2011年1月4日火曜日

最も大きな試み

「モーセが手を海の上にさし伸べたので、主は夜もすがら強い東風をもって海を退かせ、海を陸地とされ、水は分かれた。」(出エジプト14:21)

イスラエル人の前には彼等を安全に導く道がありました。この決定的瞬間に神はその民が壁を見て、彼らが反対側に安全に着くまで、神がその壁を保って おれれると言う信仰を持って欲しいと思いました。言い換えれば、神はその民が信仰を持って告白して欲しいと思っておられました。「神は忠実な方なので、こ の奇跡を始めから終りまで見ておられます。」

私達が振り返ってみたら、何故そんなに恐れたかと思います。エジプト人が来るのを見ても恐れるべきではありません。神は彼らと私達の間に神の暗闇の 壁を置き、夜に彼等を恐れないですむようにしました。何時でも、神は敵が暗闇で何も見えない時、私達に輝く光を与えて下さいます。私達が激しい風に恐れ戦 慄く時、神は私達に逃れる道、その風を使って作って下さいます。

神は私達によい事だけをしたいと思っておられることが解ります。神が私達のために栄光と力を用いてくだることは十分知っています。私達は最早恐れの中ですむ必要がありません。水の壁が崩れても関係ありません。生きるも死ぬも、私達は主の者だからです。

神はその時点で、このような信仰を要求したのには理由があります。彼らには荒野での旅が待っていたからです。欠乏と危険と苦しみを堪えなければなら なかったからです。ですから、神は「我が民はわたしがよい事だけをすることを知らしめる。危険が差し迫る時、死を恐れないで欲しい。わたしは全てにおいて 忠実であるから彼らは死を恐れない民になるべきである。」

勝利した後、踊る者が、また敵を破った時に神を賛美する者が真の礼拝者ではありません。イスラエルは敵を破り、勝利して踊りました。それが彼らのし たものです。神が紅海を分け、向こう岸に着きました。彼らは歌い、踊り、神を賛美し、褒め称えました。しかし、その三日後、マラにおいて同じ人達は神に呟 きました。彼らは礼拝者ではなく、軽薄な興奮に浸っているだけでした。

真の礼拝者は嵐の中で神を信頼することを学んだ者のことです。この人の礼拝は単に言葉だけではなく、歩みをも含めるものです。その人の世界は、神に対する信頼が揺らがないので、世界はいつも平安です。また、未来も恐れません。そして死を恐れないからです。

わたしの妻グエンと私は孫娘12歳ティファニーに揺るぎない信仰を見ました。彼女の臨終の近い時、私達はベット際で彼女の人智を超えた平安を見まし た。彼女は私に言いました。「おじいちゃん、天の家に帰ります。イエス様は私にそこに居て欲しいって。ここにはもう居たくないよ。」彼女は終りとか死への 恐れが全くありませんでした。

それはが神がその民に持って欲しい平安です。パウロのように、またティファニーのように自信を持って言うのです。「生きるも死ぬも主のもの。」この信頼が真の礼拝者とするのです。

私はこの文を読む全ての人が嵐の中でこの言葉を言える事を祈ります。「そうです。経済が崩壊しているかも知れません。私は暗い嵐の夜を迎えるかも知れません。しかし、神は私に真であった。何が起きても、私はその愛に安住できる。」