2009年2月20日金曜日

神を求める者であり続ける

「...それでわたしは、わが顔を主なる神に向け、・・・かつ願い求めた。・・・すなわちわたしは、わが神、主に祈り、・・・わが罪とわが民イスラエルの罪をざんげし、わが神の聖なる山のために、わが神、主の前に願いを祈り続けた・・・」(ダニエル9:3,4,20)この人達は祈る人達でした。

彼らが最初に決心した聖別された歩みは、神を求め続けることに基づかなければなりません。真に神に跪き、聖い歩みを歩むべく、力と権威を求めなければ、その聖い生を生きることは不可能です。
ここで間違ってはいけません―充実な祈りは困難を避けさせるものではありません。返って、多分にあなたは火に油を注ぐように、獅子の穴にあなたが近づく事になるでしょう。しかし、祈りがこの全てを信仰で直面できるよう備えます。-イエス様のゆえに生ける犠牲となるために。

ダニエルの祈りは獅子の穴に投げ込まれる結果となりました。この試みはダニエルが80余りのときでした。あなたはいつしか困難が止むだろうかと思っているのに、こんな言葉にあなたは憂えるでしょう。もしか、あなたは主と共に歩んだ何年かで重要な鍛錬を経て学んだと思ったかも知れません。しかし、神は大いなる祈りの戦士が-穏やかで落ち着いた霊の持ち主―充実な取成しの祈りの長い時を経ているにもかかわらず人生の危機を直面することをお許しになりました。

愛する皆さん、試みはイエス様の再臨、もしくは、あなたが死ぬまで続きます。これが、返って、祈りが重要な理由でもあるのです。あなたは自分が聖い歩みを生きる事を決心できますが、その決心は神を求めることを決心する外、成し得ないことを知るべきです。