2008年5月6日火曜日

天の父は知っておられる

イエス様は、私たちに明日のことなど考えず、将来をすべて神様の御手に委ねる生き方をするよう、呼びかけておられます。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存知である。」

「何よりもまず、神の国とその義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。」(マタイ6:31~34)

イエス様は何も、私たちに計画を立てたり、将来について全く何もするな、と語っておられたりするのではありません。むしろ、「明日のことについて、思い悩んだり心を騒がせたりしなくて良い。」と言っておられるのです。考えてみて下さい、私たちの悩みのほとんどは、将来何が起きるかという心配からきています。私たちは常に、「もしも・・・」という言葉にさいなまれています。

「もしも経済が悪化して、仕事を失くしてしまったらどうしよう。どうやって家のローンを返済しようか。どうやって家族で生活していけば良いだろう。医療保険を失くしてしまったらどうしよう。もしそんな時に病気にでもなって、入院しなければいけなくなったら、おしまいだ。それとも、もし私が試練の中で信仰を失ってしまったら。」私たちはみんな、幾千もの「もしも」という恐れに満ちています。

イエス様は、私たちのそんな「もしも」という思いを止め、こう語りかけて下さいます。「あなたがたの天の父は、どうやってあなたがたを養っていこうかご存知でいらっしゃいます。」さらに、「心配することは、ありません。あなたがたの父は、これらのものがすべて、あなたがたにとって必要であるということをご存知で、決してあなたがたを見捨てられません。父は必ず、あなたがたに食物を与え、着る物を与え、すべての必要を満たして下さいます。」

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。(中略)野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」

「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ。」(マタイ6:26、28~30)

私たちは喜んで、今までの罪を差し出し、私たちの過去をすべて主に委ねます。主は、私たちの過去の失敗や、疑いや、恐れのすべてに対する赦しを与えて下さると信じています。だとすれば、将来のことについても、同じようにしようではありませんか。結局のところ、私たちは将来に関して権利を主張したり、自分の夢にしがみついたりします。神様抜きで計画を立ても、後からその計画を祝福し、夢や願いを叶えて下さいと、お願いするではありませんか。