2009年4月27日月曜日
そこに居られる神
正直なところ、私たちに主の麗しい臨在を感じることは稀と言わざるを得ません。何故ですか。クリスチャンは色々な教会の活動-祈り会、聖研、伝道奉仕の働き-に時間を費やしていますし、それは立派なことです。しかし、同じ人達が一人で主に仕えるため祈る時間はあまり持っていません。
主の臨在を偽ることはできません。教会の大人であっても子供であっても同じです。わたしが言っている神の臨在は超常的にその人の周り、または礼拝に後光が差すとではありません。クリスチャンの生き方そして会衆に、人々は神の臨在に気付くのです。見た人達はこう言うでしょう。「この人はイエス様とともに歩んでいる。」とか「この人達は説教を本当に信じている。」
神がおられる-Jehovah Shammah教会になるにはいい牧会者がいるだけでは出来ません。牧会者だけではなく神に全く従うよき人達が必要です。もし新しい人が教会の礼拝に来て、「ここにイエス様の臨在を感じた」と言ったら、あなたは礼拝や説教だけでそうならないことをあなたは知っています。それは会衆が神に義と認められ神の家に入るから、神の栄光が彼らのうちに居られるから、そうなるのです。
3-17
2009年4月24日金曜日
その名は許しである。
私達の主はこの世で崇拝されている全ての神々と何が違うのでしょうか。勿論、私達は神が他の神々の上におられ、またそれらとすべて違うことを知っています。違いがはっきり示された一つは神の名-「赦し給う神」である事です。聖書は私達の主が赦し給う神であり、唯一罪を赦す力を持った神であることを示しています。「だれがあなたのように不義をゆるすであろうか」(ミカ7:18)
この神の名は聖書の色々な箇所で確認されています。
- ネヘミアは宣言します。「あなたは罪をゆるす神、恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみ豊かにまして、彼らを捨てられませんでした。」(ネヘミア9:17)
- モーセは主に主の栄光を示して下さるように願いました。彼は神の顔は見ることは出来ませんでしたが、主の名を示しモーセに神の栄光を啓示しました。どのような神の名がモーセに示されたのでしょうか。「主よ、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神。?いつくしみを千代までも施し、悪と、罪とをゆるす者」(出エジプト34:6-7)が示されました。.
- ダビデ王は神のヘブル的表現を使っています。「主よ、あなたは恵みふかく、寛容であって、あなたに呼ばわるすべての者に、いつくしみを豊かに施されます。」(詩篇86:5) ダビデは自分の体験から悟り得てこの名を使いました。.
3-16
2009年4月23日木曜日
私達の牧者は迷える者をも愛される
私達の偉大な牧者は試み、苦難、痛み、傷によって迷ってしまう全ての羊を愛されています。私達の牧者を決して私達を捨てたなど言ってはなりません。彼は私達の傍にいて、いつも私達を見ておられます。
2009年4月22日水曜日
主は我が牧者
私達は詩篇の23篇に馴染んでいます。その慰めの言葉はクリスチャンではない人達にも知られています。このよく知られている詩篇はダビデ王が書いたもので、それは「主は我が牧者であって、私には乏しきことがない」という句で始まっています。
ここの「乏しきこと」の句に注意して下さい。ダビデがここで言っているのは「私は何の欠乏もない」に言い換えられるでしょう。これを最初の句と組み合わせればこう言う意味でしょう。「主が私を導き、護り、養いくださいます。ですから、私には何の欠乏もない」
2009年4月21日火曜日
神が望んでおられる事はあなたの信仰のみ。
神はあなたの家や、車、家具、貯金、持物を欲しているのではありません。神はただあなたの信仰-御言葉にたつ堅い信仰-です。 外見で信仰深く見える人に欠けているものです。ある人があなたより霊的と見えるが、その人は必死でそう見えるように努力しているだけかもしれません。神はあなたを見て宣言します。「そこに義なる人がいるではないか」。何故、神はそう見るのでしょうか。あなたは自分が義になるために無力であると認めており、あなたは主が御自身の義をあなたに与えると信じているからです。
2009年4月20日月曜日
『主はわれわれの正義』
「主は仰せられる、見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起す日がくる。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う。その日ユダは救を得、イスラエルは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる。」 (エレミア23:5-6)
そしてその義なる主-この役割をイエス様においてどのように理解すればいいのでしょうか。
パウロは聖書の何ヶ所で義における神の定義について述べています。
- 「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」 (ローマ 4:3).
- 「アブラハムには、その信仰が義と認められた」 (ローマ 4:9).
- 「神を信じた。それによって、彼は義と認められた」(ガラテア 3:6).
パウロはもっとはっきり義に対する主の定義を別の箇所で記しています。「彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。だから、彼は義と認められたのである。」(ローマ4:20―22)
聖書は義についてこれ以上明らかに出来ないほど明確に述べています。義は神が必ず約束を守ると理解し、「神の約束を信じる」事です。
2009年4月17日金曜日
神を試みる
イエス様は宮の頂に立った時、サタンは囁きました。「飛び降りろ。もしあなたが神の子であるなら、神があなたを護るだろう。」
古のイスラエルを例にとって見ましょう。十回も主はイスラエルに忠実であることを示しました。神の民は彼らの主が共に居られる見える証拠を受けました。しかしながら、民は毎回同じ問い掛けをします。「神が私達と共に居られるだろうか」。神はこれを「試みる」としています。イエス様も同じ句「神を試みる」、サタンへの答で使っています。これは何を意味しているのでしょうか。これは神の臨在に疑問を持つことは大きな罪であるし、私達は決して私達と共にいる神の臨在を疑ってはならないことを意味しています。
2009年4月16日木曜日
神の確約
神は私たちにこの世で確約を与えました。私達の敵が私達を踏みにじるとしようとする時、「わが民はわが名を知るにいたる。その日には彼らはこの言葉を語る者がわたしであることを知る。わたしはここにおる」。」(イザヤ52:6) 言い換えれば神は「あなたが暗闇の苦難にいる時、私は来てあなたに語り、あなたはそれを聞く。あなたは余が『私、あなたの救い主、イエスである。恐れるな。』」
何故イエス様は「しっかりするのだ」と言ったのでしょうか。何故、イエス様は自分が死んでいくと思っている人達にこの言葉を投げかけたのでしょうか。
2009年4月15日水曜日
神に全く頼る
神はこの世に対して神に全くより頼む人々を欲されています。神がイスラエルと言う「取るに足りない国」を選び彼等を荒野に置きました。そして、彼等を状況に関わらず神を信頼できるように試みました。神はイスラエルが証して欲しいと思っていました。「私達はどのような試み、困難、私の能力を超えるものでも乗り越えることができる。私は全ての試みに神と共にいるからである。神は私の助けだから。」
2009年4月14日火曜日
旅路の力
この世の何者も働きであなたを代える者はありません。もしかしてあなたは神学校の卒業証書があって、司教に、または教団に任命されて働きをしているかも知れません。しかし、使徒パウロは働きへの源をこう言っています。「わたしは、自分を強くして下さったわたしたちの主キリスト・イエスに感謝する。主はわたしを忠実な者と見て、この務に任じて下さったのである。」(1テモテ1:12)
ここでパウロが「イエス様が自分を忠実なものと見て、その務に任じて」言っているのはどう言う意味でしょうか。使徒パウロの改宗の時、事件の三日後、キリストはパウロを務め-苦しみの働きに任じました。「わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」(使徒9:16)パウロがコリント人への手紙で言っているのはまさにこのことです。「このようにわたしたちは、あわれみを受けてこの務についているのだから、落胆せずに、」(2コリント4:1) かれは多くの苦しみを働きで受けているからこのことを言っているのです。そして私達にも同じ苦しみを受けると言っています。
パウロはイエス様がこの歩みについて約束した事があると言っています。キリストはパウロと全ての試みに共にいて、彼に忠実であると約束しています。ここで「共にいる」のギリシャ語は「継続した力の供給」と解釈されますが、そのことをパウロは宣言しています。「イエス様はこの旅路に必要な力を私に与えます。この働きに力を与え続けます。イエス様の故に私は弱くなってしまったり、諦めてしまったりしません。私は神の証人となるでしょう。」
私は神に霊的なものでその心と魂を満たす者を感謝します。その様な僕は彼らの眼を全て聖なる、清いものに留めています。キリストを見続け、共に時間を過ごし、礼拝し、キリストへの信仰で建てあげ続けます。聖霊はこれらの聖徒がキリストと似るものになるよう働き続けます。これらの信仰者は激しい、突然の苦しみに備えられています。怠惰な、怠け者の、祈りのない信仰者は心が溶けてしまうでしょう。彼等は恐れに押し潰されるでしょう。何故なら彼等は変えさせて下さる御霊が彼等のうちに働いてないからです。苦しい時がくれば彼等は乗り越えることが出来ないでしょう。
2009年4月13日月曜日
満足すること
使徒パウロの大きな課題の一つは満足することでした。神は彼を大きく用いると言っていました。「あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。」(使徒9:15)そして彼が召しを受けて最初にしたのは「ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると説きはじめた。」(9:20)
2009年4月10日金曜日
委ねる道
神は「居心地のいい鞍の上から落とすこと」によって「人が神に命を委ねる過程」を始められます。パウロにもそんな状況がありました。彼は自信に満ちて、ダマスカスに行く道中、天から目眩みする光が差しました。パウロは地に平伏し、慄きました。そして、天から声がして「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」(使徒行伝9:4)
2009年4月9日木曜日
委ね切る歩み
「委ねる」この単語はあなたにどんな意味を持っていますか。辞書の定義では「自分のモノを他の人に預ける」です。そうであるなら、あなたは自分に与えられたものから手を離すことになります。それは自分の持ち物、力、目標、あなたの命さえあったりします。
現代のクリスチャンは「委ねること」について色々聞きますが、本当にそれはどう言う事を意味しているのでしょうか。「委ねる歩み」とはイエス様が与え給うた命をイエス様に捧げることです。それが力、権利、道、あなたの言動を全て放棄することです。それは神が望むとおりの人生をあなたが歩むことを意味します。
「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである。」(ヨハネ10:17~18)
2009年4月8日水曜日
試みに備える
試みが来る時、あなたには祈りや信仰によって自分を建てあげる時間がありません。しかし、イエス様と共に居た人達は備わっているでしょう。
2009年4月7日火曜日
神が彼等と共にいる
「人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。そして彼らがイエスと共にいた者であることを認め、」(使徒行伝4:13)
2009年4月6日月曜日
神からの勇ましさと霊的権威
イエス様と共に歩めば、その人は益々清さ、神々しさ、愛においてキリストと似る者となります。その聖い歩みは神にあって勇ましいものとなります。「悪しき者は追う人もないのに逃げる、正しい人はししのように勇ましい。」(箴言28:1) ここで「勇ましい」という単語は「確信があり、自信がある」という意味が含まれています。これはペテロとヨハネが宮で働きをなしているときに会堂司たちが見た態度でした。(使徒行伝4:1~2参照)
2009年4月3日金曜日
この人達はイエス様と共にいました。
使徒行伝3章で、ペテロとヨハネは礼拝しに宮に登りました。宮の門の外に生まれながら歩けない足萎えの乞食が座っていました。彼は生まれながら歩いたことはありません。彼はペテロとヨハネを見て、物乞いしました。ペテロは彼に応えて言いました。「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう」。彼はその乞食のために祈り、言いました。「ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。(使徒行伝3:16)その瞬間、その人は癒されました。喜びに満たされ、宮から飛んで、叫び、走り出しました。「イエスは私を癒しました。」
宮にいる人達はその光景に驚きました。何故なら彼は生まれながらの足萎えだったからです。ペテロとヨハネは人盛りが出来るのを見て、キリストを宣べ始めました。何千と救われました。ペテロとヨハネが宣べる時に、宮の指導者達が「気をいら立て」(使徒行伝4:1~2)大祭司や権力者らは使徒に聞きました。「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」。(4:7) ペテロは聖霊に勇気つけられ彼らに答えました。「あなたがたが十字架につけて殺したのをナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。神が彼を復活させたのである。この男を癒したのはその力である。その名による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(4:10 ~12)
ペテロとヨハネは何が違っていたのでしょうか。イエスの臨在です。彼らはキリスト御自身と似るものとなっており、キリストの臨在を彼らが持っていたからです。
キリストと共に時を過ごした者達はその状態に満足するだけではなく、彼らの心は主人をもっと知る、もっと近く、もっとその道の知識が増さんと叫び続けます。パウロは言いました。「私達一人一人にキリストの賜物の量りに従って恵みが与えられています。」(エペソ4:7ローマ12:3参照)ではパウロがここで言っている「はかり」とは何のことでしょう。それは「限られた量」の意味です。ですから、私たちはキリストの救いの知識をある分受けることを意味します。
ある者は、この最初の分量が彼らの望む全てです。彼らにとっては裁きを逃れ、許しを感じ、善人と言われ、日曜の朝一時間を教会で過ごすだけの分量のイエス様で充分なのです。彼らは現状維持だけで十分です。彼らはイエス様へ最低のことしかしません。
パウロはすべての信じるものがこうなって欲しいと願っています。そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、 愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのです。
パウロはこう言っているのです。「神がこれらの霊的な賜物を与えました。それはあなたがキリストの霊に満たされるためです。これはまったく必要なことです。何故なら偽る者があなたの信仰を盗み取ろうとするからです。もしあなたがキリストに根ざし、成熟しているなら、偽りの考えがあなたを揺るがすことはないでしょう。しかし、覚えていてください。キリストにあって成熟するただ一つの方法はキリストをもっと得ようとすることです。」
2009年4月2日木曜日
ヨセフのような人
ヨ セフは自分の歩みが神に大きく用いられる幻を持っていました。しかし、その幻は、彼を妬んだ兄弟達が彼を奴隷として売った時、幻想となったように見えまし た。翌年のヨセフの人生は苦難と不公平に満ちたものでした。そして、ヨセフの状況が少しよくなるかなと見えた時、彼は偽って強姦未遂と訴えられ、監獄に送 られました。
しかし、いつも神がヨセフの歩みを見張っていました。そして、混沌の何年間の最後には、パラオの家に仕えるようになりました。パラオはそのうちヨセフを、エジプトを治める長としました。
愛する皆さん、これが神様の方法です。神は残された人々を救うために人を備えます。真に、その世代毎に、主はヨセフのような者たちを立てます。神は何年かの苦難と試みにその僕を通します。信仰が強くなって、確かなものとなるために通します。
こ れはどんなことを意味しているのでしょうか。聖書はヨセフが耐えたと言っています。「また彼らの前にひとりをつかわされた。すなわち売られて奴隷となった ヨセフである。彼の足は足かせをもって痛められ、彼の首は鉄の首輪にはめられ、彼の言葉の成る時まで、主のみ言葉が彼を試みた。」(詩篇105:17~19)
主はヨセフのような人を今でも立てられています。神が召した人たちです。彼らは有名になることや富を求めません。彼らが願うのは神が賜った召しを全うすることです。そして、主は御国で彼らが大いなる者と数えられると約束しています。
ヨ セフは自分の兄弟たちに言いました。「神は、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがた よりさきにつかわされたのです。それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です。神はわたしをパロの父とし、その全家の主とし、またエ ジプト全国のつかさとされました。」(創世記45:7~8)
ヨ セフは苦しみの歩みを振り返り、証しました。「神が私をこの旅路に送りました。私の苦境には理由があったのです。今になって、私が耐えたのがどのような結 果となったかを知りました。兄弟たちよ、主が私をあなた方に使えるために備えたのです。神があなた方を、私が受けた同じ恵みを受けさせんとこのように準備 したのです」。
こ れはヨセフへの驚くべき悟りでした。では、今の私達がこのことから何を学ぶべきでしょうか。それは「私達の主は過ぎた日にも、来る日にも私達を保たれる」 とのことです。そして、最も重要なことは、神には全てに永遠の目的が裏にあることです。神があなたを保たれるのは、御旨があってからです。神はあなたの先 々に御計画を敷いておられます。訓練され、成熟したクリスチャンはそれを全うします。
今 は弱き信仰の時ではありません。大いなる試みを経た個々のクリスチャンが出でる時です。私達の大将は恐れに満ちた社会で立ち上がって力ある信仰を持つこと を呼びかけています。ヨセフが「神は、...また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。」(創世記45:7)と宣言したように。
2009年4月1日水曜日
御旨によって守られる
ダビデは祈りました。「神よ、わたしをお守りください。わたしはあなたに寄り頼みます。」(詩篇16:1)ここでダビデが使った「守る」のヘブル語には色んな意味が含まれています。「私の周りに茨の塀、垣根を置き、わたしを守り、保ってください。私の行くも来るも、全てを見張って下さい。」と言っています。
ダビデは神が正しい者を保たれると信じ切っていました。そして聖書はダビデが真に助けられ保たれたと言っています。かの祝福された人は宣言しています。「見よ、イスラエルを守る者は/まどろむこともなく、眠ることもない。主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。」(詩篇121:4~7)
ここでも「守る」と訳されたヘブライ語の単語が使われています。ダビデは同じく神による垣根、守りの超自然の塀のことを言っています。彼は私達に確証して言っています。「神はその目をあなたが行くどこでもあなたに注ぎます」。
真に主はすべての処で私達と共におられます-仕事場でも、教会でも、買物の時でも。神は私達の車、バス、地下鉄でも私達と共におられます。その生活のなかで、ダビデは言っているのは、神は悪から守られます。簡単に言えば、私達の神は総て守られるとのことです。神は神の子に対すあらゆる攻撃を虚しくすると約束しています。
何度も、神様は御自身がその民の救い主であることをお示しになりました。何のためでしょう。何故、主は私達を護られる事に執着されるのでしょうか。モーセの言葉に謎の糸があります。「そして主はこのすべての定めを行えと、われわれに命じられた。これはわれわれの神、主を恐れて、つねに幸いであること、また今日のように、主がわれわれを守って命を保たせるためである。」(申命記6:24) モーセがそこで言っているのは神が定めを与え給う理由はただ一つ、彼らを保ち守られるためです。では何故そうするのでしょうか。それは神が私達を救い護られるのと同じ理由です。
神がその選民、イスラエルを保たれたすべての方法を考えてみて下さい。神は彼等をエジプトで10の災害から護り、彼等を紅海においてパラオの軍隊から救い、荒野で蛇の毒から癒されました。人達は彼等の子やその孫らに、神がどのように保たれたかを言い伝えました。「主は全ての敵から私達を救い、水と食べ物を与え、私達の服は破られなかった。神は統べてで私達を保たれる」
しかし、これだけがイスラエルの証でしょうか。この保たれ、護られた人達は荒野で死んだのではないでしょうか。モーセは言いました。「われわれをそこから導き出し、かつてわれわれの先祖に誓われた地にはいらせ、それをわれわれに賜わった。」(申命記6:23) モーセはイスラエル人に言っています。「神があなた方を鎖から導き出したすべての奇跡を考えて見なさい。それはどういう意味ですか。あなたを天地創造のそのかた、特別にあなたを印し、選んだのは何故でしょうか。何故、神はあなたを奴隷働きから解放したのでしょうか。何故、あなたは捨てられて当然なのに、あなたを祝福するのでしょうか。」
主はあなたを保つのは、主があなたをある処に導くためです。主は、全ての奇跡以上に、あなたの人生で何かを成就したいと思っています。主はイスラエルの人々を保ち、彼らの廻りに垣根を設けたのはある目的があったからです。それは彼らが有用なものとなるためです。主は彼等を約束の地、定めの所に導いたのです。