2001年9月9日日曜日

神の不思議な御業を信じつつ

自 分で何故、如何に傷つけられたか、どう防ごうかと考えるのは辞めなさい。それはあなたにだけ有る問題ではありません。あなたが正しいかどうかは最早全く意 味のない事です。今重要なのは神にあってあなたが御旨に従って働く意思があるか否か、そしてあなたの人生に働く神の不思議な御業を信頼するか、どうかで す。
「… あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである」。(1ペテロ 4:12-13)
お そらくあなたはこの時点で自分がなすべきことはしたと思います。あなたは神の御旨にあって自分の良心に正直に従い、行動し、自分を委ねる用意があったで しょう。そして愛があなたの動機であったでしょう。あなたは相手の仕打ちにも関わらず神の御旨を行いました。そうでなかったら、あなたは傷つけられる側に は立たなかったでしょう。あなたが傷つけられたのはあなたが正直であろうとしたからでしょう。
あ なたは、神が全てを導いたのに何故こんな結果となったかが信じられないでしょう。あなたは心で「何故、神はこれがうまくいかない事を知りつつ、こんな状況 に陥らせたのか」と問うのではありませんか。イスカリオテ・ユダは神の人になるべく主に召された人です。彼は救い主自ら選んだ人であり、神に用いられまし た。しかし、ユダは神の御計画を拒み、イエス様を悲しめる事になります。神の御計画と始められたものが、ユダが自分が判断して、選んだ為に悲劇に終わりま した。
自 分が何を間違えたかとは考えてはなりません。じぶ責めるのはやめなさい。過ちが何処にあったかなど考えるのは辞めなさい。今、あなたが何を考えているかが 神様にとって重要なのです。あなたは間違ってはいません。否、あなたは与えすぎたのです。パウロのように、自分に言うべきです。「わたしがあなたがたを愛 すれば愛するほど、あなたがたからますます愛されなくなるのであろうか」。(2コリント12:15)

2001年5月10日木曜日

家庭の祈り

「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」(マタイによる福音書18:19)クリスチャンの中には、これを“一致の祈り”と呼ぶ人達がいます。共に祈ってくれる熱心な兄弟もしくは姉妹がいるあなたは、非常に祝福された人です。事実、私が知っている力強い執り成し手のほとんどは、いつも2、3人で現れました。

この様な祈りが最も力を発揮する場所は、家庭においてです。私の妻グエンと私は、毎日一緒にお祈りしており、それが私の家庭を繋いでくれているのだと信じています。子ども達が成長過程にある時は、彼らが信仰から離れることのない様に、一人ずつ毎日覚えて祈りました。また、彼らの友達や、恋人、将来の配偶者のためにも祈りました。そして今ではそれらのことを、孫たちのためにお祈りしています。

クリスチャンの家庭でも、なかなか家でこの様な祈りの時を持つことはありません。私がこの様に今日、主にご奉仕出来ているのは、この家庭の祈りのおかげであると、自ら証しすることが出来ます。私が幼かった頃、毎日姉妹と私が、庭や、近所や、どこで遊んでいたとしても、母は必ず家の玄関から「ディビッド、ジェリー、ジュアニタ、ルツ、お祈りの時間ですよ!」と呼びかけました。(弟のドンはまだ生まれていませんでした。)

近所中が、我が家の祈りの時間を知っていました。時々母の呼び声を疎ましく思うことがあり、不平と不満をもらしていました。しかし、聖霊が私たち家族の内に動かれ、私たちの魂に触れる中で、何か特別なことがその祈りの時に起こりました。

もしかしたら、あなたは自分が家庭の祈りを持つことを想像出来ないかも知れません。もしかしたら、あなたの配偶者が乗り気でなかったり、子ども達が反抗的だったりするかも知れません。愛する兄弟姉妹よ、誰が参加しないと決めようと、それは関係のないことです。ただあなた自身が食卓に着いて、頭を垂れ、お祈りすれば良いのです。それが、あなたの家族にとっての家庭の祈りの時となり、家族全員がそれに気付くでしょうから。

2001年4月10日火曜日

わたしにはあなたが必要です

クリスチャンの中には、他のキリストの体である兄弟姉妹と関係を持ちたくない、と思っている人達がいます。彼らはイエス様と関係を持ちますが、他の信者からは故意に自分達を孤立させます。彼らは頭と関係を持っても、体とは何の関係も持ちたくないのです。

しかし、体はたった一つの部位からは成り立つことが出来ません。頭から手だけが生えている状態が想像出来ますか。キリストの体は、手足や臓器なしで、頭だけでは成り立ちません。彼の体は、多くの部位から成るのです。

私たちは、キリストの体の一部にならずして、キリストと一つになることは絶対に出来ないのです。私たちは、頭だけでなく、その体全体を必要とします。私たちはイエス様を必要とするだけでなく、お互いをも必要とすることで、互いに結ばれています。パウロはこう語っています。「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。」(第一コリント人への手紙12:21)

この聖句の後半に目を留めて下さい。頭でさえ、他の部位に対して「お前など要らない」と言えないのです。何と驚くべき宣言でしょう。パウロは、「キリストは、決してその体の一部に対して『わたしはあなたを必要としない』と言われることがありません」と語っているのです。私たちの頭は、私たち一人ひとりと喜んで関係を持って下さいます。そればかりか、キリストの体が機能するためには、私たち全員が大切で、必要であるとさえ言って下さるのです。

これは特に傷つけられ、痛みを覚えている信者に言えることです。パウロはこう強調しています。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」(12:22)使徒はさらに、「わたしたちは、体の中でほかよりも格好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。」と続けています。(12:23)彼は、キリストの体の中で、見えず、隠され、知られていない部分について語っているのです。神様の目には、これらの部位に素晴らしい価値があるのです。そして彼らはキリストの働きの上で、絶対になくてはならない存在なのです。

この聖句は私たち全員にとって、非常に意義深いものであります。パウロが私たちに伝えようとしているのは、「あなたの自己評価がどれだけ低くても、関係ありません。クリスチャンとして、なっていないと思っているかも知れません。しかし、主御自身が『わたしにはあなたが必要なのです。あなたはキリストの体の部位として大切なだけではありません。あなたはキリストの体が機能する上で、大切かつ必要不可欠なのです。』と言っておられるのです。」

キリストの体の重要な部分として、サタンが他の信者を攻撃していることに対して、信者達は立ち上がり、真剣に行動を起こす必要があります。驚くべきことに、この命令は多くのクリスチャンから忘れ去られています。他の信者が痛みにあるのを見る時、私たちは慰めを申し出ようとします。もちろんそれは神の愛からくるものです。しかし、それだけでは十分ではありません。信者の一人ひとりが、イエス様の御名によって、サタンを縛り付け、彼を闇へと放り去るべきなのです。これこそがキリストの体の一部であるという、真の証しなのです。