2008年5月1日木曜日

立ち止まり主を知る

1958年のことでしたが、私はある身体障害児を殺害したことで裁判にかけられている7人の少年の話を聞いて、大変ショックを受けました。御霊に強く揺り動かされ、私はその裁判が開かれている、ニューヨークの裁判所まで行くよう導かれるのを感じました。そして法廷に入った際、御霊によって、この少年たちに語りかけなさいと促されているのを確信しました。

しかし、その日の審議が終わろうとする頃、ある思いが私の内に湧き上がりました。「この少年たちは、鎖につながれたまま、あちら側のドアから退廷してしまう。そうしたら、私は二度と彼らに会うことは出来ないであろう」と。そこで私は立ち上がって、裁判官の方へ向かって歩み寄り、少年達が留置所に戻る前に、彼らと少し話すことは出来ないだろうかと願い出ようとしました。

その瞬間、複数の警察官が私に飛び掛り、私は無理矢理法廷から追い出されてしまいました。いたる所でフラッシュがたかれ、私は報道陣に取り囲まれた挙句、八次の質問を受けることになってしまいました。恥ずかしさと屈辱に満ち、私はその場に、ただ呆然と立ち尽くすことしか出来ませんでした。そして私の頭をよぎったのは、「教会の皆さんは、一体どう思われるだろう。なんて莫迦なことをして、と思ったに違いない。私の考えは甘かったのだ。」という思いでした。

混乱の中、私は心の中で祈りました。「主よ、私はあなたの導きを感じてここに来ました。何でこうなってしまったのでしょう。」もちろん、声に出して祈ることは出来ませんでした。そんなことをしたものなら、報道陣はさらに私のことを、気が狂っていると思ったことでしょう。それでなくとも、蝶ネクタイをつけた私は、十分変わり者に見えたはずですから。

神様はその時、そんな哀れな私の叫びを聞いて下さいました。そしてそれ以降ずっと、私の心の叫びというものに耳を傾け続けて下さっています。さらに、私のあのような法廷での一件から、「ティーンチャレンジ」という新しいミニストリーが生まれ、今では世界中でその活動が用いられています。ここに詩編34より、ダビデの証しをご紹介しましょう。「わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。」(詩編34:2)

ここでダビデが言わんとしていること、それは、「私は主によって砕かれた人々に伝えたいことがある、今も、そしてとこしえまでも。この世界がある限り、主はその御名を呼び、主に信頼をおく者を、必ず救い出される。主の計り知れない憐みと愛により、愚かなことをしてしまったこの私でさえ、主は助け出して下さった。」ということです。

一番重要なのは、偉大なる主が私たちの心からの叫びをすべて聞き届けて下さるということ。それが言葉に出されたものでも、心の中だけのものであっても、主は必ず応えて下さいます。たとえあなたが愚かな行動をとってしまったとしても、信仰につまずいてしまったとしても、ただ私たちの救い主に立ち返り、その御名を呼べば良いのです。私たちの神、義なる主は、あなたの祈りを聞き、必ず救い出して下さいます。