2008年9月26日金曜日

神様が約束された安息

「それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。」(ヘブル人への手紙4:9~10)

あなたは、「約束された安息に入るとは、どういうことだろう。私の人生で、どの様にそれが実現されるのだろう」と思われるかも知れません。神様が私達の目から固定概念を取り除いて、この観念をしっかり把握出来るようにとお祈りします。簡単に言うならば、約束された安息に入るとは、キリストが救いの業をあなたのためにすべて完了して下さったと、完全に信じ切ることです。あなたはただ信仰によって、キリストの救いの恵みにあずかれば良いのです。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とイエス様が言われたのは、このことです。(マタイによる福音書11:28)それは、肉によるすべての努力を止め、人間的な努力で平安を得ようとする努力を止めるということです。そしてそれは、イエス様が成されるあなたへの御業に、完全により頼むということを意味しています。

私達の戦いは、肉や血によるものではありません。それは霊的な領域で行われるものです。旧約聖書は、これを明確化してくれています。何度も何度も、イスラエルは神様に対して、口先だけの約束をしました。「主よ、私達はあなたに仕えたいのです。あなたがおっしゃることは、何でもいたします」と。しかし歴史は、彼らにその約束を守る気持ちも能力もなかったのだと証ししています。神様は、彼らの自信を完全に打ち砕かれなければなりませんでした。私達が必要なもののすべては、尊い主の臨在から来る必要があります。

パウロはこう、記しています、「我らは神の中に生き、動き、存在する。」(使徒行伝17:28)ここにとこしえの交わりがあります。十字架の勝利によって、私達の主は昼も夜もいつでも、私達の側にいて下さるようになりました。決断は私達にあります。「私の人生にキリストを迎え入れたい。すべての肉のものから解放されたい。だから、神様の臨在へと進み行き、自分の相続分を主張します。イエス様が私のすべてとなって下さい。唯一の満たしの源となって下さい。」