2008年5月20日火曜日

天国

「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(第一コリント1557)クリスチャンの多くは、この御言葉を試練や困難に立ち向かうために、日々繰り返しています。しかし、パウロがここで語っていることは、さらに深い意味があるものなのです。この2節前にパウロはこう言っています、「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(1555

パウロは、天国を望む想いを雄弁に述べているのです。「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。」(第二コリント512

さらにパウロは、「わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。」と言っています。(58)

パウロにとって天国とは、永遠に主の臨在にあることであり、私たちの心のすべてをもって望むべきことなのです。

私がこれらのことを思う時、素晴らしい光景が浮かんできます。まず、イエス様が語られた大群、「天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」という光景を想像します。(マタイ2431)これらの人々がすべて集められる時、天国では栄光を受けた幾億の子どもたちが、主に「ホサナ」と歌いながら凱旋する光景が浮かびます。かつて主の神殿で行われていたように。

次にすべての殉教者が来ます。地上で義のために叫んでいた人達が、その時には「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。」と叫びます。すべての者は喜び踊り、「勝利、イエスにある勝利!」と叫びます。

そして大きなどよめき、誰もかつて聞いたことのないような音が聞こえてきます。それは世界中の国民からなるイエス・キリストの教会です。

もしかしたら、これらはこじつけのように聞こえるかも知れません。しかし、パウロ自身が証言しているのです。信仰に満ちた使徒パウロが天国に引き上げられた時、彼は「人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。」(第二コリント124)パウロはそこで耳にしたことに心を動かされたと言います。私は、先の賛美やどよめきこそ、彼が聞いたものだと信じます。パウロは主の臨在の中で、完全な体を賜り、喜びと平安で魂を満たされた人々が捧げる賛美と喜びの歌を予告編のように見たのでしょう。それはあまりにも素晴らしく、聞くことは出来ても、言い表しえないほどだったのです。