2010年2月26日金曜日

彼らには命と光があった

「イエス・キリストの教会は、社会の中で霊的な権威を持たない。それは彼らが霊性に欠けているからだ。」

何故、アメリカ政府のリーダー達やメディアは、クリスチャンを馬鹿にするのでしょう。何故、世間の目から見て、教会はその意義と目的を失ってしまっ たのでしょうか。何故若者は、キリスト教が彼らにとって無関係なものと見なす様になってしまったのでしょうか。

その理由の大半は、教会が光でなくなってしまったことにあります。キリストが社会で権威を持たないのは、キリストが私たちの人生において権威を持っ ていないからです。今日周りを見渡してみると、神の家で、キリストと真に結びついている人を、ほとんど見かけなくなりました。天国との交わりも、ほとんど ありません。そして牧師の中でも、世の方法を拒み、ただ神の導きだけに信頼をおく人が、ほとんどいなくなりました。私たちが光を失ってしまったのは、私た ちがキリストの命を失ってしまったからです。神様の主権が影響力を持つには、まず完全に委ね切った従順な器で、それが実現されなければなりません。

ネブカドネツァル王時代の、バビロン王国を思い出してみて下さい。それは、地上で最も巨大な王国でした。ダニエルは、後に続く王は皆、能力でも、力 でも、影響力でも彼に劣ると、預言しました。何故でしょうか。それは、バビロンを本当に統べ治めていたのが、ネブカドネツァル王ではなかったからです。巨 大な王国を支えていたのは、王が建設した金の彫像ではありませんでした。そうではなく、バビロンの権威は、少人数の神に従う人達の手にありました。主は隠 れた天の政府を立て上げ、ダニエルと3人のヘブル人の子ども達によって、それを支配させました。彼らが主の権威の器として用いられたのは、彼らが天の領域 において働いていたからです。彼らは、世の組織や制度を一切拒絶しました。その代わり、彼らは神様と一緒に閉じこもったのです。

その結果、この聖なる男性達は、時を読むことが出来ました。いつでも、神様が何をなさろうとしているか、民に告げることが出来たのです。彼らが王国 中で、明るく光り輝いていたのは、彼らの内に神の命があったからです。

列王記2章6節に、シリアがイスラエルに対して戦争をしかけようとする場面のことが、記されています。この危機にあって預言者エリシャは、自分の家 で腰掛け、主と語っていました。彼は神様の秘密の政府として、権威をもって統べ治めました。エリシャは主から御言葉を受け、シリアの策略のすべてを警告す るメッセージを、イスラエルの王に届けました。

シリアの王が、いかにエリシャが彼の策略を妨害しているかを耳にした時、彼は預言者の故郷を大勢の軍隊で取り囲みました。しかし神様はシリア人の目 を見えなくし、エリシャが彼らを捕虜として、イスラエル軍のキャンプ地まで導いていくことになったのです。エリシャには光があり、サタンの一挙手一投足を すべて知っていました。なぜなら、彼には命があったからです。

2010年2月25日木曜日

イスラエルの聖なる方を傷つけた

「(彼らは)繰り返し神を試み、イスラエルの聖なる方を傷つけた。」(詩篇78:41)ここで使われている“傷つける”という言葉 は、「神様の印象を傷つけることで、神様を悲しませる」という二つの語源から来ています。言い換えれば、神様を傷つけるということは、境界線を引いたり、 円で囲んだりすることによって「神様はここにいるけど、この先には行けない」と神様を制限することです。多くの信者が、この様な考えを持っています。私た ちは自分の頭の中で、非常に大きいキリストを、とても小さな印象や概念として記録してしまっています。

エルサレムの初代教会も、全く同じことをしました。彼らはキリストを小さな円で囲み、ユダヤ人だけの間に留めておこうとしました。しかし、イエス様 を制限することは出来ません。彼は絶えず、私たちの描く小さな境界線を破り、いつも一番遠くの人達に御手を伸ばされます。

例を一つ挙げてみましょう。約40年前まで、ペンテコステ派の人達は、霊による洗礼が自分達だけに与えられているものだと信じていました。彼らの内 の多くは、「私たちこそ、神様の霊に満ち溢れた教会なのだ」と思っていました。ペンテコステ派の牧師達は、主流の教派の活気の無さを見て嘆き、「彼らは私 たちの様に、完全なる福音を持っていないのだ」と宣言していました。

突然、神様の霊が、私たちの引いた境界線を打ち破られました。聖霊が、全教派の信者達の上に注がれたのです。この現象は、ジョン・シェリル (John L. Sherrill)氏によって、「彼らは異言を語った」(原題:They Speak With Other Tongues)という一冊の本にまとめられました。

また主は、私が書いた本、「十字架と飛び出しナイフ」を、特にカトリックの方の間で用いて下さいました。しかし、ペテロと初代教会同様、私がこの現 象を受け入れられる様になるには、主が私の心に働いて下さらねばなりませんでした。私はずっとペンテコステ派の信者として育てられてきたので、神父達が罪 を確信して涙を流し、イエス様に叫ぶのを初めて見ました。

すぐに福音派の牧師達が、「カトリックの聖母崇拝はどうするのか。そんな信仰を持つ人達に、どうやって働きかけるのか」と言って私に詰め寄りまし た。私はペテロと同じ様に、彼らに返答しました。「私には聖母崇拝のことは、よく分かりません。私が知っているのは、ただカトリック信者の間で、霊に飢え 渇いている人達がいるということです。そして神父達の間でも、イエス様を礼拝する真の信者がいるということです。神様が、この人達を御自身の御霊で満たし ておられるのです。」

神様は、世界の隅々まで御自身の民を養っておられます。ですから私たちは、その中の誰をも、下品で汚れた者と呼ぶことは出来ないのです。私たちは、 イエス様を小さい方である様に描いたり、自分達のちっぽけな考えの中で、小さな箱に入れてしまったりしない様、気を付けなければなりません。

2010年2月24日水曜日

シミもしわもない

キリストの教会は、世から承認されたり、受け入れられたりすることがありませんでした。そして将来的にも、同じことが言えるでしょ う。もしあなたがイエス様のために生きるなら、すすんで他の人から離れようとする必要はありません。彼らの方が、あなたから離れていくでしょうから。あな たがただ、イエス様のために生きようとするだけで、突然、非難を受け、拒絶され、悪魔と呼ばれることに気付くでしょう。あなたは「人々に憎まれ、また人の 子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられる」のです。(ルカによる福音書6:22)

しかしイエス様は、こう続けられます。そしてこれこそが、真の満たしへの道なのです。「自分のために命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたし のために命を失う者は、それを得る。」(マタイによる福音書16:25)言い換えると、こういうことです、「人生に意義を見つける唯一の方法は、わたしの ために一切を失うことです。そうすれば、真の喜び、平安、満足感を得ることが出来るでしょう。」キリストは、私たちにこう言われます。「わたしの教会に は、シミもしわもありません。だから、あなたがわたしのところに来る時、すべての罪を投げ捨てる心構えが必要なのです。わたしにすべてを明け渡し、完全に 自分に、また自分勝手な野望や自我に、死ななければなりません。信仰によって、あなたはわたしと共に葬られます。しかしわたしがあなたを、新しい命へと甦 らせます。」

シミもしわもないということが、何を意味するか、考えてみて下さい。皆さんもご存知の通り、シミは汚れのことです。しかししわとは、どういうことで しょう。“新しいしわ”という言葉を聞いたことがありますか。それは、「既存の考えに、新しいアイデアを付け足す」という意味です。この理解を当てはめる ならば、しわとは、福音を改良しようとする人達のことを示しています。それは、完全にキリストに委ねることなしに、簡単に天国へ入る方法を手に入れようと することです。

この種の福音が、今日の多くの教会で語られています。説教は、人々の必要を満たすことだけを目的として説かれています。イエス様の御言葉を読む時、 私はこの種の福音が、うまくいかないことに気付かされます。それは、真の福音の働きを成し遂げることが出来ないからです。

誤解しないで下さい。私は神様の民に、慰めや勇気を語ることに反対している訳ではありません。主の羊飼いとして、私は正にそのために召されているの です。しかし、もし私が人々の必要を満たすことだけのために説教し、私たちのすべてを投げ出す様勧められたキリストの教えをないがしろにするならば、私た ちの真の必要は、決して満たされることがありません。イエス様の御言葉は明確です。私たちの必要は、自分に死に、キリストの十字架を背負うことによって、 満たされるのです。

2010年2月22日月曜日

自分の描く主の姿

あなたは、キリストとの関係に成長が見られなかったり、成熟していなかったりする家族や友達のことを心配していますか。その人を見 定める時、自分にとってのキリストの概念を、その人の人生に当てはめようとしていませんか。自分の中で、真のクリスチャンはこういうものだという絵を描い て、あなたの愛する人がその絵に当てはまらないと思っていませんか。

もしかして、あなたはキリストを制限していないでしょうか。あなたのイエス様はとても小さく、固く活動を制限されているので、あなたは彼の御霊が、 深く隠れた働きをしていると、信じることが出来ないでいるのではないでしょうか。自分の思い描いた絵に見合っていないと言って、非難していませんか。神様 は大きなお方であり、目に見えない方法で、その人の内に働かれることが出来ると信じていますか。

約35年前、セレステ・ホバスというある悪名高い女性が、ブルックリンにあるティーン・チャレンジにやって来ました。彼女は、全米でも非常に有名な 男性たちを相手にする売春婦たちを雇っている、ニューヨークで最も名の知れた女将でした。セレステはペンテコステ派の家庭で育ち、祈りの人であった彼女の 祖母は、彼女に向かって「あなたは伝道者になる」と預言しました。しかしセレステは、教会の教えを拒絶し、売春に走ったのでした。

セレステの売春宿が繁盛するにつれ、彼女は薬物に依存するようになりました。この間ずっと、彼女の心の中で葛藤が繰り広げられていました。毎晩彼女 はこう祈りました、「神様、どうか私にあともう一日、命を与えて下さい」と。結局セレステは逮捕されました。そのニュースは、全米で一面記事となりまし た。ある時彼女の弟は、「お前は家族にとんでもない恥をもたらした。もう救いようがない」と彼女に書き付けました。

しかしイエス様は、彼女を決して見捨てられませんでした。ある日、非常に心細く感じてどうしようもなかった時、セレステは祈り、主の御前で心を砕き ました。すぐに彼女は変えられ、その瞬間に新しく創られた者となりました。

彼女の生活を外側から眺めていた人達は、誰もが彼女に望みは無く、何も変わりようが無いと思っていました。しかし彼らは、限定されたキリストの考え しか持っていなかったのです。彼らは、この間何年にも亘って、彼女の内でずっと働いておられた聖霊を見ていなかったのです。人々がセレステを、ただのあり ふれた汚れた者としてしか見ていない中、主は彼女を伝道者として見ておられたのです。

セレステは判決が下る直前にティーン・チャレンジにやって来たので、私たちは彼女のケースを引き受けました。彼女は刑務所にいる間に、神様が召され た通り、伝道者になりました。彼女は投獄中に、たくさんの魂をイエス様に導きました。釈放されてから、彼女は力強い路傍伝道師となり、やがてロングアイラ ンドで教会を開拓しました。その教会は、今日も霊に満ち溢れています。

2010年2月19日金曜日

畏怖と敬意

聖書は、一人ひとりの信者が養わなければならない、主の畏れがあると明確に示しています。真の神様に対する畏れは、畏怖と敬意を含 みますが、それよりももっと深いものです。ダビデはこう記しています。「神に逆らう者に罪が語りかけるのが、わたしの心の奥に聞こえる。彼の前に、神への 恐れはない。」(詩篇36:1)ダビデは、「誰かが罪におぼれるのを見るとき、私の心は、その人の内に神に対する恐れがないことを知らせてくれます。その 人は、罪に関する真実や、神様が私たちを聖さへと召されていることを認めていないのです」と言っているのです。

事実、信仰に満ちた畏れは、邪悪な時代にあって、私たちに勝利を維持する力を与えてくれます。ではどうやって、この畏れを手に入れることが出来るの でしょうか。エレミヤは、神様からの御言葉によって、こう答えてくれます。「わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼 ら自身とその子孫にとって幸いとなる。わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしか ら離れることのないようにする。」(エレミヤ書32:39~40)

これは、主からの素晴らしい約束です。神様が、私たちに聖い畏れを与えると、保証して下さっているのです。神様はこの畏れを、超自然的な閃光とし て、ただ私たちの心に入れ込まれる訳ではありません。神様は御自身の御言葉を通して、この畏れを私たちの内に入れられるのです。

では、ただ聖書を読むだけで、神様の畏れが私たちの内に植えられるということでしょうか。そうではありません。それは私たちが、神様の御言葉一つひ とつに従おうという決断を、意識的に行う時に与えられます。聖書はこれを証明しています。エズラにどうやって、神様に対する畏れが与えられたかが記されて います。「エズラは主の律法を研究して実行し、イスラエルに掟と法を教えることに専念した。」(エズラ記7:10)

神様に対する畏れは、旧約聖書だけの概念ではありません。それは旧約・新約両聖書を通して見ることが出来ます。旧約聖書は、「主を畏れ、悪を避け よ」(箴言3:7)と語っています。同様に、新約聖書もこう記しています、「彼らの目には神への畏れがない。」(ローマ人への手紙3:18)さらにパウロ はこう言っています、「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(第二コリント人への手紙7:1)

2010年2月18日木曜日

隠されるべきではない光

イエス様は私たちに、「あなたがたは世の光である」と言っています。(マタイによる福音書5:14)この御言葉は、ただミニスト リーを行うこと以上のことを、物語っています。それは教えや、説教や、トラクト配布を超えています。キリストは非常に分かり易く「あなたがたは光である」 とおっしゃっているのです。彼が言っていること、それは「あなたがたは、ただ光が反射したものではありません。光そのものなのです。そしてあなたの光の明 るさは、私との歩みの強さにかかっています」ということです。

ここで主が、何を言わんとされているか、分かりますか。世界は、誰が主と共に歩む者か、判断することが出来ます。あなたの近所の方や職場の仲間は、 あなたの主との日々の交わりや、主にある信仰や、主への完全なる信頼を知らないかもしれません。しかし、彼らはあなたが放つ光を見ます。あなたが主と共に あって、命を得ているからです。そして、何もその命を隠すものが無い限り、あなたの光は暗闇で光り輝きます。

「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」(マタイによる福音書5:14)イエス様は、「わたしはあなたを、世に見 せるために置いた。わたしがあなたを展示物としたので、人々はあなたを見るでしょう。あなたは隠されるべきでない、光なのです。」

では、誰がこの山に置かれた光なのでしょうか。そしてどこで彼らを見かけることが出来るのでしょう。彼らは大抵、スポットライトの下では見つけられ ません。彼らは自己中心的で、世から認められることのために生きている、出世を追い求める人達の間では見ることが出来ません。また彼らは、聖いふりをしな がら、陰口をたたき、不平・不満をこぼしている、自尊心の強い、教会の派閥支持者の間でも見ることが出来ません。

長年の経験を通して私は、一見信心深く見えながら、実は霊的に怠惰である多くの信者を見てきました。彼らは謙遜に見えると思い、自分達の失敗や弱さ を語ります。しかし彼らは他人の過ちを、すぐに裁きます。彼らは、誠実で、寛大で、僕の様に仕える、キリストの様な霊を持っていないのです。それどころ か、彼らが持つ“光”は実は暗闇なのです。イエス様は「もしあなたの内にある光が濁っているなら、その暗さはどれほどであろう」(マタイによる福音書 6:23)と言っています。キリストの命がないなら、他の人を照らす光はありません。

「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためであ る。」(5:16)私たちが世に光を放つようにされているのは、神様が栄光を受けられるためです。

2010年2月17日水曜日

光に秘められた命

「イエスは再び言われた、『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』」(ヨハネによる福音書 8:12)

イエス様は世の光です。ヨハネは、キリストの内にある命が、この光を生み出したと言っています。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であっ た。」(ヨハネによる福音書1:4)簡単に言うならば、キリストが持つ命が、世の光の源だということです。そして信じる者はすべて「命の光を得る」(ヨハ ネによる福音書8:12)のです。では、聖書が語っている“光に秘められた命”とは、一体何のことでしょう。

私たちのほとんどは、この命をキリストの内に秘められた永遠の命として理解しています。それは、信じる者すべてに永遠の命を与えることが出来る、キ リストの力です。しかしヨハネはここで、それ以上のことを語っています。彼がここで使っている“命”という言葉は、イエス様の存在のすべてを表しているの です。

イエス様は私たちに、御自身が生きられた様に生きなさいと言われています。私たちがキリストの様に生きるためには、彼の人生が私たちにとって、自分 たちの経験から理解出来る様なものである必要がありました。私たちの人生に、結びつくようなものでなければならなかったのです。

皆さんに、どうやって私がキリストにある命と結びつきを見出しているか、お教えしましょう。私はイエス様が触れられ、話され、成されたどんな小さな ことをも喜びます。イエス様の日々の行い、御言葉、御父との歩みが、私たちにキリストにある命が、どんなものであるかを明確にしてくれると信じています。

私はラザロとイエス様の友情を、思い浮かべます。長いミニストリーの後に、群集から距離を置かれたイエス様のことを、思い浮かべます。マリア、マル タ、ラザロの家で、楽しんでいるイエス様を思い浮かべます。そして子ども達を抱え、祝福するイエス様の姿を思い浮かべます。結婚の宴の席で水をワインに変 えた、成長した後も母に対して従順であったイエス様を思い浮かべます。軽蔑を受ける者、醜い者、貧しい者を気にかけ、愛を注いだイエス様を思い浮かべま す。姦淫の最中に捕まった女性や、たった二枚の銅貨しか捧げることの出来なかった、やもめに対するイエス様の憐れみを思い浮かべます。

イエス様が地上で成された、愛に満ち、僕の様に仕えられた、すべての御業を記録するには、本が足りないでしょう。これらの聖句の中で私たちは、自分 の人生とキリストの人生を結びつける方法を見つけ出します。これが“光である命”を理解する方法です。

2010年2月16日火曜日

約束に立つ

神様の先見的な祝福の約束があるので、私たちは戦いが始まる前に、勝利と主権を主張することが出来ます。ダビデはこう歌いました、 「主よ、王はあなたの御力を喜び祝い、御救いのゆえに喜び踊る。あなたは王の心の望みをかなえ、唇の願い求めるところを拒まれませんでした。」(詩篇 21:1~2)

あなたは、「何故ダビデは喜ぶことが出来たのだろうか。彼は体験したことのないような、厳しい攻撃に直面していたのに。傷つけられ、殺されるかもし れないという時に、なぜ彼は喜ぶことが出来たのだろうか」と不思議に思われるかも知れません。

ダビデはこう答えています。「(あなたは)彼を迎えて豊かな祝福を与え、黄金の冠をその頭におかれた。」(21:3)ここでダビデが言っていること は、人生の転換を示すものです。「私は、私を必死になって滅ぼそうとしている、強力な敵に直面しています。しかし、私の心には平安があります。何故かっ て?それは、主がすでに私の苦しみを、御存知でいて下さるからです。そして神様は、私に神様の愛の保証を降り注いで下さったのです。敵は私をつまずかせ、 倒れさせ、場合によっては完全に私の望みが絶たれたように見えるかも知れません。しかし神様は、私は立ち上がり、神様の力を受けて、戦いに勝つと、教えて 下さいました。」

ダビデは次の言葉を、戦いに行く直前に発しました。「(あなたは)彼を迎えて豊かな祝福を与え、黄金の冠をその頭におかれた。」(詩篇21:3)こ こでダビデが言っている黄金の冠とは、勝利と主権の象徴です。ダビデは、「私は神様の約束に立って、戦いに行きます。神様は、私が勝利の冠をかぶって戦い を後にすると、約束して下さったのです」と言ったのです。

ここに、神様の先見的な約束の教理を要約することが出来ます。神様は、私たちの困難のすべて―私たちの罪、肉、悪魔との戦いのすべて―をすでに御存 知であり、その憐れみと恵み故に、私たちの負債を、その期日前に支払って下さったのです。私たちの勝利は、すでに確約されているのです。

神様の先見的な約束は、特にイエス様を愛し、罪に驚く人達に対して適用されます。主は、もし私たちが一時的に倒れてしまったとしても、イエス様がす でに負債を支払って下さっているので、戦いから高く頭を上げて起き上がってくることが出来ると、保証して下さいます。

2010年2月15日月曜日

愛の備え

「(あなたは)彼を迎えて豊かな祝福を与え、黄金の冠をその頭におかれた。」(詩篇21:3)初見で は、このダビデの詩篇は、少し不思議な感じがします。ここで使われている“与える”という言葉は、英語の聖書で“prevent”すなわち“防止する”と いう訳がなされています。それは普通、何かを妨げる時に使うもので、祝福とは共に使いません。直訳するならば、「主はダビデが祝福を受けないようにされ た」となります。

しかし、聖書の“prevent”は全く異なる意味を示しています。それは、“予期する、先に立つ、あらかじめ見越し実現する、期日前に支払う”と いう意味があります。さらに、ほぼすべての事例において、それは何か好ましいことを示しています。

イザヤは私たちに、この様な喜びを垣間見せてくれます。それは神様が、あらかじめ必要を予期し、それを実現させて下さることから来ます。「彼らが呼 びかけるより先に、わたしは答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける。」(イザヤ書65:24)

この聖句は、私たちに対する素晴らしい神様の愛を描いてくれています。明らかに、神様は私たちを祝福したいと待ち焦がれていらっしゃいます。神様は 私たちの人生を、主の愛と恩恵で満たす準備が出来ているので、私たちがそれらを求めるまで待つことが出来ないでいらっしゃるのです。ですから、神様は介入 して、私たちに憐れみ、恵み、愛の御業を成して下さるのです。そしてそれは、神様にとって最上の喜びとなるのです。

これこそが、ダビデが詩篇21篇で語っていたことです。「主よ、あなたは私が、あなたの愛と恵みを求める前に、それらを注いで下さいます。そして、 私が求める想像さえつかない程のものを、与えて下さいます。」

ダビデは霊の領域において、神様が彼に対して行った、素晴らしい御業を思い出して言っているのです。それは、ダビデが敵から勝利を得たこと、祈りに 答えられたこと、力に打ち勝ったこと、言葉に言い表せない程の喜びを感じたこと等です。そして神様はこれらすべてのことを、ダビデが祈りに入り、心の重荷 を下ろしたり、願いを示したりする前に成されました。ある時ダビデは、神様の前に心を注ぎ出しましたが、神様がすでに敵を打ち負かすための備えをして下 さっていたことに気付きました。ダビデの勝利は、彼が戦場に近づくそのずっと前から、すでに確約されていたのです。

2010年2月12日金曜日

私たちの焦点

パウロの時代のクリスチャン達は、エルサレム崩壊が近づくのを感じるにつれ、もっと預言された出来事を知りたいと願うようになりま した。彼らは、大勢の捕虜を奴隷とする、冷酷な侵略者達に関するうわさに恐れを抱いていました。信者達はそれを聞いて、危険な時が近づいているのだと感じ る様になりました。そこで彼らはパウロに、何が起ころうとしているのか、もっと教えて欲しいと願い出ました、「どうやって時を読めば良いのか、私たちに手 紙を書いて教えて欲しい」と。

パウロは、次の様な確信の言葉をもって返答しました。「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜にやって 来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身がよく知っているからです。」(第一テサロニケ人への手紙5:1~2)

パウロは、キリストの再臨の際、何が起こるかを彼らに伝えました。「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響く と、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で 主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた 言葉によって励まし合いなさい。」(14:16~18)

パウロの奨励の言葉は、彼らを励ますためのものでした。パウロが根本的に語っているのは、「これから地に起こることについて、あなた方が恐れること は何一つありません。恐ろしい前兆や惨事に関して、過度に心配する必要もありません。あなた方は、これが何を意味するか、よく分かっているはずです。それ は主イエス様が、彼の民を引き上げるために、再び来られることを示しているのです」ということです。

歴史はどこかに向かっています。私たちは、矢のような速さで展開していく今日の出来事が、私たちを神様の永遠の目的に向かって運んでくれていると、 確信することが出来ます。世界は当てなくさ迷っている訳ではありません。どれ程人間が邪悪で不信仰になっても、主はこの地を見放されません。むしろ、神様 はペースを速められました。そして今私たちが目撃しているのは、ある神様の出来事に向かって素早く移り変わる時代の動向です。それはキリストが永遠に統べ 治める、新しい天と地の創造です。

キリストに従う私たちの焦点は、日々のニュースではありません。戦争や、戦争のうわさや、核事故や、地上で起こっているその他のどんな出来事にも、 気を留めるべきではありません。イエス様が「その日が来たら、目を上げなさい」(ルカによる福音書21:28参照)と言われた時、彼は私たちが焦点をどこ に置くべきかを教えて下さったのです。

2010年2月11日木曜日

私たちの怪物をも従えられる神様

神様はヨブに言われました。「見よ、ベヘモットを。お前を造ったわたしはこの獣をも造った。」(ヨブ記40:15)「お 前はレビヤタンを鉤にかけて引き上げ、その舌を縄で捕らえて、屈服させることができるか。」(40:25)

なぜ神様は、ヨブに現れられて最初に、これら二つの大きな怪物について考えさせられたのでしょうか。なぜ神様は、ヨブにカバとワニの顔を調べさせら れたのでしょうか。

まず、主はこの問題を僕に突き付けられました。「ヨブよ、あなたの後ろにカバがいるが、どうする。自分の力でそのカバを、押し倒すことが出来るか。 無理だと言うのか。猫なで声で話しかけてみてはどうだ。」

「では、恐ろしいワニはどうだ。このワニをどうする。この生き物は、氷の様な心を持っていて、情けという観念が全くないのだ。」これは、単なる野生 界のお話ではありませんでした。むしろ、神様はこれらの怪物の生涯について、ヨブに教えようとされたのです。神様はその僕に、この二匹の素晴らしく、どう 猛で、強靭な生き物は、ヨブの人生に襲い掛かる巨大な問題を表しているのだと示されたのです。

「カバのことを考えてみなさい。カバは、目に見えるものすべてを、踏みつぶしてしまう。ヨブ、カバはあなたには大き過ぎて、手に負えない問題なの だ。あなたはどうやっても、カバには敵わない。何をしたって、飼いならすことは出来ない。ただ、主であるわたしだけが、この様な怪物を止めることが出来る のだ。」

「では、ワニはどうか。どんな人間も、そんな生き物と争うことは出来ない。そして誰も、その力でワニの固い鎧を引き剥がすことは出来ない。これは霊 の敵である、悪魔についても同じことが言える。ただ、主であるわたしだけが、彼と争うことが出来るのだ。」

ここで神様が言われようとしていることが、分かりますか。神様はヨブだけに語っておられるのではなく、信じる者すべてに語っておられるのです。そし て神様は、「あなたの人生の中にある、怪物についての真実を受け入れなさい。あなたはそれらを扱うことが出来ない。それが出来るのは、わたしだけであ る。」

ヨブは答えました。「私の神様は全能です。神様は何でもお出来になられます。そして神様のご計画は、何も妨害されることがありません。私は自分の力 で、ワニやカバに立ち向かうことが出来ないと、知っています。でも、それは問題ではありません。なぜなら、神様にはお出来になると知っているからです。私 のするべきこと、それはただじっと信じて立って、主の救いを見ることです。」(ヨブ記42:1~2参照)

2010年2月10日水曜日

すべての戦いにおける勝利

神様は、私たちが神様の力の冠を得、すべての戦いで勝利することが出来る、と約束して下さいました。「御力を表される主をあがめ よ。力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう。」(詩篇21:13)

主はどの様に、慈愛と良いものの祝福で私たちをお守り下さるのでしょうか。聖霊は、私たちのすべての恐れ―失敗や神様から離れてしまうことの恐れ、 聖霊の臨在を失ってしまう恐れ―を私たちの内に御霊の喜びを植え付けることによって、追い出して下さいます。神様が勝利を確約して下さっているので、私た ちはダビデがした様に、喜び歌うべきなのです。

しかし、この様な元気と素晴らしい喜びに満ちたクリスチャンは限られています。多くは魂の安らぎや、キリストの臨在にある平安を全く知らないでいま す。その様な人達は、神様の救いの翼の影にいるのではなく、神様の裁きと憤りの下にあって、喪に服しているかの様に歩いています。彼らは、神様を常に鞭を 構えている厳しい親方として捉えています。ですから、彼らは希望もなく、生きているというより死んでいるように、惨めに生きるのです。

しかし神様にとって、私たちの問題は罪ではなく、信頼なのです。イエス様は、私たちのすべての罪を十字架の上で担い、罪に関する問題を一切解決して 下さいました。イエス様は「今回の罪はもう手に負えない」などと決して言われたりしません。むしろその正反対です。神様の御霊は、失敗の最中にある私たち にさえ、常に御父の慈愛を伝えようと努めています。

私たちが自分の罪に焦点を当てる時、神様が私たちに望まれることから目をそらしてしまいます。神様の望まれること、それは「信仰がなければ、神に喜 ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければ ならないからです。」ということです。(ヘブル人への手紙11:6)この御言葉が、すべてを物語っています。私たちの神様は、ご褒美を下さる方であり、御 自身の慈愛で私たちを満たしたいと切望しておられるので、予定を随分早めて、私たちを祝福して下さいます。

これこそが、天におられる父なる神様が、私たちに持っていて欲しい、神様のイメージなのです。神様は、いつ私たちが罪を犯しそれを告白するか、すべ て御存知です。いつ私たちが心から悔い改めるかも、御存知です。しかし、それをお待ちになることが出来ないでいらっしゃるのです。ですから、「わたしの子 どもは、裁きを受けることがないと約束する。御子の清めの血によって、すでに赦しを与えているからである」と、言って飛び込んできて下さるのです。

2010年2月9日火曜日

生い茂ることの大切さ

「イナゴは、地や草やどんな青物も、またどんな木も損なってはならないが、ただ、額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい、と言い渡さ れた。」(黙示録9:4)

どうしてこの“青物”が私たちの信仰にとって重要なのでしょうか。イナゴは、どんな生い茂るものにも触れてはいけないと命じられたのを、覚えていま すか。簡単に言い換えるならば、イナゴたちは信仰に歩む人達に危害を与えることが、出来ないのです。

ですから、神様に信頼をおく人は、イナゴに襲われる時も、生い茂る木のように固く立ちます。彼らはテロリストなど、イナゴによって象徴される様々な 敵に、傷つけられることがありません。サソリの毒針の様な地獄の攻撃がある時、その最善の防衛は霊的な健康です。そしてこの様な霊的健康は、神様に立ち返 り、神様の約束に信頼することによってのみ、与えられます。

あなたにお伺いします。

• あなたは神様の赦しを完全に信じていますか。すべての罪の清めを、神様の血に頼っていますか。もし、罪悪感にさいなまれていたり、いつも神様を喜ばせよう としたりするならば、あなたは霊的に健康ではなく、生い茂ってはいません。神様の一番の望みは、私たちが神様の赦しの賜物を受け入れ、そこに平安を得るこ とです。
• あなたは、神様の赦しを受け入れているかも知れません。しかし、神様のあなたに対する無条件の愛を信じていますか。

私たちの主は、失敗したからと言って、私たちを見放されたりしません。神様は、私たちが失敗したり間違えたりしないようにと、いつも私たちを見張っ ておられる訳でもありません。神様はただ、神様の所に近づき、「主よ、私はあなたの御言葉を信じます。私を赦し、清め、あなたの御腕に私を抱きしめて下さ い」と告白すれば良いのです。

神様が私たちに望まれることは、私たちが恐れの無い人生を過ごすことです。ですから、サタンが私たちの過去の失敗について責めるのを、赦してはいけ ません。もし私たちが罪を告白するなら、キリストの尊く清い血が、私たちを覆って下さいます。

これが、神様に信頼をおくすべての人に与えられた約束です。「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える。彼ら は力を失って倒れるが、我らは力に満ちて立ち上がる。」(詩篇20:7~8)

2010年2月5日金曜日

聞く耳を持つことへの教訓

神はエリヤに聞く耳を持つ事を教えようとして、エリヤをホレブの山頂に連れて行き、見せました。

「主 は言われた、『出て、山の上で主の前に、立ちなさい』。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中に おられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い 声が聞えた。エリヤはそれを聞いて顔を外套に包み出て、ほら穴の口に立つと、彼に語る声が聞えた、『エリヤよ、あなたはここで何をしているのか』。」

風が鳴り始めた時、エリヤはこう考えたに違いありません。「今度こそ、主よ、イゼベルを権力の座から引きずり降ろし、彼女と悪しき友を風とともに去らせるのでしょう」。しかし、神はその風の中に居ませんでした。

突然、大きな地震が起きました。エリヤは言ったに違いありません。「これで彼らも恐れるだろう。かみを今や恐れるだろう。神は心底彼等を揺らしました。主よ、あなたはあなたの僕が正しい事を示されました」。しかし、神はその地震の中には居られませんでした。

地 震の後、火がありました。天は炎に燃え、炎に照らされました。エリヤは叫びます。「主よ、彼等は祭壇に火が落ち、供え物を燃やし尽くしましたが、彼等は受 け入れませんでした。アハブを、イゼベルを火破りにして下さい。あなたの火によって悪しき者を燃やし尽くしてください。きっとこの火の中にあなたは居られ るでしょう」。しかし、神は火の中に居られませんでした。

「火の後に静かな細い声が聞えた」。(12節)

考えてみて下さい。かの預言者は嵐や、地震や天からの火によっても動じなかったのですが、「静かな細い声」に驚いたのです。「エリヤはそれを聞いて顔を外套に包み」ました。(13節)

エリヤは顔を外套に包みました。何故でしょうか。かの預言者は神にそれまで何度も神と話しているはずです。彼は偉大な祈りの人ではなかったのでは。神は彼を大きく用いたのでは。その通り。しかし、エリヤは「静かな細い声」は知りませんでした。

終にエリヤがその声を聞き始めた-一人で、静かに、外面的力から離れて-時、エリヤは自分の働きに対して最も明確な指示を受けます。

「あ なたの道を帰って行って、ダマスコの荒野におもむき、ダマスコに着いて、ハザエルに油を注ぎ、スリヤの王としなさい。またニムシの子エヒウに油を注いでイ スラエルの王としなさい。またアベルメホラのシャパテの子エリシャに油を注いで、あなたに代って預言者としなさい」。(列王I19:15-16)

なんと多くの神の子等が自分への言葉を聞き逃しているのでしょうか。彼等は証しをしたり、よい働きをしたり、霊的目覚めのために祈ったり、断食したり、集中して、力を注ぎ、忙しくしています。しかし、他の全ては聞いていますが、主のお声は聞こえていないのです。

2010年2月4日木曜日

主が私達に語れるようにしなければならない。

エリヤは祈りの力がある人でした。彼は天を閉め、また開き、天から火を呼び、祭壇の水を乾かしました。彼は彼の預言によって、時の権力者を脅かし、カルメル山に立ち、バアルの祭司達を嘲り、王の面前で彼等を惨殺しました。

この偉大な預言者は神の御座に七度近づき雨を真剣に祈りました。七度エリヤは神にこのことが必要と説きました。小さな雨雲が現れ、三年半の間、天を閉ざした預言者は天を開き、大いなる雨が降るようにしました。

エリヤは勝利に陶酔しました。大いなる霊的覚醒が起きました。神の火が天から落ちる奇跡を多くの人が見ました。これはかつてなかった神の力の現れです。エリヤは考えます。「今こそ、イゼベルも悔い改めるだろう。この奇跡と徴を無視できようか。この国に神が働かれたのだ。」

エリヤはなんとショックだったのでしょうか。イゼベルは奇跡に気をとめず、エリヤにこう言いました。「明日の今頃、私の祭司を殺した様に、私もあなたを殺す」。大いなる力の人は、次の場面ではカルメル山から200マイル離れたホレブの山の洞窟で隠れていました。

なんと言う光景でしょう。40昼夜、彼は落ち込み閉じこもりました。彼は問題に固執して、神に目を留めませんでした。それで神が彼に呼びかけます。「エリヤよ、あなたはこの洞窟に隠れて何をしているのか」。

怒っ て、エリヤは応えました。「主よ、この国は滅びます。王は悪しく、不道徳です。人々は神から離れ、奇跡等信じません。人々は混乱しています。私が叫ぶ声は 宙を舞うだけです。悪霊が私以外全てに憑いていて、私のみがあなたの御前に忠実に立つ者です。主よ、私はたった一人残された神の人として生き残ろうと、隠 れています」。

エリヤ、かの祈る預言者は神の力を示すべく、神の国を齎そうとして、神に仕えようと忙しくなりすぎて、一方通行の僕となってしまいました。彼は神に屡話したとは思いますが、神に聞く耳は持っていたのでしょうか。もし、彼が聞いていたのならば、彼はきっと妥協をしていない7000人の聖い人達のことを神から聞いていたでしょう。

2010年2月3日水曜日

イエス様の御心を垣間見る

「あ なたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。か えって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いするあいだ、帯をしめなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか」。(ルカ17:78

私 達は主人に仕える僕としての役割が自分にあることに疑問を持っていません。前掛けを着けて、主に賛美の晩餐にて仕えることについて何の疑いも持ちません。 それは礼拝の一部と思っているからです。私達は主に捧げる事を喜び、それを愛します。主に仕える事は私達の大いなる喜び、この上ない満足です。

し かし、最後の箇所、主が言った事「そのあとで、飲み食いをするがよい」には戸惑っているのではないでしょうか。これはちょっと理解できません。私達は主に 給仕した後、どのように席に着くかや主に仕えて得る同じ喜びを、主も持ち得ることを知りません。言ってみれば、主が私達に使える喜びを味わえないようにし ているのです。

主 は私達が仕える事だけが喜びと考えますが、それだけではありません。主は私達の信仰に応え、私達が悔い改める事を喜ぶでしょう。主はまた御父と私達と語り 合い、私達の子供の様な信頼を喜びます。しかし、主はこの地に残された群と一対一に語る必要がある事に疑いはありません。天の御使い達とはそんなことは出 来ません。主は戦っている者達と語りたいのです。

私 は主がお寂しいと、また私達と語らんとしていると、どこを見て考えたのでしょうか。エンマオへの道程で二人の弟子にキリストが現れたのを思い起こしてくだ さい。イエスは復活されたその日に、エルサレムからエンマオへ行く二人の弟子に現れました。彼等は主と離れたことを悲しみましたが、いざ身近に主が居るの は気づきませんでした。主は彼らと語りたがったのです。色々な事を語ろうとしました。

「語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。…こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事を、説きあかされた。」(ルカ24:15,17)

弟 子達はこの上ない体験を得て、こう語りました。「…お互の心が内に燃えたではないか」。そこには弟子達の喜びは書かれていますが、イエス様の喜びはどうな んでしょうか。私は主が喜びに溢れ、涙が御顔から落ちるのを見ます。主が満たされ、喜びが満ち溢れることを見ます。主は昇天され、変化されました後、初め て対の会話を体験されました。主はご自身の心を注がれただけではなく、その寂しい心が触れられ、満たされたのです。

2010年2月2日火曜日

試みに勝つには

御 言葉に心を満たしたり、決心や誓いをしたり、祈りと断食に時間を費やしたり、大きな霊的戦いに身を置いたとしても、試みを耐え、誘惑に負けないとは限りま せん。これらの事はクリスチャンの成長にとって必要で、進めるべきことではありますが、私達の勝利がそこにあるのではありません。

試みを耐える単純な秘密はサタンの力を恐れないことです。恐れはサタンが人に持っている唯一の力です。神は私達に恐れの霊を与えていません。これがサタンが持っているものですl。しかし、人は悪魔を恐れています。悪しき霊を恐れ、失敗を恐れ、嗜好や悪癖が直らないことを恐れ、心の密かな情欲が何れ爆発し、破滅するかと恐れます。自分が他の人と違い、好色であって、誰も自分を助けられないことを恐れます。

人 は罪が止められない事を恐れます。そして、ありもしないサタンの力のせいにします。その人は叫びます。「癖になって止められない。悪霊の力に操られてい る。悪霊が私をそうさせている」。恐れは苦しめる力があります。あなたが悪魔を恐れいる限り、あなたは何れの誘惑も退けることは出来ません。サタンは恐れ と悪魔を恐れ無抵抗な、または少だけしか抵抗しないクリスチャンによって力を得るのです。

こ れは全て嘘です。サタンが問題あるクリスチャンを滅ぼす力があるとは嘘です。そうではありません。イエス様は血潮によって清められた神の子への悪魔の力を なくすためにきたのです。私は神様が何故霊的な人らが試みられる事を許すか疑問に思っていました。何故、神は「それに耐えられるように、のがれる道も備え る」代わりに取り除かないのだろう。答えは簡単です。あなたが今一度いかにサタンが無力であるか、サタンはあなたを何も操れないことを知るならば、あなた が落ちないで保てる全ての力を神が持っている事をあなたが知るなら、あなたはサタンがあなたを狙う何ものにも動じない様になるでしょう。落ちる事を恐れず に試みを通ることが出来るでしょう。

私 達は試みから逃れられませんが、私達を捉えている悪魔への恐れからは自由になれます。私達は、私達の信仰にあって「平安」の場所に来るまで試され続けるで しょう。その平安とは、神がサタンを敗北させ、サタンは私達に何の力も無く、私達が火に精錬された金となっている事を揺がない自信から来るものなのです。

2010年2月1日月曜日

試みの理由

試 みとは不道徳な行為を犯すべく誘惑される、招かれる事を意味します。今サタンはこの地球上で不道徳へとあらゆる誘惑をして、クリスチャンを吠え猛る獅子の ように食い尽くそうとしています。誰もそれから逃れる事は出来ませんし、あなたが益々神に近づくならば、サタンも同じくあなたを揺らそうとします。

罪 人は試みられる事はありません。ただ、真の神の子等だけが試みられるのです。雨は水に入る体を濡らすことは出来ないように、罪人も、既にサタンの指図に従 うサタンの子等として滅びの中で溺れているのです。彼等は誘惑されたり、誘われたりする必要がありません。何故なら彼等はもはや道徳的ではなく、既に呪わ れています。奴隷として、彼等に選択の余地はありません。彼等は死から死に、根から引き抜かれるだけです。罪人を悪魔は弄びますが、試みる事はしません。 サタンは自分の子等をもっと深い、もっと暗い不道徳の淵へと追いやりますが、彼等は既に自分等の罪と過ちによって死んでいるので、生きている者の戦いをし ているのではありません。ですから、私達の主は私達が思い掛けない試みに会うなら喜びなさいといっています。私達が体験しているのは成熟したクリスチャン だけが体験しているものです。

試 みは「戦闘状況下での訓練」です。それは「条件つき」戦闘です。神は「耐え得る」時点まで限界を定めています。神は百戦錬磨の戦士が「私は戦いの中、標的 として狙い、敵は私を囲み殺そうとした。しかし、神はそれにどう立ち向かい、恐れなくするかを示された。わたしはそれを既に体験したので、次からは私は恐 れない」と証する事を望んでおられます。

試 みは弱さでも世に迎合する印でもありません。反って、それは卒業試験、神が私達を信頼している印です。御霊がイエス様を荒野、試みの場所に導いて、イエス 様が全ての試みに勝つ力の奥義を学ばさんとしました。実際に神はイエス様にいいました。「子よ、われは汝に御霊を尽きる事無く与えよう。この世の前から約 束したものである。今、われはサタンにしてあらゆる方法で誘惑することを許そう。それによって汝はサタンが如何に力ないものであり、恐れるに足りないかを 知り、あなたはサタンが敗北しでおり、信仰を以って御国を説くことが出来る。何にせよサタンはあなたに触れる事は出来ない」。

これが今日クリスチャンが試みられる理由です。試み、誘惑は聖徒の歩みにサタンの限界を教えるために許されています。サタンの弱さを明らかにするために、サタンがかかしに過ぎないことを知らせるためです。それは私達は理解できないものを恐れてしまうからです。