱えていました。しかしその苦い涙は、彼の内に麗しい奇跡となって働いたのです。彼はサタンの支配を揺さぶるため、戻って来ました。

イエス様は、涙を流す者から、決して目をそらされません。こう書いてある通りです。「打ち砕かれ悔い改める心を、神よ、あなたは侮られません。」(詩篇51:19)ただの一度でさえ、主は「しっかりしなさい!ちゃんと立って、必要な薬を服用しなさい。歯を食いしばり、涙を我慢しなさい」と言われませんでした。それどころか、イエス様は私達の涙の一粒一粒を、永遠の容器に入れて保存しておられるのです。

今あなたは痛みを覚えておられますか。ひどく傷ついておられますか。だったら、泣いてしまいなさい。涙が流れ落ちなくなるまで、泣き続けるのです。しかし、痛みのためにだけ泣くのです。不信仰や自分に対する同情心から泣いてはいけません。

人生は進んでいきます。神様の助けによって、どこまで我慢することが出来るか、自分自身に驚くことがあるでしょう。幸せとは、痛みや傷を受けずに生きることではありません。真の幸せとは、悲しみや痛みがあるにも関わらず、一日ずつ、その日を生きる方法を学ぶことです。それは、過去にどんなことがあったとしても、主にあって喜ぶことを学ぶことです。

あなたは拒絶感を抱いているかも知れません。見捨てられたように感じているかも知れません。信仰の弱さを覚えているかも知れません。打ちのめされ、カウントをとられるのを待っている様に感じているかも知れません。時に、悲しみ、涙、痛み、空虚感に襲われるかも知れませんが、神様はそれでも御座にいらっしゃいます。神様は、神様なのです。

あなたは自分自身を救うことが出来ません。自分の手で、痛みや苦しみを止めることは出来ません。しかし、私達の主があなたに訪れ、その愛に溢れた御手であなたを引き上げ、再び天の御国へと導いてくださいます。主は死の恐怖から、あなたを救い出してくださいます。神様は、永遠に続くあなたへの愛を示してくださいます。

だから目を上げて下さい。主にあって、元気を出して下さい。霧があなたを囲み、窮地から逃れる道が見えない時には、イエス様の御腕に身を委ね、ただ主に信頼するのです。イエス様は、あなたの信仰、信頼感を求めていらっしゃいます。主はあなたがこう叫ぶのを望んでおられるのです。「イエス様は私を愛しておられる!私と共におられる!主は決して私を見放されることはない。今、すべてを良きに働いてくださっている。落胆することなどない!私は決してサタンの餌食になったりしない!打ち負かされることもない!神様が私と共におられる。私は主を愛しているし、主は私を愛してくださっている!」

結局は信仰が要となります。そして信仰は、次の絶対的な事実に、安らぎを得ます。「どのような武器があなたに対して作られても、何一つ役に立つことはない。」(イザヤ書54:17)

2008年10月15日水曜日

量り与えられる神様の栄光

「また、彼らに言われた。『(中略)あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。』」(マタイによる福音書4:24~25)

イエス様はこれらの御言葉が、霊のない人の耳には奇妙に聞こえるかも知れないと御存知だったので、「聞く耳のあるものは聞きなさい」と言ってこのお話を始められました。(マルコによる福音書4:23)イエス様は「もしあなたの心が、神様の御霊に対して開かれているなら、わたしがあなたに伝えようとしていることを、あなたは理解するだろう」とおっしゃったのです。

イエス様がこの箇所で伝えられたかったのは、一体何だったのでしょうか。イエス様は、私たちの人生における、神様の栄光を語っておられたのです。すなわちそれは、キリストの臨在のことです。要するに、主はその栄光に満ちたご臨在を、教会や個人に対して、異なる分量を分け与えられるということです。ある人達は、神様の栄光を一切受け取りません。しかしある人達は、彼らの教会又は人生において、永遠に増し続ける、神様の栄光を受け取ります。

神様は終わりの日に、神様の民の上に御霊を注ぐと約束されました。実際聖書はすべて、終末のときに勝利と栄光に満ちた教会に向けて書かれています。イエス様御自身も、地獄の門は彼の教会に打ち勝つことが出来ないと語られました。私たちは、弱々しく足を引きずり、打ちのめされ、絶望し、すすり泣き、落胆した状態で、御国に入る訳ではありません。そうではなく、私たちの主は、もっと素晴らしい力を、主の教会に与えてくださいます。この力は、しるしと不思議によって表わされるだけではありません。それは神様の民によって表わされます。神様の御霊によって触れられた彼らの心が、素晴らしい変化を遂げることによって表わされるのです。

どの様にして、さらに素晴らしく、永遠に増し続けるキリストの栄光を、手に入れることが出来るのでしょうか。主は明確に語ってくださっています。「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。」(マルコによる福音書4:24)イエス様はこう言っておられます。「あなたがわたしに委ねている心の分量に応じて、わたしはあなたに与えよう。あなたのわたしに対する態度に応じて、わたしもあなたに応じよう。あなたがわたしを量る分量に応じて、わたしもあなたに量り与えよう。」

もしあなたが、神様の素晴らしい御業を当然のものと見なし、神様に怠惰とものぐさを量り与えているのなら、あなたにも無気力でうたた寝をするような霊が与えられるでしょう。「怠惰は人を深い眠りに落とす。怠けていれば飢える。」(箴言19:15)結果として、あなたの魂は飢え渇き、満たされることがないでしょう。

神様の私達に対する愛、憐れみ、恵みは、限りがありません。ここでの問題は、どうやって神様の愛、憐れみ、恵みを手に入れるかではありません。そうではなく、神様の栄光の恵みを、いかに私達の人生で体験するかということです。

イエス様は、私達が神様に分け与える心の分量に応じて、神様の栄光を私達に分け与えられると、はっきり語って折られます。私達に求められていること、それは礼拝において、忠実さにおいて、従順さにおいて、さらに神様に近づくことです。

2008年10月14日火曜日

傷つくとき

どの様にかは別として、私たちは皆、傷ついています。地上に生きる人は誰でも、その人に課せられた、痛みの重荷を背負っています。

あなたが深く傷つく時、誰もあなたの内なる恐れと、心の奥底でのもがきを鎮めることは出来ません。どんなに親しい友人も、あなたが経験している試練や、あなたが受けた傷を理解することは出来ません。

傷ついた心に対する特効薬は、あるのでしょうか。深く、秘めた痛みに対する癒しは、存在するのでしょうか。砕かれた心が元通りにされ、以前よりさらに強められることは、可能でしょうか。はい、断言して言います。それは可能です。もしそうでないなら、神様の御言葉がただの作り話であり、神様が嘘つきということになってしまいます。そんなことは、決してあり得ません。

神様はあなたに、痛みのない道を約束されませんでした。神様はあなたに、「逃げ道」を約束してくださいました。あなたの痛みを担うと、また、弱さに負けそうになりよろめく時に、再び歩みだす力を与えると、約束してくださったのです。

私たちの愛に満ちた神様は、こうおっしゃいます。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(第一コリント人への手紙10:13)

天のお父様は、あなたを揺るぎのない目で見守ってくださっています。あなたの一挙手一投足は、記録されています。涙の一滴一滴は、瓶に詰められています。神様は、あなたの痛みのすべてに共感してくださっています。神様はそのすべての痛みを感じておられるのです。あなたが決して涙に溺れることのないように、あなたの痛みが、あなたの思いを破壊させることのないようにしてくださいます。神様は、必要な時に必ず、あなたの涙を拭き、悲しみの代わりに喜びを与えるために来てくださると、約束してくださっています。

あなたには、主にあって心に喜びを抱く力が与えられています。神様の御目は、あなたに注がれています。そして神様はあなたに、立ち上がり、疑いを生む恐れを振り払うよう、命じておられます。

2008年10月13日月曜日

あなたに必要な恵み

恵みはよく、本来なら私達が受ける価値のない、神様の愛顧と祝福であると言われます。ですが私は、恵みがこの定義をはるかに超えたものであると信じています。私の考えでは、恵みとは私達が苦しみにある時、その苦悩を乗り越えるために必要なもの―力、権力、優しさ、憐れみ、愛―正にキリスト御自身だということです。

私が過去を振り返る時、大きな試練、苦しみ、誘惑、苦悩に満ちた年月の中で、神様の憐れみは、私にとって十分であったと証し出来ます。私の妻が幾度もガンと闘病し、さらに娘たちも病に倒れた時、神様に疑問を抱くことがどういうことかを経験しました。今日、妻も娘たちも、健康で強められていることを、神様に感謝します。私はまた、サタンの使いによって、攻撃を受けることがどのようなことか、経験しました。ひどく誘惑を受け、そそのかされ、四面から敵にかき立てられました。デマによって中傷を受け、根も葉もないことに対して罪に咎められ、友人たちから拒絶されました。その様な闇の日々、私はただひざまずいて、主に叫びました。

神様の恵みは、常に私を導き出してくださいました。そしてそれは、今日この日に必要なすべてを満たして下さっています。そしていつか栄光の日に、御父は私のために最初からずっと立てていてくださった、素晴らしい御計画を、私に表わしてくださいます。神様は、すべての試練を通して、いかに私が忍耐を養ったか、他の人々に対する憐れみの心を養ったか、私の弱さの内に神様の強さが完全にされたか、神様が真実なるお方であることを理解するようになったか、もっとイエス様の様になりたいと望むようになったか、示してくださいます。

それでも私たちは「何故ですか」と問いたくなるかも知れません。しかしそれらは、神秘とされているのです。イエス様が私を迎に来てくださるその日まで、私はそれらを神秘として受け入れる覚悟が出来ています。私は、自分の試練や苦悩に終わりがないと知っています。50年以上に亘るミニストリーを通して経験してきましたし、それはこれからも続いていくことでしょう。

しかし、そのすべてを通して、私は益々強められていく、キリストの力を受け続けています。事実、私の経験した素晴らしい神様の栄光は、最も苦しい試練にある時に与えられてきました。同様に、皆さんの一番苦しい時にも、イエス様がその力を最大にあなたの内に解き放ってくださいます。

私たちが何故、痛み、苦しみ、絶望を経験するのか、完全に理解することはないかも知れません。私たちの癒しの祈りが、なぜ聞かれなかったのか、理解出来ないかも知れません。しかし私たちは、その理由を知る必要がありません。私たちの神様は、すでに答えてくださっています。「あなたには、わたしの恵みがある。我が愛する子よ、それこそあなたに必要なもののすべてである」と。

2008年10月10日金曜日

あなたの反抗と悪魔の逃亡

サタンはこの様に言って、イエス様を誘惑しました。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう。」(マタイによる福音書4:9)この言葉は、非常に滑稽で、ばかげていて、誘惑とは捉えがたいものです。しかしこれは、魅力的で、説得力のあるオファーでした。サタンはこう言って、イエス様を試みました。「もしお前が、わたしの足元にひれ伏しさえすれば、ほんの小さな礼拝の態度を示すなら、攻撃することを止めると約束しよう。これらの領域において、わたしの力をすべて投げ捨てよう。誰かにとり付いたり、誰かを奴隷にしたりすることもしない。お前は、人類のために神がお前を呪うのを許すほど、人類を愛している。だったら、何をためらっているのか。今ここで自分自身を捧げるなら、この先ずっと、世界を解放することが出来るのだ。」

なぜ悪魔は、このために彼の力をすべて捨てても良いと言ったのでしょうか。それは、自分自身を救うためです。サタンは自分の運命が、カルバリーにて完全に封印されると知っていたのです。ですから、もしイエス様が十字架にかかられるのを阻止することが出来るなら、その宿命から免れるかもしれないと考えたのです。

あなたは、「これが私と、一体何の関係があるのか」と思われるかも知れません。それはサタンが今なお、義なる人を同じ様なオファーをもって、試みているからです。サタンは脅しと言いがかりをもって、私達のところにやって来ます。そして、「わたしを礼拝しなくとも良い。もうすでに、お前の肉に近づくことが出来るからだ。お前の弱みは、すべて知り尽くしている。だから思いのまま、キリストにある自由を語るが良い。お前が最大の賛美を捧げる時、お前の心を悪で打ちのめしてやろう。お前の内に罪を激しく送り込み、お前は一生自由になることがないと、諦める様になる。お前は無力なのだ」と語りかけます。

この様なサタンの言いがかりに対して、どうやって応えたら良いでしょうか。「神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。」(ヤコブの手紙4:7)どれ程サタンが、あなたに試練を投げかけてくるかは、問題ではありません。過去の罪のことを、恐れる心配などありません。もしキリストの血が、その罪を覆っているなら、サタンはどうやっても、あなたを御父から離すことが出来ないのです。

2008年10月9日木曜日

疑いが生じるとき

「(イエスは)40日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。』」(マタイによる福音書4:2~3)

イエス様が肉体的に弱さを覚えていた時、悪魔は最初の誘惑を持ち出しました。

空腹を覚えることは、罪ではありません。だとすれば、ここでの問題は一体何でしょう。サタンはイエス様にこう、挑戦したのです。「もしお前が本当に神様なら、神の力を持っているはずだ。今、お前は困難な状況にある。神がお前に与えた力をもって、自分自身を救ったらどうだ。ちゃんとその力を用いることが出来るか試すため、神はお前にその力を与えたのではなかったのか。」

ここに、心から神様に従おうとしている人達が直面する、最も狡猾な誘惑の一つが記されています。イエス様の例の様に、あなたは神様に対して情熱を持っています。神様に完全に委ねようと、心に決めてきました。すると主は、あなたを荒野での経験へと導かます。しばらくすると、疑問が生じます。あなたは徐々に忍耐力を失い、あなたの人生における、神様の永遠の目的を疑い始めます。そしてあなたが、祈りによって勝利を得ようと努める一方で、サタンの誘惑は、その激しさを増すばかりのように感じられます。

敵はあなたが、御父から独立して行動することを望んでいます。悪魔は、「お前の苦しみは、神様から来るものではない。この苦しみに耐える必要はないのだ。お前は、御霊によって、その内に神の力を秘めている。言葉を語り、自分自身を解放すれば良いのだ。その空腹を満たすのだ」と言います。

サタンの最初の計画は、力不足を生み出すことでした。彼は、もしイエス様がパンを求められた時に、神様がその叫びに応えられないことを、願っていたのです。もし天の力が働かないなら、キリストが御自身の神性を疑い、地上での永遠の目的から離れられるかも知れない、と考えたのです。次にサタンはイエス様が、御父の言われたことだけを行うように遣わされたのだと知っていました。ですからサタンは、イエス様が御自身の福利のために、ここで御父に背く様、説得しようと試みたのです。そうすることで、もしイエス様が苦しみから逃れるために、ここで御力を用いられるなら、後に十字架を避けるためにも、同じ事をするだろうと考えたのです。

では、どうやってイエス様は、悪魔の誘惑に応えられたのでしょうか。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(マタイによる福音書4:4)キリストが言わんとされたこと、それは「わたしが地上に来たのは、自分の必要を満たしたり、身体的な快適さを求めたりするためではありません。わたしは自分を救うためではなく、人類に施すために来たのです」ということです。

苦しみの極致にあってでさえ、イエス様は御自身の永遠の目的を、見失われませんでした。もし主が荒野での経験を通して、委ねることと憐れみの心を学ばれたのなら、私達も同様にすべきです。

2008年10月8日水曜日

荒野の旅

ドイツ人神学者である、ディートリヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer)は、クリスチャンが流氷の海を横切ろうとする人の様だ、と表現しました。クリスチャンはその海を横切る間、神様が最後まで見守ってくださるという信仰による以外、決して休むことが出来ません。一所に長く留まることは出来ません。さもなければ、沈んでしまうからです。一歩踏み出せば、すぐさま次の一歩を探さなければなりません。足元には底知れない深い海底が、目の前には未知の世界が広がっています。しかし、彼の行く手には、必ず主がいらっしゃいます。今は陸地を見ることは出来ませんが、心の内に約束として、その先に必ず陸地があると信じています。ですから旅人であるクリスチャンは、その視線を目的地に定め続けることが出来ます。

私は人生を、イスラエルの子孫が経験した様な、荒野での旅と考えます。ヨシャファト王の戦いや、ユダの子孫の戦いは、私達の戦いでもあるのです。(歴代誌下20章参照)もちろん荒野ですから、蛇や、乾いた水の穴や、涙の谷や、敵の軍隊や、熱い砂や、干ばつや、乗り越えられない山があります。しかし、主の子ども達が立ち止まって、主の救いを見るなら、神様はその荒野で食卓を備えてくださいます。天からマナを降らし、神様の力のみによって敵軍を蹴散らし、岩から水を湧き上がらせ、蛇の噛み跡から毒を抜き出し、雲と炎の柱によって導き、乳と蜜を与え、力強い御手によって彼らを約束の地へと導かれます。そして神様は、こう後の世代へと語り継ぐ様、警告されました。「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる」と。(ゼカリヤ書4:6)

誤ったところに助けを求めることを、止めましょう。隠れた場所で、イエス様と交わりを持ちましょう。彼に、あなたのすべての悩みを告げるのです。彼の他には、どこにも行く所がないと、伝えるのです。彼だけが、あなたを守ることがお出来になると伝えるのです。問題を自分の手で、何とかしようとする誘惑を受けるでしょう。自分の力で解決したくなるでしょう。神様が働かれているのか、疑いたくなるでしょう。しかし、失うものは何もありません。ペテロがこう、集約しています。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」(ヨハネによる福音書6:68)

「地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。」(イザヤ書45:22)

「しかし、わたしは主を仰ぎ、わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる。」(ミカ書7:7)

2008年10月7日火曜日

苦悩による癒し

「わたしは迷い出て、ついに卑しめられました。今からは、あなたの仰せを守らせてください。」(詩篇119:67)

私は癒しを信じます。苦悩があることも信じています。そして、“苦悩による癒し”を信じています。私が堕落してしまわないようにしてくれる苦悩―私を御言葉へとさらに深く導いてくれる苦悩―は癒しです。最も憐れみに満ちた、神様の霊的また肉体的な癒しの力は、時に苦悩となることがあります。

痛みや苦悩は悪魔からくるものだと捉えることは、ダビデが悪魔によって、神様の御言葉を求める様、導かれたと捉えることになります。私は多くの痛みに苦しんできました。神様に解放を祈ってきましたし、神様は完全に癒すことが出来ると信じています。しかし、私はそれを信じ続けながらも、現状を神様に感謝し、それを、いかに私がまったく神様に依存しているかを思い出させる機会としています。私はダビデと共に、こう言うことが出来ます。「卑しめられたのは、わたしのために良いことでした。」(詩篇119:71)

痛みと苦悩を、悪魔からのものだと言って、忌み嫌うべきではありません。その様な重荷は、信仰と識見を備えた人を養ってきました。

「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。」(第一ペテロ5:7)

パウロは、彼に委ねられた、教会への思い煩いについて語りました。(第二コリント人への手紙11:28参照)新しく開拓された教会はすべて、彼の上に新たな“思い煩い”となって委ねられたのです。成長、発展、拡張は、必ず新たな思い煩いを伴います。神様が用いられる人は、懐の大きい人でなければなりません。その人は、多くの思い煩いと責任の下で、しり込みしてはいけないのです。神様によって導かれる、新たな信仰の一歩一歩は、多くの新たな思い煩いと問題を伴ってきました。神様は、私達にどれ程の思い煩いを委ねることが出来るか、完全に把握しておられます。神様は、私達の健康や強さを砕かれることを目的としてはおられません。ただ、収穫は非常に多いのに、喜んで進み出る働き手が少ないのです。思い煩いは、それらを拒む人達から取り去られ、それらを恐れない人達に、贈り物として与えられます。あなたに与えられている思い煩いを、忘れ去ってしまいなさい。それらをすべて、神様に委ねることは出来ませんか。

新たな祝福はすべて、一連の思い煩いを伴ってきます。祝福と思い煩いを、引き離すことは出来ません。あなたは思い煩いと共に生きることを学ぶまで、祝福と共に生きることを学ぶことは出来ないのです。

2008年10月6日月曜日

確固たる神様の愛

今日は「確固たる」という言葉について、お話したいと思います。この言葉は、努力や強度が衰えないこと、頑固であること、妥協しないこと、議論によって変わったり、説得されたりすることが出来ないこと、などを意味します。確固たること、それは定められた針路に固執することです。

これは神様の愛を示すのに、何と素晴らしい表現でしょうか。私達の主の愛は、確固たるものです。神様が、愛のうちに罪人も聖徒も追い求められるのを、妨げたり、縮小したり出来るものは何もありません。多くの詩篇の著者であるダビデは、こう記しています。「(あなたは)前からも後ろからもわたしを囲まれます。どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。」(詩篇139:5、7~8)

ダビデは私達が経験する、人生の山と谷のことを語っているのです。彼は、「時に私は祝福に満ち、喜びで心が弾むのを感じます。しかしある時は、自分の罪深さと価値のなさを感じ、地獄に住んでいるかの様に感じます。けれど、私がどこにいても、どれだけ祝福を感じていようと、状況が悪くあっても、主よ、あなたはそこにいらっしゃいます。私はあなたの確固たる愛から逃れることは出来ません。その愛を追い払うことも出来ません。あなたは私の自己評価の低さについて、決して私の主張を受け入れられません。私が不従順である時、あなたの真理に対し罪を犯し、あなたの恵みを当然の様に受ける時でさえ、あなたは決して、私を愛されることを止められません。私に対するあなたの愛は、正に確固たるものであります」と言っているのです。

パウロの証しを見てみる必要があります。パウロの人生について読む時、私達は神様の教会を打ち砕くのに躍起になっていた人を見ます。パウロは、クリスチャンに対する憎悪で、狂人の様になっていました。彼は、イエス様に従う者には誰でも、虐殺の脅しを吹きかけていました。彼は、信者の家に押し入り、牢屋に引きずり出すことが出来るよう、信者を狩り立てる許可を大祭司に求めました。

改心してからパウロは、彼が憎悪に満ちていた年月でさえ―偏見に満ち、キリストの弟子達を盲目的に狩り立てていた時でさえ―神様は彼を愛していてくださったと証ししています。彼はこう記しています、「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ人への手紙5:8)根本的に彼が伝えたいこと、それは「私は気付いていなかったけれど、神様は私を追い求めて下さっていました。神様は、私を馬から打ち倒されたその日まで、ずっと愛のうちに私を求め続けておられたのです。これこそが、確固たる神様の愛です」ということです。

年月を通しパウロは、人生の山にあっても、谷にあっても、神様が彼を最後まで熱烈に愛してくださるという確信を、徐々に深めていきました。彼はこう記しています。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ人への手紙8:38~39)彼は、「今や私は神様のものであるので、何ものも、私を神様の愛から引き離すことは出来ません。悪霊も、悪魔も、権威も、人も、天使も、どんなものも、神様の私への愛を止めることは出来ないのです」と宣言しています。

2008年10月3日金曜日

試練

「神は彼を試み、その心にある事を知り尽くすために、彼を捨てておかれた。」(歴代誌下32:31)

私達は、人生の大きな試練に立ち向かう心備えが出来ていないと、神様に示すことに必死になっています。しかし、神様は人を試されます。もしかしたら、あなたが直面している大きな試練や、抱えこんでいる重荷は、神様からの試練なのだと考えられませんか。

「神はアブラハムを試された。神が呼びかけ、『あなたの息子、(中略)イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさい。』」(創世記22:1~2)神様は国家全体を試され、その心がどこにあるかを探られました。「主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。」(申命記8:2)

歴代誌下32章31節に、素晴らしいことが記されています。神様は、偉大なる王を試すため、彼を捨てておかれたのです。「神は彼を試み、その心にある事を知り尽くすために、彼を捨てておかれた。」

主の僕が神様の御業を心から追い求める時、一見、完全に見捨てられたかの様な状態に置かれることが、しばしばあります。その僕は忍耐力の限界を試され、地獄の力にたった一人で向かい合わなければならないかの様に感じます。神様が祝福を注がれた人は皆、この様な方法で試されてきたのです。

あなたは今、慣れない環境に置かれていますか。見捨てられ、孤独であるかの様に感じていますか。予測出来ない敵との戦いに、負けそうになっていますか。これらは試練にあることのサインです。

いつも勝利することが望ましいのですが、万が一、あなたが試練に負けてしまうことがあっても、次のことを覚えていて下さい。神様は勝敗に関わらず、試練の後のあなたの態度と、あなたの心の内に何があるのかに関心をもっておられるのです。

イエス様は、私達を決して見捨てられたり、見放されたりしないと、約束してくださっています。しかし聖書は、御父が私達を試されるために、その臨在をとどめられることがあると、記しています。キリストでさえ、十字架の上で孤独な時を経験されました。この様な状況にある時にこそ、私達の救い主は、私達の弱さに心を動かされ、「わたしはあなたが信仰に躓いてしまわない様、祈っています」と囁きかけてくださるのです。

イエス様は、私達が自分の十字架を背負い、彼に従わなければならないのだと、おっしゃっています。(マタイによる福音書16:24参照)この十字架とは、何のことでしょう。それは、誘惑に陥りやすく、弱さを持った肉体のことです。その肉体と共に立ち上がり、信仰によって進むのです。そうすれば、神様の力が、あなたの内で完成させられます。あなたの十字架と罪が、重過ぎると感じていますか。そうであるなら、どうかあなたの十字架を背負い、歩み続けて下さい。神様はそれを御存知で、その重荷を取り去られるために、あなたの側におられます。

2008年10月2日木曜日

キリストはすでに勝利されました

ここ数ヶ月、私は悪習慣に未だ囚われている信者の方からの、残念なお手紙をたくさん読ませていただいています。葛藤しているクリスチャンの多くは、「賭け事が止められないでいます・・・アルコール依存に悩まされています・・・浮気をしていて、その関係を打ち切ることが出来ません・・・ポルノの奴隷となっています」等と書き綴っています。どの手紙にも、同じことが書かれています。「私はイエス様を愛しているし、神様に私を解放して下さいとお願いしています。祈り、涙を流し、信仰に基づいた助言を求めもしました。しかし、どうしても解放されないのです。どうしたら良いでしょうか。」

どうやってこれらの信者の方々に返答すれば良いか知恵を与えて下さる様、私は長い時間をかけて、主にお祈りしています。私は「主よ、あなたは御自分の子ども達の人生を御存知でいらっしゃいます。彼らの多くは献身的で、御霊に満ちた聖徒達ですが、あなたの勝利をまだ得ていません。自由を知らないでいます。何が起こっているのでしょうか」とお祈りします。

ある時私は、民に対する神様の約束を記した、聖書の箇所を学んでいました。その時、私達が倒れない様に、完全なものとして捧げられる様に、信仰によって義とされる様に、信仰によって聖められる様に、信仰によって守られる様に、主が誓ってくださってことを、思い出させていただきました。私達の古い人は信仰によって十字架につけられ、信仰によって神様の御国へと移行せられるのだと、神様が約束してくださっています。

これらの約束のすべてに、共通の点が一つあります。それは“信仰によって”という部分です。事実、神様の御言葉によると、これらのすべては、信仰による事柄とされています。ですから、これらの葛藤にあるクリスチャンが抱える問題の唯一明確な結論は、「その束縛の根底にあるのは、不信仰である」ということです。すべてはただ、信仰の欠乏の問題だということです。

あなたは自分の意志の力によって勝利を得るのに、苦戦していますか。古い人の性質によって戦おうとしていませんか。パウロはこの様に記しています、「働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものとみなされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」(ローマ人への手紙4:4~5)あなたの勝利は、涙を流すことや、努力によってではなく、キリストがあなたのためにすでに勝利を取られたという信仰によって来るべきです。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」(ヘブル人への手紙11:6)事実、パウロは神様の約束に、ただ一つの条件があると言っています。「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」(コロサイ人への手紙1:23)

キリストは、完全に忠実な息子となるため、すべてを御父の御手に委ねました。そして私達も同じ様にするべきです。キリストがそうであった様に、私達も完全に御父に頼らなければなりません。

2008年10月1日水曜日

神様はどこに住まわれるのでしょうか

イエス様が天に昇られてから、使徒ヨハネは、栄光に満ちた素晴らしい啓示を受けました。彼は、「わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と子羊とが都の神殿だからである。(中略)神の栄光が都を照らしており、子羊が都の明かりだからである」と言っています。(黙示録21:22~23)言い換えてみれば、天における唯一の神殿は、イエス様御自身だと言うことです。

神様の神殿が栄光に満ち、神様の右の座におられているなら、地上において主は、一体どこに宿られているのでしょう。神様御自身がこう、問われています。「わたしのために、どんな家を建ててくれるのか。わたしの憩いの場はどこか」と。私達は、どんな建物も神様を抱えきることが出来ないと知っています。神様は、バチカンにある聖ペテロ大聖堂にはおられません。ニューヨーク市にある聖ペテロ大聖堂にもおられません。またヨーロッパにある、どんな素晴らしい大聖堂にもおられません。パウロはアテネの町でこう、宣言しました。「世界とその中の万物を造られた神は、天地の主ですから、手で造った神殿にはお住みになりません。」(使徒行伝17:24)簡単に言うならば、私達が神様の神殿を建物に探すなら、決してそれを見つけることは出来ないということです。

主はそのお住まいを、私達の内に見つけられました。主は、御自身が創造された人間の体の内に生き、また憩ってくださるのです。パウロは、いかに神様の神殿が人の体の内にあるかを語っています。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(第一コリント人への手紙3:16)

イエス様を信じるなら、私達は神様の住まい、神殿となるのです。これは二階の広間にて、最も明確に現されました。その時聖霊が弟子達の上に下り、彼らを満たしました。そして聖められた彼らの体が、神様の住まわれる神殿になると、宣言されたのです。御霊は、彼らの罪深い肉の業を抑制し、打ち砕く助けをしてくださいました。そして勝利の人生を生きる力を与えてくださったのです。彼らの体は、人の手で造られたのではない、神様の宮となりました。

イエス様は「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」と言われました。(ヨハネによる福音書14:23)神様が一緒に住まわれるということです。

パウロはこう言いました、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(第一コリント人への手紙6:20)すなわち、あなたは神様のものなので、神様はあなたを御自身の住まいとされたいということです。ですから、あなたの心を真理に向け、それを受け入れることで、神様に栄光を捧げましょう。

2008年9月30日火曜日

私達の内にある神様の富

主が私達の内に住まわれる時、主は御自身のすべての力と富をもっていらっしゃいます。突然、私達の内なる人が、神様の力、知恵、真実、平和、そして勝利の人生を送るに必要なすべてのものを利用する特権を得たのです。私達は、神様に天から降って下さいとお願いする必要がありません。神様は既に、私達の内におられるのです。パウロはキリストにあって、私達がいかに強くされているかを記しています。

「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように。」(エフェソ人への手紙3:14~21)

何と素晴らしい聖句でしょうか。パウロは、神様が私達に備えて下さっている秘宝のいくつかを列挙しています。実に、神様のすべての富は、キリスト・イエスによって、私達に与えられているのです。

クリスチャンの中には、賛美を受けたがっている、自己中心的な神様の姿を描いている人がいます。私達の主に対して、そんなことが言われることがありませんように。なぜなら、それは神様が私達の内に住まわれるようになった理由と全く異なるからです。神様は、御自身が私達にとって近い存在であることを示されるために来られました。主は、どこか暗い宇宙のかなたにおられる方ではないと、私達に知って欲しいのです。神様は私達の内に確かにおられます。好きな時に私達の人生から、出たり入ったりされません。神様は私達の内から、決して去られることがありません。

パウロはこう記しています、「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」(エフェソ人への手紙2:13)彼ははっきり、こう語っているのです。「神様は、今、ここに、私達と共におられます。神様が私達の宮に宿られた時、神様は、愛によって深く根ざした私達の内なる人に、力と、神様に何でも求めることの出来る特権を携えて来てくださいました。私達の内に働かれる神様の御力によって、神様はすべてを可能にしてくださったのです。」(エフェソ人への手紙3:16~21参照)

2008年9月29日月曜日

新しく造られた者

「わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ人への手紙2:20)

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古い物は過ぎ去り、新しいものが生じた。」(第二コリント人への手紙5:17)

あなたは、「信仰によって、わたしはキリストの内にあることを知っています。新しく造られた者だということも。でも未だに悪い習慣に悩まされています。それが悲しくて仕方ありません」と思っておられるかも知れません。サタンは、神様があなたを見放されたと、あなたに信じ込ませたいのです。また、神様があなたを汚く、罪によって汚れた者として見ておられると、思わせたいのです。しかしそれは、全くの偽りです。あなたが感じておられるのは、肉とあなたの内におられる霊との戦いです。この戦いは、すべての信者に見られることです。そしてその戦いのただ中で、サタンはあなたの「古い人」がまだ力を握っていると思わせたいのです。

あなたの状況がどうであれ、神様はあなたに対する愛を決して揺るがせられません。神様は、その悪事、偶像崇拝、淫らな行いに関わらず、アダムの子孫を愛されることを、決してお止めになられません。神様が救いの御計画をもって介入されるその日まで、歴史を通して、終わりの日まで必ず守り抜かれるのです。十字架によって、すべてのアダムの子孫が和解されるようになったのです。

あなたと神様の関係は、たった一つのことに基づいているのです。それは、十字架によって、あなたは勝利者である、ということです。この勝利は、あなたが行ったどの様な善行によるものでもありません。パウロが言うとおり、「肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません」ということです。(ローマ人への手紙8:8)私達の勝利は、ただ悔い改め、信仰、神様の私達に対する愛を信じることによってのみ与えられます。そして私達がするべきことは、キリストによって神様が与えて下さった恵みに、固く立つということです。神様の御言葉が、こう保証してくれています、「あなたはきっと間違いを犯してしまうでしょう。しかしあなたを見る時、わたしは独り子である、御子イエスを見ます。あなたは罪悪感も非難もなく、必ずその戦いに勝利します」と。

2008年9月26日金曜日

神様が約束された安息

「それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。」(ヘブル人への手紙4:9~10)

あなたは、「約束された安息に入るとは、どういうことだろう。私の人生で、どの様にそれが実現されるのだろう」と思われるかも知れません。神様が私達の目から固定概念を取り除いて、この観念をしっかり把握出来るようにとお祈りします。簡単に言うならば、約束された安息に入るとは、キリストが救いの業をあなたのためにすべて完了して下さったと、完全に信じ切ることです。あなたはただ信仰によって、キリストの救いの恵みにあずかれば良いのです。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とイエス様が言われたのは、このことです。(マタイによる福音書11:28)それは、肉によるすべての努力を止め、人間的な努力で平安を得ようとする努力を止めるということです。そしてそれは、イエス様が成されるあなたへの御業に、完全により頼むということを意味しています。

私達の戦いは、肉や血によるものではありません。それは霊的な領域で行われるものです。旧約聖書は、これを明確化してくれています。何度も何度も、イスラエルは神様に対して、口先だけの約束をしました。「主よ、私達はあなたに仕えたいのです。あなたがおっしゃることは、何でもいたします」と。しかし歴史は、彼らにその約束を守る気持ちも能力もなかったのだと証ししています。神様は、彼らの自信を完全に打ち砕かれなければなりませんでした。私達が必要なもののすべては、尊い主の臨在から来る必要があります。

パウロはこう、記しています、「我らは神の中に生き、動き、存在する。」(使徒行伝17:28)ここにとこしえの交わりがあります。十字架の勝利によって、私達の主は昼も夜もいつでも、私達の側にいて下さるようになりました。決断は私達にあります。「私の人生にキリストを迎え入れたい。すべての肉のものから解放されたい。だから、神様の臨在へと進み行き、自分の相続分を主張します。イエス様が私のすべてとなって下さい。唯一の満たしの源となって下さい。」

2008年9月25日木曜日

約束の地が持つ真の意味とは

神様は私達の祖先であるアブラハムに、カナンの地を「永久の所有地として」与えられました。(創世記17:8)ヘブル語で「永久」とは“終わりがないこと”を意味しています。皆さんは、「アブラハムは至極喜んだに違いない。神様が彼の子孫に、見渡す限りの土地を永続の母国として与える約束をされ、それが永遠まで続くのだから」と思われるかも知れません。しかし新約聖書は、世界が炎によって破壊され、完全に燃え尽きてしまったその後に、主が新たな天と地を創造される、と記しています。

神様がアブラハムに与えられた「永遠の所有地」は、ただの土地のことなのでしょうか。それならば、どうしてそれが永遠であることが出来るでしょう。実は、この約束の土地とは、地上を超えたところにある場所の象徴なのです。アブラハムは霊によって、このことを理解していたと信じます。聖書は、アブラハムがカナンの土地に住まいながらも、いつも異国の民の様に感じていた、と記しています。「信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住みました。」(ヘブル人への手紙11:9)これは何故だったのでしょう。それは、アブラハムの心が土地そのものを超えた何かを求めていたからです。

「アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。」(ヘブル人への手紙11:10)アブラハムは祝福された土地の持つ、本当の意味に気付き、「この場所は実際の所有地ではないのだ。これは後に来る素晴らしい祝福の、ただの例解にしか過ぎないのだ」と考えていたのです。アブラハムは、約束の地が示す、真の意味を理解していました。彼はカナンの地が、後に来るメシヤを表しているのだと知っていました。イエス様御自身が、私達にこう告げておられます、「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そしてそれを見て、喜んだのである。」(ヨハネによる福音書8:56)

聖霊が、アブラハムに何年も先のこと、キリストの日のことを見ることを可能にさせたのです。彼は約束の地が、完全なる平安と安息の地を意味するのだと知っていました。そしてアブラハムが知っていた様に、この安息の地は、イエス・キリスト御自身なのです。そうです、主イエス様こそ、私達に与えられた永遠の所有地なのです。私達はイエス様のものですが、イエス様もまた、私達のものなのです。そして神様は私達に、この永遠の所有地を信仰によって手に入れる様、招いておられるのです。

2008年9月24日水曜日

テモテはどこにいるのか

パウロが最初に「キリストの思いがあなたがたの内にあるように」という真実を紹介したのは、フィリピにいるクリスチャンに対してでした。パウロはこのメッセージを、ローマでの牢獄中に書き綴ったのです。

パウロは監房から、キリストの思いが内にあり、自分の名声を放り投げてキリストとその教会の僕になる、と宣言したのです。そして彼はこう書きました、「わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もまくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています。」(フィリピ人への手紙2:19)

これこそが、キリストの思いが実際に働いていることを表しています。考えてみて下さい、ここに牢屋に入れられながらも、自らの厳しい状況や慰めのことに思いをやらずにいる牧師がいます。彼はただ、彼の牧する人々の、霊的また肉体的な状態だけを気にかけているのです。そして彼らに対して、「私の慰めは、あなたがたが霊においても肉においても健康であるという知らせを聞くことだけです。ですから、あなたがたの様子を見るため、私の代わりにテモテを送ります」と伝えたのです。

そしてパウロは、次の注意すべき言葉を告げました。「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。」(2:20)何と悲しい発言でしょうか。パウロがこれを記した時、彼の周りのローマにある教会は成長し、祝福されていました。ローマの教会には、神を畏れる指導者達が確かにいたのです。しかしパウロは、「わたしとキリストの思いを分かち合う者は誰もいない」と言っているのです。それは何故でしょうか。「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。」(2:21)どうやらローマの教会には、自分の名声を投げ打って、生きたいけにえとなる、僕の心を持った指導者達がいなかったようです。その代わり、誰もが私利私欲を追い求めていました。キリストの思いを持つ者は、誰もいなかったのです。パウロは、フィリピにいる信者達に対して真の僕となる者を、誰も見つけられませんでした。

ここでのパウロの言葉は、口調を和らげることなど出来ません。「誰もが自分のことだけを考えている。牧師者は、自分の利益だけを追い求めている。だからここにはテモテの他に誰も、あなたがたの必要と痛みに心から気をかけてくれると、私が信頼出来る者がいないのです。」

私達の祈りはこうあるべきです、「主よ、闇雲にただ動き行く世界の中で、自分だけのことを考えていたくありません。自分の将来のことだけに、思いを費やしたくありません。あなたが私の道を御手のうちに備えていて下さると知っています。どうか主よ、あなたの思いを、あなたの考えを、あなたの心遣いを与えて下さい。あなたの僕の心を持たせて下さい。アーメン。」