<?xml version='1.0' encoding='UTF-8'?><?xml-stylesheet href="http://www.blogger.com/styles/atom.css" type="text/css"?><feed xmlns='http://www.w3.org/2005/Atom' xmlns:openSearch='http://a9.com/-/spec/opensearchrss/1.0/' xmlns:georss='http://www.georss.org/georss' xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083</id><updated>2011-10-07T06:26:40.927+09:00</updated><title type='text'>David Wilkerson Today (Japanese)</title><subtitle type='html'>Daily Devotions</subtitle><link rel='http://schemas.google.com/g/2005#feed' type='application/atom+xml' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/feeds/posts/default'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default?max-results=100'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/'/><link rel='hub' href='http://pubsubhubbub.appspot.com/'/><link rel='next' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default?start-index=101&amp;max-results=100'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author><generator version='7.00' uri='http://www.blogger.com'>Blogger</generator><openSearch:totalResults>500</openSearch:totalResults><openSearch:startIndex>1</openSearch:startIndex><openSearch:itemsPerPage>100</openSearch:itemsPerPage><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-6968114341046469335</id><published>2011-01-12T03:00:00.000+09:00</published><updated>2011-01-08T04:42:27.307+09:00</updated><title type='text'>私達の牧者はそれでも迷えるものを愛している</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達の牧者は試みや苦しみ、痛みによって迷い出た全ての羊を愛しておられます。私たちを私達の牧者は決して捨てません。神は私達と共に歩んでおられ、いつも見張っておられます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;もしかして、誘惑にめげているかも知れません。その苦闘が何であっても、あなたは主から離れまいと決めていて、罪の触手に委ねることを拒んでいます。その代わり、あなたは神の言葉を心に覚えます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;しかし、あなたはダビデのように疲れているかも知れません。あなたには全く助けがないと感じているかも知れません。私達の敵は失望、恐れ、偽りで圧倒しようとします。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;あなたの試みは益々不可解で理不尽なものとなっているかも知れません。しかし、あなたがどんな状況であっても知らなければならないのは聖霊様があな たにJehovah Rohi、｢主は我が牧者｣であることを啓示したいのです。あなたにはあなたの心に愛を焼き付けたい牧者がおられることを。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;イエス様は約束しています。「わたしはあなたを孤児にはしない。」そして私達の天の父-Jehovah  Rohi-｢主は我が牧者｣は御自身を詩篇23篇で啓示しています。神は私たちに「あなたの名をわたしは知っている。あなたの状況も知っている。来て、わ が恵みと愛にあって休みなさい。全てを理解する必要はありません。ただ、我が愛を受け入れ、慈しみの手で休みなさい。わたしは万軍の主、威厳と聖さの神で ある。あなたはこれらのことについて悟ってほしい。しかし、特に今あなたが知るべきはJehovah  Rohiを悟って欲しい。あなたに知って欲しいのはわたしがあなたの親切な、よき牧者であることです。あなたの試みを私の慈しみの中で通ることを確信して 欲しい。｣と言っておられます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-6968114341046469335?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6968114341046469335'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6968114341046469335'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2011/01/blog-post_08.html' title='私達の牧者はそれでも迷えるものを愛している'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-8164251029597219952</id><published>2011-01-11T03:00:00.000+09:00</published><updated>2011-01-11T03:00:06.218+09:00</updated><title type='text'>主は我が牧者であって</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;わたし達は詩篇23篇に馴染んでいます。この詩はクリスチャンでない人の間でもよく知られています。この詩篇はダビデ王によって書かれ、かの有名な詩篇はこの句で始まっています。「主は我が牧者であって、わたしに乏しき事がない。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ダビデは乏しいことないとしています。言い換えれば、「わたしには不足なことはない。」と言っています。続く言葉から考えれば、ダビデは「主はわたしを導き、養う。故に私は足りないものがない。」と言っています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;この短い文の中に、ダビデはもう一つ主のご性質について述べています。文にはJe-HO-va-RO’-eeと始まっています。それは「主は我が牧者」という意味です。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;Jehovah  Rohiはただ親切、消極的な牧者を意味していません。そして、ただの雇われ人でもありません。ただの雇われ人は最小限のこと、食べさせ目的地に行かせる だけです。しかし、神は牧場と水飲み場にわたし達を連れて行き「必要なのは与えただろう。これでいいだろう。」とは言いません。そうではありません。神は 私達の忍耐、涙を知っています。神は耐え抜く気力が失っていくのも知っています。彼はあなたがどこで諦めるかを知っています。そして、神はわたし達を何時 救い、癒すべきかを知っています。神はいつも私達を危機から救い、休ませます。神は、休息と癒しの時を与えて下さいます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;Jehovah  Rohi-主は我が牧者という神の名は私達が神の安息に導かれるとしています。そして神は私達に｢shekinah｣-であることが出来るのです。主なる 神は出エジプト書29:45でこう仰っています。｢わたしはイスラエルの人々のうちに住んで、彼らの神となるであろう。｣ここで｢住む｣はヘブル語の単語 で｢shekinah｣が使われています。その意味は「横で繋がっている」または｢側面に落ち着く｣です。この単語がここで使われているのは一過性ではな く永続－離れない臨在－することを強調したいがためです。ですから、神の｢shekinah｣なる栄光は見えない墨で書かれたのではありませんので心から 消えません。返って神が私達の魂に判印したものは永久のものです。それは私達の近くにあるものです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;それは栄光に満ちたものです。私達の牧者は私達の痛みは欝とした状況でも来て、私達の側に掛けて下さいます。神はまた私達の傷を塞ぎ、病んで痛んでる処を強めて下さいます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;これが｢shekinah｣なる神の栄光です。主の永久（とわ）の栄光です。それを私達の試練の時にしばしば体験します。私達の偉大なる牧者は語り ます。「わたしはあなたを修復し、あなたと例え死と影の谷であっても共にいる。我が臨在はサタンの計略のなかでもあなたと共にいる。もしあなたがわたしよ り逃げて行ったとしても、あなたを追って行く。そして、あなたを捕らえたら、私はあなたを両手で抱き上げ、神の安息に入るべくあなたを運ぶ。そしてわたし はあなたの傷を塞ぎ、あなたの全ての病は癒されえる。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-8164251029597219952?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/8164251029597219952'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/8164251029597219952'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2011/01/blog-post_11.html' title='主は我が牧者であって'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-1271540169315101583</id><published>2011-01-10T03:00:00.000+09:00</published><updated>2011-01-10T03:00:04.344+09:00</updated><title type='text'>神が望まれるのはあなたの信仰が全てです。</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様はあなたの家を、車を、家具を、定期預金などあなたの持ち物が欲しいわけではありません。神が望まれるのはあなたの信仰－神の御言葉への強い信 頼です。信心深いと思われる人達にしばしば欠けるものです。ある人はあなたより信心深いように見えるかもしれません。しかし、その人は自分を義人ぽく見せ るために必死に努力しているかも知れません。神は他の人ならず、あなたに向け｢ここに義人が居る｣と仰います。何故でしょうか。あなたは義となるためには 自分が無力なのを認めているからです。そしてあなたは神の義を主が与えて下さる事を信頼しています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;パウロは私達が神の目に、アブラハムと同じ理由で義とせられていると言っています。｢だから、彼は義と認められたのである。しかし「義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、｣(ローマ4:22―23)&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;あなたは「わたしは神がイエス様を蘇らせたことを信じている。」と言うかもしれない。しかし、要はあなたが冷め切った夫婦関係を修復できると信じて いますか。あなたは霊的に死んだ親戚を復活させるのを信じますか。あなたは悪癖のどん底から引き上げる事を信じますか。あなたは忌まわしい自分の過去を消 し、失った時を回復できると信じますか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;全てに望みがない時－助けも希望も何もなく不可能に見える時、神がジェホバジャイラ(神に備えある)と信じますか。あなたは神自身があなたにした約束を守られると信じますか。－もし、神の言葉が行われないなら、天は落ち、宇宙は崩壊します。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-1271540169315101583?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/1271540169315101583'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/1271540169315101583'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2011/01/blog-post_10.html' title='神が望まれるのはあなたの信仰が全てです。'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-1757090413969842919</id><published>2011-01-07T03:00:00.000+09:00</published><updated>2011-01-08T04:40:32.731+09:00</updated><title type='text'>主はわたし達の義</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;｢主は仰せられる、見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起す日がくる。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う。 その日ユダは救を得、イスラエルは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる。｣(エレミア23:5-6)&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様は預言者エレミアに「Jehovah Tsidkenu」(Je-Ho-va  Sid-KAY”-noo)という啓示を私達が現在直面している危機と似たようなときに彼らに与えました。ではわたし達にこの聖書箇所はどんな意味を持つ のでしょうか。『主はわれわれの正義』とは何であってイエスの役割をその中でどのように理解したらいいのでしょうか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;使徒パウロは聖書の幾つかの箇所で神様の義の定義を示しています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;• ｢アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた. ｣(ローマ4:3)&lt;br /&gt;• 「アブラハムには、その信仰が義と認められた」(ローマ4:9)&lt;br /&gt;• ｢このように、アブラハムは「神を信じた。それによって、彼は義と認められた」のである。｣(ガラテア3:6)&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;これらの聖句はアブラハムがどのように真の義とせられたかを示すものです。「彼は信じた。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;使徒パウロは義に対して「主による定義」をも示しています。｢彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強めら れ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。だから、彼は義と認められたのである。｣(ローマ4:20-22)&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;儀についてこれより明らかには出来ないでしょう。義とは、神が必ず御自身の言葉を守ることを納得して、神の約束を信じることなのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-1757090413969842919?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/1757090413969842919'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/1757090413969842919'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2011/01/blog-post_07.html' title='主はわたし達の義'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-912876140475153214</id><published>2011-01-06T03:00:00.000+09:00</published><updated>2011-01-08T04:39:56.492+09:00</updated><title type='text'>私たちには希望があります</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;キリストの義がある人は、希望がない人々のように生きてはいけません。私達は神への畏れと愛両方に祝福されています。神の御旨は暗闇にあっても私達 が喜びと嬉しさを得ることです。私達の周りが災難に会うとしても、私達は、裁きが来たからではなく、裁きに関わらず喜びの歌を歌います。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;イザヤ書5:11は英文では｢Therefore｣と始まっている。それは｢前に述べた理由によって｣の意味です。その前に神は何を言ったでしょう か。｢51:10  海をかわかし、大いなる淵の水をかわかし、また海の深き所を、あがなわれた者の過ぎる道とされたのは、あなたではなかったか。｣言い換えれば「私は主、時 の古、奇跡を行うもの。我が手は汝を救う」と意味します。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;そして神は51:11で前に述べた事実によって何を言いたかったのでしょうか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;• 主にあがなわれた者は、歌うたいつつ、シオンに帰ってきて、――その意味は信頼と信仰と神に対する自負心を持った&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;• ｢そのこうべに、とこしえの喜びをいただき｣神の民が体験する喜びは礼拝・日曜の朝/一週間/一ヶ月に限られるものではありません。それは苦しい時を堪える、最後まで残るものです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;• ｢彼らは喜びと楽しみとを得｣神は時の中で仰います。「わたしの民は喜びをえて、それを保ち、彼らのものとなる。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;• 悲しみと嘆きとは逃げ去る。－この意味はすべの苦しみが去ることを意味しません。これは主にあるわたし達の信頼が全ての苦しみと悲しみを超えうることを意味します。悲しみと苦しみとかは決してわたし達の喜びと楽しみを取り去ることは出来ません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-912876140475153214?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/912876140475153214'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/912876140475153214'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2011/01/blog-post_06.html' title='私たちには希望があります'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-5470248770301169555</id><published>2011-01-05T03:00:00.000+09:00</published><updated>2011-01-08T04:39:09.611+09:00</updated><title type='text'>父を知る</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;子供たちは危機の時、親の資質を知ります。子が痛み、苦しみ、必要がある時、親の深い愛と犠牲を認識します。私が子供を育てる時、私は好きなことに ついて言いませんでした。「私が親で、私は我慢強く、優しく、あなたを愛している。何時でも、何が起きても、あなたを許します。」と言う必要はありません でした。そんな事を宣言するのは馬鹿げています。何故なら、私の子供は彼らが問題に当たった時、私が彼等をどれだけ愛したかを知っているからです。今や彼 らは結婚して子供が居ますが、私の息子や娘は新たに私を知る体験をしています。彼らは、彼らの人生が新しい場面にめぐり合い、その時の私の行動と対応を通 じて私を学んでいます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;天の父を知るにも同じことが言えます。アダムの時からキリストの十字架まで主はその民に、御自身の資質を絶え間なく啓示してきました。神はただ「この名がわたしを表す。ではそれを学びなさい。故に私を知るだろう。」の詔を与えるだけではありませんでした。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ヘブル語の主の名は主の名に関わる不思議な栄光と備えを表しています。そして、神はその名が宣言するご性質をその民にじかに行い、その誠実を啓示します。彼は御自身の子の必要を見ておられ、悪魔の姦計を見抜き、民の為に御自身か介入します。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;皆さん、天なる父を時間を掛けて、心から知って下さい。聖霊があなたの必要な時に与え給う天なる父に多面的備えを気付かせて下さるように求めて下さい。そして聖霊に「わたしはいる」神を知る知識を求める資質を願って下さい‐神だけが必要なものの全てです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-5470248770301169555?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/5470248770301169555'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/5470248770301169555'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2011/01/blog-post_05.html' title='父を知る'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-3284937267240000989</id><published>2011-01-04T03:00:00.000+09:00</published><updated>2011-01-08T04:38:35.778+09:00</updated><title type='text'>最も大きな試み</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「モーセが手を海の上にさし伸べたので、主は夜もすがら強い東風をもって海を退かせ、海を陸地とされ、水は分かれた。」(出エジプト14:21)&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;イスラエル人の前には彼等を安全に導く道がありました。この決定的瞬間に神はその民が壁を見て、彼らが反対側に安全に着くまで、神がその壁を保って おれれると言う信仰を持って欲しいと思いました。言い換えれば、神はその民が信仰を持って告白して欲しいと思っておられました。「神は忠実な方なので、こ の奇跡を始めから終りまで見ておられます。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達が振り返ってみたら、何故そんなに恐れたかと思います。エジプト人が来るのを見ても恐れるべきではありません。神は彼らと私達の間に神の暗闇の 壁を置き、夜に彼等を恐れないですむようにしました。何時でも、神は敵が暗闇で何も見えない時、私達に輝く光を与えて下さいます。私達が激しい風に恐れ戦 慄く時、神は私達に逃れる道、その風を使って作って下さいます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神は私達によい事だけをしたいと思っておられることが解ります。神が私達のために栄光と力を用いてくだることは十分知っています。私達は最早恐れの中ですむ必要がありません。水の壁が崩れても関係ありません。生きるも死ぬも、私達は主の者だからです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神はその時点で、このような信仰を要求したのには理由があります。彼らには荒野での旅が待っていたからです。欠乏と危険と苦しみを堪えなければなら なかったからです。ですから、神は「我が民はわたしがよい事だけをすることを知らしめる。危険が差し迫る時、死を恐れないで欲しい。わたしは全てにおいて 忠実であるから彼らは死を恐れない民になるべきである。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;勝利した後、踊る者が、また敵を破った時に神を賛美する者が真の礼拝者ではありません。イスラエルは敵を破り、勝利して踊りました。それが彼らのし たものです。神が紅海を分け、向こう岸に着きました。彼らは歌い、踊り、神を賛美し、褒め称えました。しかし、その三日後、マラにおいて同じ人達は神に呟 きました。彼らは礼拝者ではなく、軽薄な興奮に浸っているだけでした。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;真の礼拝者は嵐の中で神を信頼することを学んだ者のことです。この人の礼拝は単に言葉だけではなく、歩みをも含めるものです。その人の世界は、神に対する信頼が揺らがないので、世界はいつも平安です。また、未来も恐れません。そして死を恐れないからです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;わたしの妻グエンと私は孫娘12歳ティファニーに揺るぎない信仰を見ました。彼女の臨終の近い時、私達はベット際で彼女の人智を超えた平安を見まし た。彼女は私に言いました。「おじいちゃん、天の家に帰ります。イエス様は私にそこに居て欲しいって。ここにはもう居たくないよ。」彼女は終りとか死への 恐れが全くありませんでした。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;それはが神がその民に持って欲しい平安です。パウロのように、またティファニーのように自信を持って言うのです。「生きるも死ぬも主のもの。」この信頼が真の礼拝者とするのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私はこの文を読む全ての人が嵐の中でこの言葉を言える事を祈ります。「そうです。経済が崩壊しているかも知れません。私は暗い嵐の夜を迎えるかも知れません。しかし、神は私に真であった。何が起きても、私はその愛に安住できる。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-3284937267240000989?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/3284937267240000989'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/3284937267240000989'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2011/01/blog-post_04.html' title='最も大きな試み'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-666072275172943473</id><published>2011-01-03T03:00:00.000+09:00</published><updated>2011-01-08T04:03:05.295+09:00</updated><title type='text'>三つの事をしなさい</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;試みの中でイスラエルの民に神が仰せられました。「恐れるな。立って主の救いを見よ。」そして、「私はあなたの為に戦う。あなたは黙して、平安でい よう。全てを我が手に委ねよ。私は見えざる次元で働き、統べ治めている。だから、慌てるな。私が悪魔と戦う。戦いは最早あなたのではない。」(出エジプト 14:13-14参照)&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;暗闇が、彼らがいる場所を覆います。イスラエルの暗い嵐の夜の始まりです。しかし、それは神の御手の業の始でもあります。神は民と民の仇の間に守護天使を送りました。私は神を愛し、恐れる者らの周りに守る天使を今でも送って下さっていると信じています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;主は神の雲を動かし、導きとしました。その雲は突如民の前から民の後ろ側に置かれエジプト人の前に憚る真っ暗な壁となりました。反対側は雲は夜もすがらイスラエルに神の光を与えました。(出エジプト14:20)&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;パラオの軍隊は暗闇にいましたが、彼らは声を上げる事は出来ました。夜通し、偽り、脅し続けました。この夜通しの虚言はイスラエル人を悩ましました。しかし、どれだけ仇が彼らを脅したとしても、天使が守って、神はその民に危機を通り抜けさせると約束します。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;聖徒の皆さん、もしあなたが血で贖われた神の子であるなら、神はあなたと悪魔の間に戦闘する天使を置いてくださいます。イスラエルに言ったように神 はあなたに言います。「おそれるな。立ってわたしの救いを信じなさい。」サタンは悪しき計略で向かってくるかも知れませんが、嵐が吹き荒れる暗い夜のどん な時でもあなたの敵はあなたを破壊決してできません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「モーセが手を海の上にさし伸べたので、主は夜もすがら強い東風をもって海を退かせ、海を陸地とされ、水は分かれた。」(出エジプト14:21)&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ここで使われている風とは、ヘブライ語で「強い吐く息」という意味があります。このことは神が息を吹き、水が壁を作ったと意味しています。イスラエ ル人の幕屋はその風が吹いた時、きっと揺れたでしょう。何故神は一語とで状況を静められる時、夜もすがらイスラエルが嵐の夜を堪えさせたのでしょうか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;嵐はイスラエルを恐れさせました。神は何故それを許したのでしょうか。何故、神は夜通し嵐が続くことを許しましたのでしょうか。何故、神はモーセが水を打ち、波を分けさせるようにはしなかったのでしょうか。神がこの恐ろしい夜をお許しになった理由は何だったのでしょうか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;それは、主は礼拝者を備えるためだったのです。神は最大の危機を抜ける道を、嵐を用いて創っておられました。その時、イスラエルはそれを見出しませ んでした。ある人は自分の幕屋に隠れたでしょう。しかし、外にいた人達は栄光に満ちた光景に証人となることができました。彼らは波が壁となり、海に乾いた 地が現れることを見たでしょう。「見よ、神が私達の為に風を用いて道を造られる。主を賛美せよ。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-666072275172943473?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/666072275172943473'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/666072275172943473'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2011/01/blog-post.html' title='三つの事をしなさい'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-2253807108417419794</id><published>2010-12-31T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-12-31T03:00:01.688+09:00</updated><title type='text'>礼拝者になること</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;出エジプト14章はイスラエルの歴史の劇的な場面を現しています。イスラエルは神の導きに従って出エジプトしました。で、その時、彼らはパラオの軍 に追われていました。イスラエルは両側に切り立つ山に挟まれた渓谷で立ち、前には海が憚っていました。彼らはまだ知らないでいますが、彼らは魂の暗闇、嵐 が吹き荒れる夜を体験する事になります。彼らは限界まで試す四面楚歌の苦悩と失望の夜を体験します。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;この出来事は神が如何にその民を礼拝者と変えるかをあらわしています。聖書の何処にもこのような苦悩と失望をあらわしている章はありません。皆さ ん、真の礼拝者はリバイバルや、晴れの日に形作られません。私達が嵐にどのように応えるかによって私達がどんな礼拝者になるかが定められます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ヘブル書の11章は老いたヤコブを表しています。「信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。」(ヘブル11:21)　何故、死に際のヤコブのことがここに書かれているのでしょうか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ヤコブは自分の命が終わることを知っていました。ですから、ヤコブは自分の孫達に祝福をしました。ヤコブは自分の人生を振り返って、何をしましたか。彼は神を礼拝しました。誰もそうしろと言いません。彼は杖に寄りかかり、神が与える人生に感動し、そして「礼拝」しました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ヤコブがその時神に礼拝したのは、彼の魂が休む時に差し掛かったからです。彼は神が疑う事無く忠実であることを知っていました。そして、族長はこう 語り彼の一生を締めくくりました。「どんな戦いでも神は私に忠実であった。神はいつも忠実であった。主よ、偉大な神よ。私はあなたを礼拝します。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-2253807108417419794?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/2253807108417419794'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/2253807108417419794'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/12/blog-post_31.html' title='礼拝者になること'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-3338871171165669928</id><published>2010-12-30T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-12-30T03:00:02.291+09:00</updated><title type='text'>少しの苦しみにくよくよしない</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;キリストの復活の前にひと時の苦しみがありました。同じく私たちには死や苦しみ、痛み、悲しみがあります。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私たちは傷ついたり苦しんだりすることを望みません。私たちは苦しみのない救いを、神の介入を願います。「神様、あなたは私の弱さを知っています。私は弱すぎます。あなたが介入して、この状況を変えて下さい。私は何もすることができません。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私たちは色々な問題を悪魔のせいにします。私たちは神の人を見つけ、彼が悪魔を追い払って、苦しみや痛みなく現状復帰したいと思っています。「解決 済み。勝利の歩みた。心地がいい。」　誰かが私に手を置いて祈り、乾きが全て除かれることを期待します。しかし、勝利は必ずしも苦しみや痛みなしで得られ る訳ではありません。罪を直視しましょう。キリストがしたように苦しみ抜いて下さい。キリストの苦しみに与って、夜を耐え、朝には喜びが待っています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神の愛は選択を要求しています。もし、神が私たちの戦いに痛みや苦しみ無しで介入するなら、試みや問題自体が無くなるでしょう。その意味は私たちに は最早自由選択が存在しないし、火によって試されないことになります。それは神の御旨を問答無用にあてはめることです。しかし、神は旱魃の中で私達に会 い、御自身が如何に信仰の新生の道になるか見せて下さいます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達の苦しみや痛みは神の御旨の場合がしばしばあります。「だから、神の御旨に従って苦しみを受ける人々は、善をおこない、そして、真実であられる創造者に、自分のたましいをゆだねるがよい。」(1ペテロ4:19)&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神に、勝利を得られる前の苦しみは長くないことを感謝すべきかな。「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。」(1ペテロ5:10)&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-3338871171165669928?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/3338871171165669928'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/3338871171165669928'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/12/blog-post_30.html' title='少しの苦しみにくよくよしない'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-1224764403673306132</id><published>2010-12-29T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-12-29T07:35:55.443+09:00</updated><title type='text'>祈りの時を保つこと</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;霊の枯渇を克服するためには祈りの時を保たなければなりません。私達は祈らなければならないのですが、そのようにはしていません。私達が神様との交わりがあるときには私達の重荷は取り去られることを知っています。聖霊は私達に呼びかけます。「来なさい。」と。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;魂の渇きを満たす水に来なさい。その子らを哀れむ父に来なさい。全て罪を許し給う命の主に来なさい。あなたを呪う事も、捨てる事も、隠れる事も否む唯一の方に来なさい。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達は罪悪感や自責で神から隠れようとしますが、紙は決して私達からお隠れになりません。罪を犯したり、路に逸れたりしても、神の恵みの御座に大胆 に進み出よう。神の恵みに戻ろうと努力したり、自責と反省の時間を何時間、何日間持ったりする必要はありません。御父に進み出て、膝を屈め、心を開き、あ なたの苦悩、苦痛を訴えてください。神にあなたの孤独、拒絶、躓きを話してください。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達はいろんなことを試みますが、祈りません。解決する術を、方法を見つけようと本を読みます。慰めや助言を得ようと友人、牧師、カウンセラーなどいろんな人に行きます。私達は私達の声を探しますが、全てに答を持っておられる声を忘れます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様だけと交わるときに勝る、渇きや虚しさを退けるものはありません。隠れた場所で御父に祈ることに代わるものはありません。全ての渇きが解決します。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;わたしは、かわいた地に水を注ぎ、干からびた地に流れをそそぎ、わが霊をあなたの子らにそそぎ、わが恵みをあなたの子孫に与えるからである(イザヤ44:3)&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-1224764403673306132?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/1224764403673306132'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/1224764403673306132'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/12/blog-post_29.html' title='祈りの時を保つこと'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-348501722221664308</id><published>2010-12-28T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-12-29T07:35:23.359+09:00</updated><title type='text'>乾いた時を経る</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私が沢山の人達にメッセージをしますが、時には神の優しい臨在から離れ、とても乾いていると感じるときがあります。私は乾き、御言葉を読む気力も、 祈りたい気もおきません。私の信仰が変わったわけでもなく、イエス様に対する愛が冷めたわけでもないし、この世につかろうとの望んでいるのでもありませ ん。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;他のクリスチャンが、あなたが置いてきぼりになっているのに、恵みを受けていますが。彼らの祈りに神が答えられて、喜び溢れていると彼らは証しています。イエスを愛するあなたは歩留まりしていて、あなたの周りはだらけているのに彼らは幸せの絶頂にいます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;全ての信仰者は彼らのクリスチャンの歩みで幾度か乾いた時を経験します。イエス様でさえ孤独を感じ、叫びました。「父よ、何故あなたは私をお捨てになるのですか。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神に近づく以外、平安はありません。枯渇はみ神の栄光の露のみによって解決します。神の応えの確かさによって落胆が退けられます。聖霊の火が心と体と魂を燃やすことが出来るのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私はしばしば罪人が感じる自分に虚しいと感じることがありますが、神は決して私を離れておらない事を知っています。小さな、はっきりした声を私は聞 きます。「来なさい、わが子よ。あなたが今通っていることを知っている。わたしの愛は変わっていないまた私はあなたを孤児にはしない。わたしがあなたの父 であり、あなたはわたしの子であるから、共にこのときを通り抜けよう。｣私のうちに決して消すことの出来ない聖霊の炎があって、私に語りかけます。神はど んな乾いた時からもわたしを救い出してくださることを知っています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「主の分はその民であって、／ヤコブはその定められた嗣業である。主はこれを荒野の地で見いだし、／獣のほえる荒れ地で会い、／これを巡り囲んでいたわり、／目のひとみのように守られた。｣(申命記32:9～10)&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;｢見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。野の獣は わたしをあがめ、山犬および、だちょうもわたしをあがめる。わたしが荒野に水をいだし、さばくに川を流れさせて、わたしの選んだ民に飲ませるから だ。｣(イザヤ43:19～20)&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-348501722221664308?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/348501722221664308'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/348501722221664308'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/12/blog-post_28.html' title='乾いた時を経る'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-2386341617038081768</id><published>2010-12-27T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-12-29T07:34:51.290+09:00</updated><title type='text'>あなたは諦めようとしていますか</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;たくさんの神の僕らが私に教区の信徒が辞めたいと言っていると書いて来ます。｢正直な信徒罪悪感や自己嫌悪に苛まれ、失望しでいます。自分の期待が失望に終わる時、彼らは罪に陥り、自暴自棄と成ります。｣&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;益々多くのクリスチャンが自暴自棄と成ろうとしています。一部はイエスへの愛までも止めることさえ考え、落ち込んで自暴自棄となっています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ある牧師は肯定的なメッセージを続いて語ります。それは、全てのクリスチャンは奇跡を受けたり、皆祈りの答を頂いたりして、幸せな生活を営みます。 勿論、私も神の民が健康で幸せに生きることを望んでいますから、そのようなメッセージを語りたいと思います。しかし、真の正直な、真剣なクリスチャンの多 くはそのようではありません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;たくさんの若者達が諦めようとすることも無理もありません。宗教によって作られた仮面、自立していて、豊かで、成功した、いつも肯定的に考える仮面 に見合うように生きていけません。彼らの世界は描いたほど理想的でもなく、苦しみや身近な人の問題や色々な災難の中に生きています。&lt;br /&gt;パウロも問題について述べています。｢．．．会った患難を、．．．知らずにいてもらいたくない。わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、｣（2コリント1:8）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;肯定的考えは問題を消えさせたりしません。また、その問題が存在しないと自分に言い聞かしても何も変わりません。何をしたらいいのでしょうか。二つだけ確かなことがあります。それが私に大きな慰めと助けになりました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;• 神は私を愛してくださっています。私達の弱きを知り、助けたいと欲されています。&lt;br /&gt;• 私達の信仰が神を喜ばします。神は私が神を信頼することを願っています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-2386341617038081768?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/2386341617038081768'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/2386341617038081768'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/12/blog-post_27.html' title='あなたは諦めようとしていますか'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-2669279021765688691</id><published>2010-12-24T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-12-29T07:34:17.470+09:00</updated><title type='text'>あなたは生き残ります</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;幸福とは痛みや傷がなく生きる事ではありません。かえって、真の幸福とは悲しみや苦痛に関わらず、その日を如何に生きるかを学ぶことです。過ぎた時に何が起きたかに拘らず主にあって喜ぶ事を学ぶことです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;あなたは拒まれ、見捨てられていると感じるかも知れません。あなたの信仰が弱いと思ったり、試されると思っているかも知れません。悲しみ、涙、苦痛、虚しさがあなたを時には呑み込むかも知れませんが、神が御座に居られ、神であられます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;あなたは自分か生き残ると言い聞かせ下さい。あなたが生きるも死ぬも、あなたは主に属しています。人生の歩みは続いていきますし、神の助けがあるなら自分がどれだけ耐えられるかに驚くでしょう。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;あなたは自らを助けたり、苦痛を止めたりすることは出来ませんが、私達の主があなたにはあるのです。種はその愛しみの御手をあなたに置き、天にあなたを立てます。主は死の恐怖からあなたを救い、あなたへの絶えることのない愛を示すでしょう。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;天を見上げ、主にあって自分を力づけて下さい。霧があなたを囲み、あなたは問題を解決する方法が見つからない時、只イエスの御手に委ね、イエスを信 じて下さい。イエス様が全てを成して下さいます。イエス様はあなたが主を信じ、信頼して欲しいのです。彼はあなたが声を出して「イエス様が私を愛して、私 と共に居り、私は失望に終わることはない。今もイエス様は働いて居り、私は打ち捨てられない。私は敗れサタンの餌食にはならない。私は方向を失わない。神 が私と共におり、私は神を愛しているし、神も私を愛している。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;根本は信仰です。そして信仰はこの言葉を絶対的なものとするでしょう。｢すべてあなたを攻めるために造られる武器は、その目的を達しない。｣(イザヤ54:17)&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-2669279021765688691?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/2669279021765688691'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/2669279021765688691'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/12/blog-post.html' title='あなたは生き残ります'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-6573243525581710243</id><published>2010-10-22T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-10-22T03:00:00.776+09:00</updated><title type='text'>遅く来た祈りの答え</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私たちはしばしばダビデのように祈ります。「わたしの悩みの日にみ顔を隠すことなく、あなたの耳をわたしに傾け、わが呼ばわる日に、すみやかにお答 えください。」（詩篇102:2）「あなたの顔をしもべに隠さないでください。わたしは悩んでいるのです。すみやかにわたしにお答えください。」（詩篇 69:17）ここでヘブライ語の「すみやか」という単語が使われていますが、「今、急いで、これを呼んだら直にする」の意味ですから、ダビデは「主よ、私 はあなたを信じますが、急いで下さい。」と言っています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;　神は急ぐ事はありません。神は私たちが要求したから何かをされません。現に、あなたはしばしば神が答えるか、否がをも疑うことがしばしばです。あ なたは泣き、叫び、断食しそして望みますが、日、週、月が経ち年も暮れます。しかし、あなたは神があなたに耳を傾かれた兆しは何もありません。先ず、あな たは「何かが私の祈りを妨げている」と考えます。やがてあなたは混乱し、こう考えるようになります。「主よ、祈りが答えられるには何が必要ですか？　あな たは御言葉で信仰にたって答えると言ったのではありませんかと、何年これを続けなければなりませんか。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;　神様は何故真心の祈りに答えないのでしょうか。神がそうされる能力が欠けているからではありません。また、神は私たちが答えを受けさせたいと思っ ています。この御言葉に答えがあります。「また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。」（ルカ18:1）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;　ここで使われている「失望」というギリシャ語は「緩やかになる、信仰が弱々しくなって、疲れて、努力しない。成就されることを待たない」を意味し ます。しかし、聖書は「わたしたちは、善を行うことに疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる」（ガラテア6:9）と言って います。主は疲れたり、弛んだりしないで祈る人々をも求めています。この人たちは主を待ち望み、御業が完成するまで諦めたりしないでしょう。そして、神が 答えをもたらす時を見出すでしょう&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-6573243525581710243?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6573243525581710243'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6573243525581710243'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/10/blog-post_22.html' title='遅く来た祈りの答え'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-622637234572666153</id><published>2010-10-21T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-10-21T03:00:01.556+09:00</updated><title type='text'>愛の鞭</title><content type='html'>&lt;p&gt;神はあなたを愛しているので、あなたの人生を立ち直らせて下さいます。悔い改め神に立ち返る人には愛の鞭が与えられます。あなたの過去や現在の罪の 為に、神の矢が魂に刺さる痛みを感じるかもしれません。しかし、もしあなたが悔い改めの心を持ち、間違いから直りたいと思うなら、それは愛の鞭と言えるの ではないでしょうか。間違いは正されますが、神の愛と慈しみによる正され方があるのです。あなたは信じないもののように怒りの鉄拳を感じるのではなく、神 の慈しみ深い御手による薫陶を受けるのです。&lt;/p&gt; &lt;p&gt;　もしかしたら、あなたは過去の間違いによって苦しんでいるかもしれません。沢山の女性たちが、神様がその人ではないと戒めたにもかかわらず結婚し て苦しんでいます。若者たちは道を誤り、親の心を痛めています。こんなことが繰り返し行われるのは、罪や妥協の根があったからです。&lt;/p&gt; &lt;p&gt;　そしてあなたがどん底に落ちたと知る時、砕かれ、悔い、信仰によって主を求める時、そして聖霊の力の新たな注ぎを受ける時です。それはあなたの内から霊的力が溢れ、リフレッシュされる時です。&lt;/p&gt; &lt;p&gt;　あなたが神を叫ぶ時、神はあなたに力を注ぎます。「私が呼んだその日に、あなたは私に答え、私の魂に力を与えて強くされました。。。。。たといわ たしが悩みの中を歩いても、あなたはわたしを生かしてくださいます。私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし、あなたの右の手が私を救ってくださいます。主は 私にかかわるすべてのことを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざを捨てないでください。」（詩篇 138:3　7-8）&lt;/p&gt; &lt;p&gt;　クリスチャンにとって最も受け入れ難いことは正しい人が苦しむ事です。キリストがこの世に来られるまで、ユダヤ人は信仰深い事と健康や成功を関連 付けていました。彼らはあなたが裕福であり、健康である事は、神があなたのよい行いに満足しているから祝福されると信じていました。ですから、イエス様が 弟子達に「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい。」といった時、弟子たちは「では、だれが救われることができ るのだろう？」（マタイ19:24-25）　と反応をしたのです。&lt;/p&gt; &lt;p&gt;　同じように、今、世間で苦しみを受けない契約を神と結んでいて、必要な時に神を呼べば、全てが解決すると言っている間違った神学があります。しか しこれは福音とは言えません。ヘブル11章の信仰の偉人たちは神と共に歩みましたが、彼らは石打され、罵られ、拷問され、殺されました。（ヘブル 11：36-38）パウロ自身も神と共に歩みましたが、難破し、石打され、鞭打たれ、捨てられ、監獄に入れられ、迫害されました。彼は全てをなくす苦しみ を受けました。何故でしょうか。これらは全て、神の栄光に対する信仰が試され、清められる為に必要なものだったからです。&lt;/p&gt; &lt;p&gt;　神様は試みを通して私達の心に何かを植えつけようとされています。神は私たちがこう告白するのを望んでいます。「主イエス様、あなたは私を守り、 全てを司る事を信じます。何かが私に起きるのはあなたが許されていて、その御旨を信じます。あなたが私に知らしめ、受けさせようとする教えを解るように助 けて下さい。もし、私が義に立ち、心に神の喜びがあり、私の生きるも死ぬも神に栄光を帰すでしょう。あなたは、私の有限な心では理解できない神の御旨と備 えられている栄光があると信じます。私は、私が生きるも死ぬも、私はあなたのものと告白します。」&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-622637234572666153?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/622637234572666153'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/622637234572666153'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/10/blog-post_21.html' title='愛の鞭'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-7839910452518721798</id><published>2010-10-20T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-10-20T04:29:25.464+09:00</updated><title type='text'>神様が思いがけないことを私におっしゃいました。</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ある晩、祈りの会で神様は私に私達の教会について思いがけない事を言われました。主は私に「教会は今ショック療法が必要です。多くの人は現状に満足 して安住しています。今世で流行っている偽りの神学の波や風から閉ざされ、安全だと思っています。しかし、あなた方はやがて来るものについて備えられてい ません。」と言われました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;愛する皆さん、あなたに内に働く御霊の証しは、あなたが取捨選択するのもではありません。あなたの命がかかっているのです。終りの日に聖霊の証を内に持たないのなら、生き残れません。あなたはアンチクライストの霊に屈服するでしょう。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;あなたは聖霊の証が、職場でも、働く時でも、学校でも常に必要です。指導者や政治家を正しく見極めてください。敵キリストの制度に気がついたら組み込まれないためにです。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;これはイエス様が「灯火の油を持たなかった愚かな乙女」の例えで言いたかったことです。彼らは聖霊を持っていましたが、時が来たときにはその証はなくなっていました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;油が足りなくなっているなら愚かな乙女たちのように、教会やあなたの牧師があなたの魂を保ってくれると思うようにならないで下さい。そして現状を悔 い改め、自分を謙り、心を探ってください。自分の魂に潜む全ての怒りや苦き根を神様が取り除く事を願い、自分の罪を告白し、その罪から離れて下さい。神に 今一度全てを頼るのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;　神の平安を得て、聖霊の証を内に持ってください。御父にもっと大きな御霊の祝福を願い、あなたの証となり、全ての導きとなるように招いてくださ い。私たちがイエス様の道に全く従うには、値を支払わなければなりませんが、同時に酬いもあるのです。キリストと共に立つ事は、祝福以外ほかにありませ ん。それに益して他の酬い（マタイ19：29）もありますが、この共に立つと言う祝福以外に何が私たちに必要でしょうか。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;使徒パウロが エルサレムで獄に繋がれた時、時の権力を持っている宗教指導者は彼を殺そうとしました。彼らは使徒パウロが聖所を汚し、偽りを伝播すると訴えました。彼の 命は危うく、ローマの兵士でさえ「パウロが彼らに引き裂かれる」と思ったほどです。だから、彼らはパウロを引きずり出し、城に監禁しました。翌晩、主はパ ウロにこんな事を仰いました。「喜びなさい。もっと問題が沢山おきる」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;イエス様に従う値は神の人の人生において明らかにされています。-私たちが主のようになりたいと思っているのであれば、その値も受け入れるべきで す。その値を耐えることはやがて喜びとなります。イエス様がどのような時も私たちと共に居られる事を知ることができるからです。その値を超えるイエスキリ ストの尊い臨在があなたの報いとして与えられることを皆さんは知るべきです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-7839910452518721798?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/7839910452518721798'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/7839910452518721798'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/10/blog-post.html' title='神様が思いがけないことを私におっしゃいました。'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-2013937305537321103</id><published>2010-09-14T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-09-23T04:25:24.881+09:00</updated><title type='text'>巧妙な戦士</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;何か私達に敵対することが起きると、神様の憐れみが私達の内に流れ込みます。一本の木が、強い嵐に吹き付けられるとどうなるか、想 像してみて下さい。猛風によって、根こそぎ飛んで行ってしまいそうになります。枝は折れ、葉は散ってしまいます。根は引きちぎられ、芽はもぎ取られます。 そして嵐が去った後その木は、絶望的な姿になってしまいます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;しかし、近づいてよく見てみましょう。同じ嵐によって、周りの地面が掘り起こされて、根が張りやすくなりました。その木は、水と栄養を確保するため の、新たな道を発見したのです。そして古く死んでいた枝は、捨て去られました。芽はもぎ取られてしまったかも知れませんが、すぐに新芽が元気に顔を出すで しょう。その木は嵐によって強くされ、目に見えない形で成長を遂げたのです。収穫の時になれば、その木は多くの実を結ぶでしょう。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;あなたは今、嵐の中にいらっしゃるかも知れません。猛風が吹き付け、あなたを激しく揺さぶるので、「もう倒れてしまうかも知れない」と思っておられ るかも知れません。愛する皆さん、慌てないで下さい。その様な嵐の中にあって、あなたは霊的な根をしっかり張ろうとしているのだと、気付いて下さい。あな たを砕き、罪に対する嘆き悲しみを増し、神様の義に対する飢えを強めようと、神様があなたを成長させておられるのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様はあなたを、戦いを恐れていながらも、巧妙で勇敢な十字架の戦士として整えておられるのです。あなたは時に、自分に失望してしまうことがあるか も知れませんが、主はあなたに対して、決して失望されません。事実、神様は望まれるならば、あなたを困難の中から簡単に抜き出すことがお出来になります。 しかし神様はそうなされません。なぜなら困難によって、あなたの内に、神様に対する飢え渇きが強められていると御存知だからです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ローマ人への手紙5章3節は、こう語っています、「苦難は忍耐を生み出します。」ここで使われている「生み出す」という言葉は、“完成する”という意味があります。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;第二コリント人への手紙4章17節に、「わたしたちの一時の軽い困難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」と記されています。ここで使われている「もたらす」という言葉は、ローマ人への手紙5章3節で使われているのと同じ言葉です。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-2013937305537321103?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/2013937305537321103'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/2013937305537321103'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/09/blog-post_14.html' title='巧妙な戦士'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-472990276381285972</id><published>2010-09-13T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-09-23T04:24:32.806+09:00</updated><title type='text'>霊的成長について、すべてのクリスチャンが知るべきこと</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。」（第二テサロニケ人への手紙1:3）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;パウロによる何と素晴らしい、テサロニケのクリスチャン達に対する賞賛でしょうか。ここでパウロが言っていることを、要約してみましょう。それは、 「キリストにある信仰と、お互いに対する愛、その両方において、あなたがたがどれだけ成長したかを見ることは、本当に素晴らしい。どこにいっても、私はあ なたがたの霊的成長を自慢しているのです。あなたがたのことを、ただ神様に感謝します」ということです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;この短い聖句の中で、パウロは私達に、愛と一致とにおいて成長しているキリストの体について、驚くべきイメージを与えてくれています。パウロが用い ている「大いなる成長」という言葉は、ギリシア語で「他を超えて、さらに成長する」という意味があります。個人的にも集団的にも、テサロニケの信者の信仰 と愛は、他の教会のそれを、はるかに超えていたのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;もちろんテサロニケのクリスチャン達は、イエス様が再び来られるまで、ただ自分達の信仰にしがみついているだけではありませんでした。彼らは学び、 動き、成長していたのです。そして彼らの人生が、その事実を証明しています。パウロによると、彼らの噂は、アジアの教会中に広まっていたということです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;察するに、彼らが聞いていたメッセージは、さらに深くキリストと歩みたいという思いを、彼らの内に起こさせていたのでしょう。それは彼らの肉の野望 を溶かし、キリストらしくない習慣に気付かせました。そして彼らの内におられる聖霊が、民族や人種の壁を打ち壊してくださいました。彼らは、金持ちも貧し い人も、教育を受けた人もそうでない人も、どんな人でも受け入れる術を発見しました。そして愛の内に、お互いのことを思いやり合ったのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;もしあなたが神様の御言葉によって養われるなら、人生において必ず継続して、霊的に成長していくはずです。そしてそれは自動的に起こるものなのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私の教会に集われる方が全員、テサロニケの教会についてパウロが語った様な「大いなる成長」をしているか、明言出来ません。しかし、それは多くの方 について当てはまることだ、と言うことが出来ます。なぜなら、油注がれた真の神様の御言葉がメッセージとして語られるなら、それは必ず成長を促すからで す。また使徒パウロは、真の御言葉の乳を望む者は、必ず成長すると言っています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;パウロは私達の霊の成長が、聖霊の働きであると説明しています。聖霊は常に働いておられ、私達を栄光から栄光へと変えておられる、とパウロは言いま す。御霊は絶えず私達の思いを新たにし、肉を正し、私達の内なる人に純粋さをもたらそうとしておられます。また私達の心の内で、怒り、苦い思い、恨み等、 すべての悪しき思いを消し去るべく、働いておられます。そして御霊は、私達の内に親切、柔和、お互いを許す心を実らせてくださいます。聖霊は、私達をキリ ストの内に、成長させてくださるのです。私達が主の御名にふさわしい言動を行うよう、教えてくださっているのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;さらにパウロは、こう私達に勧めています。「だれでも、自分をよく確かめなさい。」（第一コリント人への手紙11:28）ここで使われている“確か める”という言葉は、ギリシア語で「綿密に検査する、試みる」という意味があります。パウロは「自分が神様の御言葉通り歩めているか、試してみなさい」と 言っているのです。私達は常に「変わっているだろうか。もっと愛と柔和とに満ちることが出来ているだろうか。家族や友人を、尊敬をもって接することが出来 ているだろうか。私の会話が、もっと正しいものとなっているだろうか」と自問する必要があるのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-472990276381285972?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/472990276381285972'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/472990276381285972'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/09/blog-post_13.html' title='霊的成長について、すべてのクリスチャンが知るべきこと'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-2460132711244503725</id><published>2010-09-10T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-09-23T04:22:48.825+09:00</updated><title type='text'>目に見えない成長</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;クリスチャンの中には、自分の霊的成長を語ることの出来る人達がいます。そしてあなた自身も、彼らの人生にはっきりとした変化を見ることが出来ます。その人達は、いかに聖霊が彼らの敵を打ち倒されたかを証しし、あなたも彼らの勝利を共に祝って喜びます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;しかしこの様なクリスチャンは、特例です。ほとんどのクリスチャンは、自分達の人生に霊的な成長を見ることが出来ません。彼らは祈り、聖書を読み、心から主を求めます。霊的な成長を妨げるものは、何もないのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;しかし彼らは、自分達でその成長を見ることが出来ないのです。私がこのタイプのクリスチャンの一例です。私は、キリストの義の内に歩んでいるという 自覚がありますが、成長していると感じたことがありません。事実、時折私はクリスチャンらしかぬ言動をしてしまっては、自分を責めてしまいます。その様な 時、「私はクリスチャンになって何年も経つのに、どうして学ぶことが出来ないのだろう」と思ってしまいます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;おそらくテサロニケのクリスチャン達は、パウロが彼らを賞賛した時、非常に驚いたことと思います。（第二テサロニケ人への手紙1:3参照）彼らはきっと「私が大いに成長しているって？パウロは寝ぼけているに違いない」と思ったことでしょう。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;しかしパウロは、霊の成長が隠され、秘めた所で行われるもとだと知っていました。聖書はそれを、観察することの出来ない、花や木の成長と同じ様なも のだ、と言っています。「露のようにわたしはイスラエルに臨み、彼はゆりのように花咲き、レバノンの杉のように根を張る。その若枝は広がり、オリーブのよ うに美しく、レバノンの杉のように香る。」（ホセア書14:6〜7）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様は私達に、こう語っておられます。「ゆりを見てごらんなさい。その成長を目で見てみなさい。その日の終わりが来ても、肉眼では何の変化も見られ ないはずだ。しかし、わたしが露によって、毎朝そのゆりに水をやっている。だからそれは必ず成長するのだ」と。これと同じことが、霊の成長にも言えます。 それは肉眼で、見ることは出来ません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;人々の中には、救われてから、過去の罪にまったく左右されない方がいます。その人達は、「イエス様を受け入れた瞬間から、主が誘惑を取り去ってくだ さいました。その時から完全に私は、その罪から解放されています」と、証しします。私は、多くの元薬物依存症の人達が、この様な経験をしているのを知って います。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;しかし大半のクリスチャンにとって、これは彼らの証しとは異なります。イエス様を受け入れてから何年経っても、昔の悪習慣が戻ってきます。それは、 彼ら自身も忌み嫌い、二度と欲しくも見たくもないと思っていることです。しかしどれ程苦しんでも、最後の思いは消え去りません。時が経つにつれ、彼らは失 望してしまいます。彼らの魂は、「主よ、いつまで苦しめばなりませんか。いつになったら、この鎖は解き放たれますか」と叫びます。さらに悪魔がいつしか やってきて、「そのことから解放されることは不可能だ。こんな状況下にいて、お前が霊的に成長することなど出来ない」と語ります。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;皆さん、勇気を出して下さい。良い知らせがあります。あなたはこれらの苦しみにあっても、その最中で成長しておられるのです。実際、あなたはその苦しみ故に、成長しておられるのかも知れません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;安心して下さい。もしあなたの内に、神様に対する畏れがあるなら、あなたは嵐の中から、より力強くなって、出て来ることが出来るでしょう。あなたは 敵と戦う時に、神様の力と憐れみの全てを呼び求める訓練をしているのです。そして弱さを覚えていたとしても、その力と憐れみが、あなたを強めてくださいま す。第一に、あなたは切羽詰まって祈ることを覚えます。第二に、あなたのプライドは、完全にはがされてしまいます。ですから実は嵐によって、あなたの人生 のすべての面に、霊的な防御壁が立てられるのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-2460132711244503725?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/2460132711244503725'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/2460132711244503725'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/09/blog-post_10.html' title='目に見えない成長'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-7671543161522788353</id><published>2010-09-09T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-09-23T04:22:03.425+09:00</updated><title type='text'>神様の愛を知り、信じ、信頼し続けなさい</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;霊にあって陶酔し、困難にも試練にも遭わずにいるのなら、誰でも喜び続けることが出来ます。しかし神様は、どんな時でも、特に試みにある時にこそ、私達が神様の愛の内に留まる様、望んでおられるのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;使徒ヨハネは、どの様に神様の愛に留まればよいのかを、とても明白に語ってくれています。「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信 じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」（第一ヨハネによる手紙4:16）一言で言え ば、もし私達が神様の愛に留まるなら、私達は神様の内に留まることが出来るということです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ここで使われている“留まる”という言葉は、「待ち望む状態にいる」という意味があります。言い換えれば、神様は私達に、神様の愛が日々新たにされ るということを、待ち望んで欲しいということです。私達は毎日、神様が私達を愛し、そして愛し続けてくださるのだ、ということを知りながら生きる必要があ ります。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;現実的には、私達のほとんどが、自分の感情が上下するのに合わせて、神様の愛に近づいたり遠ざかったりしてしまいます。何か良いことをした時だけ、 神様の愛の内にいて良いのだと感じてしまいます。しかし私達が試練や困難にある時、また神様の御心に反したことをしてしまった時は、神様の愛を疑ってしま います。しかしその様な時こそ、神様の愛に頼るべき時なのです。これらの聖句を通して、神様は私達にこう語られています。「あなたがどの様な試練に直面し ようと、あなたに対するわたしの愛を、決して疑ってはなりません。もし進んでわたしの愛に信頼を置くなら、わたしがあなたに望む、その通りの生き方をして いることになるのです」と。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;エレミヤ書31章は、素晴らしい神様の愛を記しています。イスラエルは背信の時代にありました。人々は肥え太り、富に溢れ、ありとあらゆる悪に手を染めていました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;すると突然、彼らの欲が苦みに変わりました。彼らは、五感を満足させることに対する喜びを失ってしまったのです。彼らは叫びました、「主よ、私達は 道を失ってしまいました。方向転換をするために、あなたが必要です」と。神様は、彼らのこの悔い改めの叫びを聞かれ、愛に溢れた神様の心が、彼らの元へと 飛んで行きました。神様は民を、杖と教えとによって懲らしめられました。そしてイスラエルは「あなたはわたしを懲らしめられました。どうかわたしを立ち帰 らせてください。わたしは立ち帰ります。わたしは背きましたが、後悔し、思い知らされ、悔い改めました」と叫びました。（エレミヤ書31:18〜19より 抜粋）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ここでの神様の御言葉に、耳を傾けて下さい。「彼を退けるたびに、わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り、わたしは彼を憐れまずにはいられない。」（20節）「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。」（3節）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;これこそ、神様の愛について、あなたが知るべきことです。神様はその民に、「わたしはあなたを懲らしめ、厳しい真実の言葉を語らねばならなかった。 しかしそれでもあなたは、わたしが注いだ恵みと慈しみにも関わらず、わたしに対して罪を犯した。わたしの愛に背き、わたしを拒絶した。それでもなお、わた しの憐れみに満ちた心は、あなたに対して動き、苦しみにあるあなたを顧みる。そしてあなたに憐れみを注ぐ。わたしはあなたを赦し、完全に癒す」と言われる のです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-7671543161522788353?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/7671543161522788353'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/7671543161522788353'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/09/blog-post_09.html' title='神様の愛を知り、信じ、信頼し続けなさい'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-6763535159481497918</id><published>2010-09-08T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-09-23T04:21:25.766+09:00</updated><title type='text'>栄光のうちに歩む</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;困難の時を受け入れ難くさせている理由の一つは、神様の栄光に関する理解にあります。あなたは「その様なことは非常に崇高で、神学 者に任せた方が良い題材だ」と思われるかも知れません。しかし神様の栄光は、すべての信者にとって、非常にリアルで実践的な価値を持っていると、私は確信 しています。それを理解することによって、人生に打ち勝つ扉の鍵を開け放つことが出来ます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様の栄光は、主の存在と神性を現すものです。旧約聖書でモーセが神様の栄光を垣間見たことを、覚えておられるかも知れません。それまで、主は「わ たしはある」という言葉の他、御自身について何も語られずにモーセを遣わされました。しかしモーセは、神様についてもっと知りたいと願いました。ですから 彼は、「主よ、あなたの栄光を見させて下さい」と主に請うたのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様はモーセを岩の隙間に隠すことで、この要求に応えました。そして聖書は、神様がモーセに御自身の栄光のすべてを現された、と記しています。（出 エジプト記34:6〜7参照）神様は私達に、御自身の人類に対する偉大なその愛を通して、その栄光を知って欲しいと望んでおられます。そしてそれこそ、神 様がモーセに現された方法です。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;この箇所は、主がどの様な方であるか、私達が理解する上での要となる箇所だと思います。神様の栄光について考える時、私達はよく、神様の尊厳や威 光、力や権力など、神様が民に対して現されているものを思い浮かべます。これらのすべては、神様の栄光を見た結果と言えるでしょう。しかし、それらは神様 が私達に知っていて欲しいと望まれる、神様の栄光の姿ではないのです。主は、私達にその愛を示し、私達を赦し、憐れみを注ぎ、御自身と和解させることを、 永遠に待ち望んでおられるのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様の栄光の現れは、それを受ける者や、その理解を祈り求める者に対して、非常に強い影響をもたらします。その時までモーセは、主を「律法と怒りの 神」としてしか見ていませんでした。彼は主の臨在にあって畏れに身を震わせ、イスラエルのために主に泣き叫び、請い求めました。これが彼にとっての、主と の関係の土台となっていました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;しかし神様の栄光を垣間見た今、モーセの主に対する恐れは消え去りました。その代わり、主を礼拝する様に、心動かされたのです。「モーセは急いで地 にひざまずき、ひれ伏した。」（出エジプト記34:8）彼は神様が、ただ彼を震え上がらせる恐ろしい雷や稲妻の様な方ではないと知ったのです。実際はその 反対で、神様は愛であり、その神性は憐れみと優しさに満ちたものだったと気付いたのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ここで聖書が示している、素晴らしい真理を理解することが出来ますか。真の礼拝は、何の見返りも顧みない、神様の私達への愛によって揺り動かされた 心から、湧き上がってくるものなのです。それは神様が御自身を、その良さを、憐れみを、赦しを、私達に与えてくださるのだ、という悟りに基づいています。 ですからもし私達が神様を、霊と真とによって礼拝するのなら、私達の礼拝は、この素晴らしい真実に基づくものでなければなりません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様の栄光を受け取ったなら、私達の礼拝は絶対に変わります。何故でしょうか。それは神様の栄光を見ることで、私達の生き方が変わるからです。それ は私達の態度や行動に影響をもたらし、私達を「栄光から栄光」へと造り変えて、さらに主に似る者としてくださいます。神様の愛と憐れみが現されるその度 に、それは私達に、超自然的な変化をもたらすのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-6763535159481497918?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6763535159481497918'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6763535159481497918'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/09/blog-post_08.html' title='栄光のうちに歩む'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-3608756272086790452</id><published>2010-09-07T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-09-23T04:19:37.094+09:00</updated><title type='text'>キリストを通して与えられる神の愛</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ヨハネによると、神様の愛のすべてがイエス様の内に宿っているということです。ヨハネはこう記しています。「わたしたちは皆、この 方の満ち溢れる豊かさの中から受けた。」（ヨハネによる福音書1:16）ではどの様にして、私達は御父の愛を受けたのでしょう。それは、キリストの内にい ることによってです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;あなたは、キリストを通して神様の愛が与えられると知ることが、なぜそんなに大切なのだろう、と思われるかも知れません。それが私達の日常生活と、どう関わりがあるのだろうか、と。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;どうやって神様の愛が、私達の日々の生活に影響をもたらすのでしょうか。その答えは、キリストの内に見つけなければなりません。なぜならイエス様は すでに、御父が御子を愛された様に、私達をも愛してくださる、と語ってくださいました。ですから、御父の愛がどの様に、イエス様の生活に影響をもたらして いたか、を見れば良いということです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」（第一ヨハネによる手紙3:16） ここにイエス様の内にある、神様の愛の実が見られます。イエス様は御自身を、他の者のためのいけにえとして献げられたのです。この聖句の後半部分は、私達 の人生における神様の愛の目的を記しています。「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」神様の愛は、私達も自分の体を生けるいけにえと して献げる様、導いておられるのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;兄弟・姉妹のために、本当に命を捨てるということがどういうことか、考えたことがありますか。ヨハネは、異国の地において殉教者になることを、話し ているのではありません。臓器提供者となることを、話している訳でもありません。また死刑囚の代わりに、刑を受けることを話している訳でもありません。キ リストだけが、その様ないけにえを献げられるのです。そうではなく、兄弟・姉妹に命と希望を与えられるクリスチャンとは、死んでいる者だけです。それはこ の世に、すなわち、プライドや野望等、自分に完全に死んだ僕ということです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;この“死んだ”クリスチャンは、聖霊がその人の魂の在庫確認をすることを許している人です。その人は自分の心に残っている、汚いもの、神様のもので ないものを見ます。そして神様の御元に行き、「主よ、私を焼き尽くして下さい。すべて取り去って下さい」と、叫ぶのです。その人はキリストの血潮によって 聖められなければ、他の兄弟・姉妹のために命を捨てることが出来ないと知っているのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-3608756272086790452?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/3608756272086790452'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/3608756272086790452'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/09/blog-post_07.html' title='キリストを通して与えられる神の愛'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-1364516862658109050</id><published>2010-09-06T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-09-23T04:19:01.317+09:00</updated><title type='text'>神様の愛</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;最近になって私は、聖霊により揺り動かされ、この聖句へと導かれました。「しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよ りどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れ みを待ち望みなさい。」（ユダによる手紙20〜21）この箇所を読みながら、私は御霊がこう囁かれるのを聞きました。「ディビッド、あなたはわたしの完全 なる喜びと愛を、まだ経験していない。神学的にはよく理解しているが、その快感とわたしの愛のうちに留まることの平安を体験していない。今まであなたが経 験してきたものは、足首までのもの。しかし実際は、あなたの目の前に、自由に泳ぐことの出来る、わたしの愛の大海原が広がっているのだ」と。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;聖書は、神様の愛についての真実で満ちています。しかし時折私は、神様がなぜ自分の様な者を愛されるだろうか、と思ってしまいます。決して神様の愛 を疑っている訳ではありません。それは逆に私自身の問題で、神様の私に対する愛を完全に知り尽くし、信じ尽くしていないのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達が神様を信じる時、神様の愛の一部が明らかにされます。もしクリスチャンに、神様の愛について何を知っているか尋ねるなら、その多くは「私のた めに御子を遣わし、死んでくださったことで、神様の愛が分かります」と答えるでしょう。ヨハネによる福音書の3章16節を引用するでしょう。「神は、その 独り子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;この真実を噛み締める瞬間とは、本当に素晴らしいものです。あなたは突然、「神様は、私が迷子で他人としてさまよっていた時から、私を愛していてく ださったのだ。そして私のために、御自身の独り子をいけにえとされたことで、私への愛を示してくださったのだ」とことを悟ります。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;しかし、一握りのクリスチャンだけが、神様の愛に留まることを学びます。主に対する愛について、少しは知っていますが、神様の私達への愛を追求する ことをあまりしません。事実、もしクリスチャン達に「神様の愛が書かれている、聖書の箇所を教えて下さい」と尋ねても、おそらく数カ所しか思い浮かべるこ とが出来ないでしょう。しかし、神様の愛を知ることこそ、人生に打ち勝つ秘訣なのです。多くの人は、神様の愛を知らないために、霊的に冷めきり怠惰になっ てしまいます。彼らは、サタンに対する最大の武器が、聖霊の解き明かしにより、神様の愛を完全に知ることだと知らないのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;イエス様は地上での最後の祈りの中で、こう言われました。「父よ、あなたは天地創造の前からわたしを愛してくださいました。」（ヨハネによる福音書 17:24）これは何と素晴らしいことでしょう。キリストは創造の前より、父によってひたすらに愛されていたのです。  そしてイエス様は、次の偉大な祈りを捧げました。「父よ、あなたが私を愛しておられたように、彼らをも愛しておられます。」（21、23節）またこの様に も祈られました。「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるように。」（26節）キリストは「父よ、あなたがわたしを愛された ように、わたしの体の内に集める者達を、あなたが愛してくださると知っています」と言っておられるのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ここに秘められたメッセージは、御父は永遠の昔よりイエス様を愛しておられ、私達をも同じ様に愛されたということです。事実、御父の永遠の思いの中 に、考えとして人間のことが浮かんでいた頃から、主はすでに私達の詳細を知り、救いの計画を立てておられたのです。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛 して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」（エペソ人への手紙1:4）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様はどれ程長い間、あなたを愛してこられたのでしょうか。神様が存在されてからずっとです。なぜなら、神は愛だからです。愛することこそ、神様の 性質なのです。神様は、あなたを罪人として愛されました。神様は、あなたが胎にいる時から愛されました。神様は、世界が生まれる前からあなたを愛されまし た。あなたに対する神様の愛は、始まりがありません。そしてそれには終わりもないのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様はいつ、あなたを愛することを止められるでしょうか。それは神様が、御子を愛されるのを止められる時です。そしてそんなことは、絶対にあり得ま せん。キリストはこう語っておられます。「イエスは、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」（ヨハネによる福音書13:1）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-1364516862658109050?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/1364516862658109050'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/1364516862658109050'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/09/blog-post_06.html' title='神様の愛'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-2854855816763756341</id><published>2010-09-03T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-09-03T03:00:01.055+09:00</updated><title type='text'>神様の愛に留まりなさい</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;数年前、神様は私の心の内に、ロングアイランドで、少年の家を始めなさいという思いを植えられました。この働きに関して私は、強い 主の導きを感じました。しかし、そのたった18ヶ月後に、州が少年の家運営に関する厳しい制令を下し、私達はその家を閉鎖するしかありませんでした。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;その短い運営期間中、私達は4人の少年をお世話しました。少年の家が閉鎖されてから、彼らとは音信不通になっていました。私はよく、この少年の家事 業のことを思い出しては、それが最大の失敗であったと思っていました。30年以上もの間、なぜ神様が私にその事業を進めることを許されたのか、分からない でいました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;しかし最近になって、私はクリフォードという名前の男性から、一通の手紙を受け取りました。その手紙の中で、彼は次の様なことを語ってくれました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「ディビッド兄弟、私はロングアイランドの少年の家に送られた、4人の少年の一人です。そこでの寮母・父さん達は、とても親切で優しい方々でした。 私達に聖書を教え、教会へ連れて行って下さいました。ある日、彼らは私達を、リバイバル集会が行われている教会へ連れ行って下さいました。その時の私は、 非常に苦々しい思いで一杯でした。しかしその教会で、聖霊様が私の心に触れ始められたのです。私はメッセンジャーが『イエス様はあなたを愛しています』と 言うのを耳にしました。長年の痛み、迷い、絶望感が露にされました。私はひざまずき、祈りました。それは35年前のことです。今、神様は私を説教者して召 され、フルタイムの奉仕者となるよう、導いてくださっています。この感謝の気持ちは、この間ずっと、私の中で温められていました。私の面倒を見て下さっ て、本当にありがとうございました。神様の愛とは何か、知ることが出来ました。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;この手紙は、私達がキリストのために行うことは全て、決して無駄になることはないのだと証明してくれます。あの少年の家は、失敗ではなかったのです。なぜなら一人の失われた、さまようユダヤ人の少年が、神様の愛の意味を見つけることが出来たからです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-2854855816763756341?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/2854855816763756341'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/2854855816763756341'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/09/blog-post_03.html' title='神様の愛に留まりなさい'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-7102954231958408860</id><published>2010-09-02T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-09-02T03:00:02.882+09:00</updated><title type='text'>サタンの巧みな業</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「アッシリアの王は、ラブ・シャケを大軍と共にヒゼキヤ王のいるエルサレムに遣わした。」（列王記下18:17）アッシリアは、今 日の「繁栄への手引き」を象徴しています。悪魔はあなたの城壁の周りを、力強い者、美しい者、またすべてにおいて成功を収めているように見える者を率い て、練り歩きます。その者たちを目にする時、あなたは囚人であるかのように意気消沈してしまします。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;罪にある者からの最初の罠とは、信者の完全なる主への信頼を疑うことです。王の遣いであったラブ・シャケという名前は、「酔いつぶれた遣い」という 意味があります。彼は主を信じる人々を嘲りました。（列王記下18:19〜20参照）彼の言い分は、「神はお前たちをこの混乱から救い出さない。お前たち はただ、滅びるだけだ。大変な危機にあっても、お前達の信仰など、何の役にも立ちやしない」ということでした。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;サタンは、さらにこれに一ひねり加えました。サタンはあなたに、神様がこれらすべての困難の背後にいるのだと囁きます。アッシリアの使者は、こう叫 びました。「わたしは今、主とかかわりなくこの所を滅ぼしに来たのだろうか。主がわたしに、『この地に向かって攻め上り、これを滅ぼせ』とお命じになった のだ」と。（列王記下18:25）サタンは、神様があなたに仕返しをし、あなたに怒りを覚えていらっしゃると信じ込ませたいのです。これこそ、サタンの狡 猾な偽りです。サタンは神様があなたを見捨て、困難と悲しみの中に突き落とされたのだと、あなたに信じ込ませようとしているのです。すべての問題は、あな たの過去の罪に対する神様からの懲らしめなのだと、信じ込ませたいのです。それを信じてはなりません。それはあなたを滅ぼそうとする、サタンの企みです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達の主は、救い主であり、守り主です。イザヤはこう語っています、救い主が来られるのは、「シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶ らせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた、正義の樫の木と呼ばれる」と。（イ ザヤ書61:3）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;愛する聖徒の皆さん、あなたは滅びに向かってなどいません。あなたの心が本当に主に向けられているからこそ、あなたは攻撃を受け、敵の偽りに惑わされているだけなのです。サタンは神様へのあなたの信仰を、打ち砕こうとしているのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-7102954231958408860?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/7102954231958408860'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/7102954231958408860'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/09/blog-post_02.html' title='サタンの巧みな業'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-2262621827498562931</id><published>2010-09-01T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-09-01T03:00:00.113+09:00</updated><title type='text'>戦いへの招き</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍してくる敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、 まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち 物を一切捨てなければ、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」（ルカによる福音書14:31〜33）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;エノクはこう、預言しました。「見よ、主は数知れない聖なる者たちを引き連れて来られる。」（ユダの手紙14）聖書は、私達が主のための王や祭司で あり、サタンとの戦いへ行く何十万もの人々を率いるのだと記しています。サタンが私達に敵対するのは、私達をひたすらに憎んでいるからです。（黙示録 12:17参照）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;これから来ることについて、私達は準備を整えねばなりません。霊の戦いが起こり、神様の民に対して、悪の洪水が押し寄せることを覚悟しなければなり ません。もし私達が、キリストを知る決意を固めるなら、キリストにあって、私達は絶対に打ち負かされることがないのだと、知る必要があります。聖書はこの 様に記しています。「あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。」（第一ヨハネの手紙4:4）神様は私達が、敵のどの様な力にも必ず 勝利すると、保証してくださっています。すべての天の大軍が、私達のために戦ってくださっているからです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様がさらに聖霊を私達に与え、全地と地獄の群れに対して、私達一人ひとりがこう叫ぶことの出来るように祈ります。「だれが、キリストの愛からわた したちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。しかし、これらのすべてのことにおいて、わたしたちは、わ たしたちを愛してくださる方によって、輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものの、現在のものも、未来の ものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わた したちを引き離すことはできないのです。」（ローマ人への手紙8:35、37〜39）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;これこそ、イエス様を飢え求める者の上げる、ときの声なのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様にあるすべての男女は、キリストに対しての生けるいけにえとなろうと決心した時から、地獄の悪しき企みの標的となります。信仰による聖い歩みをしようと心に決めている者に対して、地獄の群れが放たれます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;あなたが、サタンの偽りに満ちた計画を危ぶませるものとなったため、サタンはあなたを攻撃し、その道に障害物を置くでしょう。あなたは不戦敗し、諦め、いい加減で、実を結ばずにさまよう者となる道を選択することが出来ます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;でも私は、悪魔の計画に反旗を翻し、信仰によって立ち上がり、戦うことを選びます。サタンは完全に主に信頼をおく者を、押さえつけておくことが出来ないのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-2262621827498562931?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/2262621827498562931'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/2262621827498562931'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/09/blog-post.html' title='戦いへの招き'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-1280314659561673389</id><published>2010-08-31T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-08-31T05:47:04.694+09:00</updated><title type='text'>完成させること</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしない と、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することは出来なかった』と言うだろう。」（ルカによる福 音書14:28〜30）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;キリストは、彼に従う者の多くが、完成するに必要なものを持っていないことを知っていました。彼らが背を向け、レースを完走することがないと知って いました。キリストを知り、成熟した弟子となり、もっとキリストに似る者とされようという、完全なる志をもって始めながら、途中で離れて行ってしまうこと ほど、信者にとって悲劇的なことはありません。その様な人は、最初に費用を計算しなかったので、土台を築きながらも完成出来なかった人です。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;実際にレースを完走した人達と会うことは、何と素晴らしいことでしょうか。これらの信者は、キリストの知恵と知識に満ちています。彼らは日々、瞬間 毎に、変えられています。パウロは彼らに、励ましの言葉を述べています。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄 光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」（第二コリント人への手紙3:18）彼らが望むのは天国では なく、栄光に満ちたキリストの御姿なのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;このディボーションを読まれておられる方の中には、信仰の歩みにおいて一時休止していたり、後戻りしたりしておられる方がおられるかも知れません。 それは小さなステップの様に見えるかも知れませんが、神様の愛から大きく離れる原因になってしまいます。もしこれがあなたに当てはまることでしたら、聖霊 があなたを引き戻そうとされておられることに、気づいてください。悔い改め、自分に死に、完全に委ねることへと。そしてこの瞬間、時というものが重要な役 割を果たします。もしキリストを知りたいと思われるなら、今、そうして下さい。そして、完成させて下さい。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-1280314659561673389?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/1280314659561673389'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/1280314659561673389'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/08/blog-post_31.html' title='完成させること'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-7950493545730046687</id><published>2010-08-30T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-08-31T05:46:34.128+09:00</updated><title type='text'>愛と憎しみ</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」（ルカによる福音書14:26）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ギリシア語で「憎む」とは、“比較的に言って、少しの愛を注ぐ”という意味があります。イエス様は、この世のものいかなるものが、主への愛とは比較出来なくなるほど、 私達にイエス様だけを絶対的に強く愛するよう、呼びかけておられるのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;考えてみて下さい。主の麗しい臨在に入り、何も求めなくてよいことが、どういうことか、私達に想像出来るでしょうか。ただ感謝の意から主に手を差し伸べ、主から完全に愛されるということが、想像出来るでしょうか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達は祈りにおいて、自己中心的かつ自分勝手になってしまいました。「これを下さい、来て下さい、祝福して下さい、用いて下さい、守って下さい」等 々と。これらの祈りはすべて、聖書に基づくものかも知れませんが、それでもその焦点は、私達に当てられています。主に対する働きでさえ、自分勝手なものに なっています。主への働きが祝福され、自分の信仰が本物であると証明される様、望んでいるからです。主は、私達がどれほど主のために働くかより、主にあっ てどの様な者にされていくかに興味を抱かれています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;これを読んでいる方の中で、ミニストリーの扉が閉ざされ、心を痛めておられる方がいらっしゃるかも知れません。自分は物置にしまわれてしまった、と 感じておられるかも知れません。またある方は、必要を覚えている宣教地で働くことで、さらに神様の役に立てると思っておられるかも知れません。しかし、隠 れた場所で祈ることで神様に愛を示すこと程、神様の役に立つことはないと、私は思います。私達が主を求める時、また神様を知るために御言葉を探り続ける 時、私達は一番役に立っているのです。どんな働きをするよりも、ただ神様と二人っきりで交わることが、神様を祝福し喜ばせます。神様が私達に働きを委ねよ うとされる時は、それが近くであっても遠くであっても、神様との交わりから自然に生まれます。神様にとって、私達が世界を勝ち得るよりも、私達自身の心が 完全に神様に向けられていることの方が、もっと大切なのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;魂を得る働きを見下している訳ではなく、すべての霊的に祝福された宣教は、神様との交わりから生まれると、言いたいのです。常に祈りにあって主と共にいる証し者は、知恵と、絶好の機会と、神様の御心を行うための力が与えられています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-7950493545730046687?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/7950493545730046687'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/7950493545730046687'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/08/blog-post_30.html' title='愛と憎しみ'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-1175447258013135842</id><published>2010-08-27T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-08-27T03:00:02.898+09:00</updated><title type='text'>主の食卓</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ある古いゴスペルソングが、私にとって、非常に奥深い意味を持っています。その歌詞は「イエス様は食卓を備えられている。それは神様の聖徒らが食する所。選ばれた神の人々が来て楽しむ。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;何て素晴らしい考えでしょう。主は従う者達に、天国で食卓を備えてくださっているのです。イエス様は、弟子達にこう言われました。「わたしの父がわ たしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、私の国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座 に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」（ルカによる福音書22:29〜30）主への飢えを覚えるとは、信仰によって、私達もこの食事の座に 着くということです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;使徒パウロが「過越祭を祝い続けようではありませんか」（第一コリント人への手紙  5:8）と命じるのは、私達のために、天国においてキリストと共に、王の食事の席が備えられているということを、私達が明確に理解するためです。パウロは こう言っています、「必ず出席しなさい。あなたの席が空席になっているとは、言わせてはなりません」と。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;しかし残念なのは、イエス・キリストの教会が、この「祭りを祝い続ける」ということの意味を理解していないということです。私達は、キリストによっ て引き上げられた後、御国で彼と共に座することの名誉と素晴らしさを、理解することが出来ません。私達は、食卓に着くことで、精一杯になっています。正餐 よりも、仕えることで霊的な喜びを得るよう、私達は勘違いを犯してしまっています。私達は、もっともっと主のために働く一方で、もっともっと、主御自身を 知らなくなっています。主のために、私達の心も体も酷使しながら、ほとんど祭りをお祝いしません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;天国において主が、その僕や、牧師や、羊飼い達から、他のことよりもただ一つ求められることとは、主の食卓に共に座することです。この食卓は、霊的 な交わりを持つためのもので、毎日備えられています。「祭りをお祝いする」とは、食べ物と、力と、知恵と、交わりを求めて、主の元に継続的にやって来ると いうことです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;十字架の後、すべての霊的な偉人達には、一つの共通点がありました。彼らは主の食卓の座を畏れたのです。彼らはキリストの偉大さに、我を失っていました。彼らは皆、亡くなる時に、自分達がいかに、まだキリストとその生涯のことをよく知らないでいるかを嘆きました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達が今日描いている、キリストのビジョンは、あまりに小さく制限されています。この堕落した時代の、複雑で増加するばかりの問題に打ち勝つために は、偉大さを語る福音が必要です。神様は、ただこの世の問題を解決されるだけではありません。神様の偉大さの内にあって、それらの問題は一飲みにされてし まいます。キリストの偉大さをはっきり持つ人は、どんな問題も、悪魔も、この世の力も、恐れる必要がありません。その人は、いかにキリストが、そのどれよ りも偉大であるかを知っているからです。もし私達がこの様に、キリストの偉大さについての理解を抱くなら、すなわち、それがいかに制限なく、豊かで、莫大 であるかを知るならば、私達はもう二度と、人生の問題に心を失うことがないでしょう。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;パウロは、私達の良き見本です。彼はキリストの啓示を、ただただ深めようと決意していました。事実、彼がキリストについて知っていたことはすべて、 啓示から来ました。それらは彼が、主の食卓に座する時に与えられ、聖霊によって明らかにされたのです。思い出して下さい、彼がエルサレムにいる弟子達を訪 ねていったのは、改心した3年後のことでした。そして彼は、弟子達とたった15日間一緒にいただけで、すぐに宣教の旅に出て行きました。後にパウロはこう 語っています、「秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。」（エペソ人への手紙3:3）聖霊は、神様の深く隠された秘密を御存知です。パウ ロは恵みの賜物によって、「キリストの計り知れない富」（エペソ人への手紙3:8）について理解し、その福音を語り告げることが出来る様、常に祈り求めて いました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;真実の言葉を見つけるために、様々な矛盾する声をかき分けるだけでは満足出来なくなった信者を、主は探しておられます。深く、個人的な交わりから来る主の啓示を、私達が求めるよう、主は願っておられます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-1175447258013135842?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/1175447258013135842'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/1175447258013135842'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/08/blog-post_27.html' title='主の食卓'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-1327771912292385800</id><published>2010-08-26T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-08-26T03:00:00.873+09:00</updated><title type='text'>信仰の戦場から</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;パウロがエルサレムに行くと決めたのは、そこでリバイバルが起きていたからではありません。彼は失望した宣教師が、神様からの啓示を求めてやって来 る状況とは違います。彼はエルサレムに行く理由を、こう明言しています。「わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。エルサレムに上ったの は、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、話すためでした。」（ガラテヤ人への手紙2:1〜2より抜粋  ）パウロは、神様が御自分の民に示したいと願っていた奥義を証しするために、エルサレムに向かったのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;この信仰の人は、個人的に栄光に輝くキリストの啓示を体験しました。彼が宣べ伝えていた教義は、独り部屋に閉じこもって、本や解説書を読むことで学 んだものではありません。彼は独り神学的な真実を瞑想することにふけり「いつか私の研究の成果が、未来の世代の人々に読まれるのだ」と夢見る哲学者ではあ りませんでした。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;どうやって、またどこからパウロが彼の手紙を執筆していたか、お伝えしましょう。彼は暗い、湿った監獄から手紙を書いていたのです。背中に鞭打たれ、血を流した後にこれらの手紙を書いたのです。また船が難破し、海から這い上がって来た後に、これらの手紙を書いたのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;パウロは、彼が人々に教えていたことはすべて、信仰の戦場から来たのだという自覚がありました。そして直面していた苦しみのすべては、福音のためな のだと考え、それらを喜んだのです。彼はこう言いました。「これでようやく、難破した経験のある船員に対して、また希望もなく監獄されている収容者に対し て、死の危機に瀕したことのある人に対して、権威をもって宣教出来る。聞く耳のある者が主の真実を聞くことの出来るよう、神様の御霊が、私を経験豊富なベ テラン兵士としてくださったのです」と。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様はあなたをサタンの手に引き渡されたのではありません。それどころか、神様は御霊を通して、あなたの内で目に見えない働きをするために、あなたが試練を経験することを、許されているのです。キリストの栄光が、あなたの内で永遠に形成されているのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;誰か他の人や、他のものによって、自分の真の霊性を磨くことは出来ません。神様の栄光を経験するには、あなたが今いるその場所で、それが良くても悪くても、その環境のままで、栄光を経験する必要があるのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;パウロの霊の強さに関する一番の秘密とは、彼がいかにどんな状況をも不満をもらすことなく受け入れたか、ということです。彼はこう記しています。「わたしは自分のおかれた境遇に満足することを習い覚えたのです。」（フィリピ人への手紙4:11）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ここで使われている「満足する」とは、ギリシア語で“攻撃をかわす”という意味があります。パウロは「私は自分をひどい環境から救い出そうとは思い ません。神様に、『私を救い出してください』ともお願いしません。反対に、私はどんな境遇をも受け入れます。経験から言って、それらはすべて、主が永遠の ものを私の内で実らせておられるからだと知っているからです」と言っているのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。」（第一コリント人への手紙10:13）パウロがここで使って いる「耐える」という言葉は、私達の境遇が変わることのないことを示唆しています。ここでのポイントは、与えられた環境下で、いかに私達が耐えるか、とい うことです。それは何故でしょうか。神様がもし環境を変えられれば、私達が最終的に滅びてしまうと御存知だからです。神様は私達を愛しておられるからこ そ、私達が苦しむのを許されるのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;困難にある時の私達の役目とは、苦しみの中にあっても、満足を覚えるに必要な力と資源のすべてを、神様が備えて下さっていると信頼することです。誤 解しないで下さい。困難にあって満足することは、困難を楽しむこととは異なります。それはただ、困難から自分自身を救い出そうとすることを、止めることを 意味します。私達は、神様が許される環境に満足し、それを耐えねばなりません。それは私達の主が必ず、御子にあって私達の憩いをもたらしてくださると信じ ているからです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-1327771912292385800?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/1327771912292385800'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/1327771912292385800'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/08/blog-post_26.html' title='信仰の戦場から'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-1631879015015923758</id><published>2010-08-25T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-08-26T01:02:36.970+09:00</updated><title type='text'>この時代の忍耐</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「忍耐する」とは、“困難の中でも続行する、諦めずに耐え忍ぶ”という意味があります。簡単に言うならば、続行する、忍耐するということです。しか し今の時代、この言葉はあまり意味を持ちません。今日のクリスチャンの多くは、配偶者に、家族に、また神様に、諦めを抱いています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ペテロはこのことについて、こう述べています。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みなのだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは 御心に適うことなのです。」（第一ペテロ2:19）さらに彼はこう続けています。「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょ う。しかし善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリスト もあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続く様にと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』の のしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたち の罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやさ れました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」（第一ペテロ2:20〜 25）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;使徒パウロは私達に、こう命じています。「キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい。」（第二テモテへの手紙2:3） また主御自身が、次の約束を与えてくださっています。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」（マタイによる福音書24:13）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;あなたにお尋ねします。あなたが直面している困難とは、一体何ですか。結婚生活が波乱状態にありますか。仕事の危機に瀕しておられますか。親戚や、大家さんや、友人との間に問題を抱えていたり、彼らに裏切られたりしましたか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達は希望を抱くべきです。パウロは苦しみましたが、決して諦めず、彼の深い信仰、揺るぎない平安、成熟さ、理解も決して止まることがありませんで した。彼はこう語っています。「もし私が霊的な人となるなら、もし私が本当に主を喜ばせたいなら、環境に逆らうことは出来ません。私は決して諦めず、耐え 忍びます。この世の何ものも、神様の御霊が試練に立ち向かうために、私に与えてくださっているものを、与えることは出来ません。神様は私を、霊的な者へと 育ててくださっているのです。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;パウロの人生は、キリストの霊による息吹が吹き入れられていました。そして真の霊的な人は、皆そうあるべきなのです。聖霊は神様の天の息吹を、すべ ての僕の内なる人に注ぎます。その人は落胆しません。自分のおかれた環境に対して、不平不満をもらしたりしません。人生における大変な試練にあったとして も、その人は微笑むことが出来ます。それはその人が、神様が内に働いて、永遠の栄光を示して下さることを知っているからです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-1631879015015923758?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/1631879015015923758'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/1631879015015923758'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/08/blog-post_25.html' title='この時代の忍耐'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-7474951532323865088</id><published>2010-08-24T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-08-26T01:02:09.016+09:00</updated><title type='text'>あなたに与えられたキリストの啓示</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;もしあなたが牧師、宣教師、または教師であるなら、考えてみて下さい。あなたは一体何を教えているのでしょう。それは人から教わったことですか。あ る素晴らしい先生が受けた啓示を、そのまま伝えておられますか。それとも、自分自身でイエス・キリストについての啓示を経験されましたか。もし経験された ことがあるなら、それは成長し続けていますか。御国があなたに開かれていますか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;パウロは言いました。「我らは神の中に生き、動き、存在する。」（使徒行伝17:28）本当に神様にある人は、この小さいながらも莫大な円の内に生 きます。その一挙手一投足、その存在のすべては、キリストの思いの内に包まれています。何年か前、私は聖霊がキリストのみを語る様、導いておられるのを感 じました。私の内に、ただキリストだけを述べ伝えたい、という強い思いがありました。しかし私の心は定まっておらず、この円だけでは小さ過ぎると思ってし まいました。結果として、私がいただいた啓示は消え去っていきました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;キリストを述べ伝えるために、私達は聖霊から、常にキリストの啓示を受ける必要があります。そうでなければ、私達の伝えることは、活気のないものと なってしまうでしょう。もし聖霊が神様の御心を知り、隠された神様の奥義を探すなら、そして私達の内に聖霊が豊かな水の流れとして満ちてくださるなら、私 達はその流れで満たされる準備をする必要があります。決して終わることのない、キリストの啓示で満たされ続けなければなりません。この様な啓示は、主に従 おうという態度を示し、 聖霊が主の御心を明らかにしてくださることを信じている主の僕すべてに備えられています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;パウロは、キリストが彼に示されているだけではなく、彼の内に示されていると言いました。（ガラテヤ人への手紙1:16参照）説教者の生活やミニス トリーで力を持たない御言葉なら、たとえそれが説教として分かち合われたとしても、神様の目にそれは、無駄なものとして写ります。浅はかなクリスチャン達 には、キリストを論争として取り扱うことが良いことの様に写るかもしれません。しかし、真の神の人には、そうではありません。私達は、永遠に深まり続ける キリストの啓示を伝えなければなりません。そしてただ伝えるだけではなく、その啓示が自分の人生にもたらした変化をも伝える必要があるのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;パウロも個人的な悩みを打ち明けました。「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者 になってしまわないためです。」（第一コリント人への手紙9:27）パウロはキリストにおける救いを疑っていた訳ではありません。ここで使われている「失 格者」という言葉は、ギリシア語で“認められていないもの”又は“価値のないもの”という意味があります。パウロは、キリストの裁きの座に着く時、よく知 りもしないキリストについて教えたり、自分が行動に移さなかった福音を宣教したりしたことについて裁かれることを、非常に恐れていました。パウロがよく用 いている「キリストを生きる」もしくは「我が内に生きるキリスト」とは、このことを表しています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達は次の質問に個人的、また正直に答えるまで、自分自身を神の僕と呼ぶことは出来ません。「私は心からキリストだけを求めているだろうか。キリストだけが、我がすべてであり、唯一の生きる目的だろうか。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;あなたはこの質問に「はい」と答えられますか。もし心から「はい」と答えることが出来るなら、パウロが語っている、自分の人生の汚点を指摘すること が出来ます。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」（フィリピ人への手紙3:8）キリス トの啓示の素晴らしさ故、すべてのものを損失と見なしていますか。あなたが本当にキリストだけを求めるなら、あなたのミニストリーは単なる職業ではなくな り、祈りとなります。催促されてキリストを求めるのではなく、キリストと交わることを望む心から、頻繁に自ら隠れた場所に行くようになるでしょう。主を礼 拝し、急がされることなく主との交わりの時を持ち、主を愛し、手を上げて主を賛美し、主を求め、主の知恵に対して感謝を捧げることでしょう。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-7474951532323865088?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/7474951532323865088'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/7474951532323865088'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/08/blog-post_24.html' title='あなたに与えられたキリストの啓示'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-6087415682697124442</id><published>2010-08-23T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-08-26T01:01:38.254+09:00</updated><title type='text'>依り頼む心</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;詩編の著者は、こう記しています。「わたしたちの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。」（詩編22:4〜5）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「依り頼む」というヘブル語の語源は“絶壁から自分自身を放り投げる”ということを示唆します。それはまるで、子どもが垂木に登ってはみたものの、 降りられなくなった光景のようです。その子は父親が「飛び降りなさい」と言う声を聞き、言われるままに、父の腕の中に飛び込みます。あなたは今、この様な 状況におられますか。絶壁に立ち、ぐらつき、イエス様の御腕に飛び込むしか選択はない、という状態ですか。ただ諦めてしまうことは、依り頼むことと違いま す。それは単なる運命論でしかありません。依り頼むことと、受け身で観念することとは、大きく異なります。依り頼むとは、能動的に信じることです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達がイエス様を強く求めれば求める程、私達はしっかりとイエス様に依り頼むことが出来ます。人生において、イエス様が全体的な構図を捉えておられ ず、自分が主権を握っていた方が良いと思えてしまい、イエス様に依り頼むことが出来ないことがあるかも知れません。しかしイエス様に近づき、もっと彼を知 ることで、その考えは変わるでしょう。命綱の端っこにしがみつき、どうしても助けが必要な時だけイエス様に近づくのではなく、常にイエス様と共に歩むこと で、待ち受ける試練を警告してくださる御声が聞こえるようになります。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;依り頼む心は、常に｢私の歩みのすべては、主によって定められています。主こそ私の愛する父であり、私が苦しみや試練を通るのを許されます。しかし それは、決して私が耐えられないものではありません。神様がいつも逃げ道を備えてくださるからです。主は私に、永遠の御計画と使命を持っていてくださいま す。私の髪の毛の数を御存知で、私を母の胎にて形作ってくださいました。神様は私が座るのも、立つのも、横になるのも御存知です。私を目に入れても痛くな い者として見てくださるからです。主こそ神であられます。私の神であるだけではなく、私に訪れる、すべてのことやものの神様でもあられます｣と言います。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;また完全な心とは、砕かれた心です。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;詩編の著者であるダビデは、こう語っています。「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。」（詩編34:18）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;砕かれた心とは、単に嘆き悲しんだり、押しつぶされたり、謙遜したりする心ではありません。真に砕かれた心は、神様が人間に与えてくださっている、 最も素晴らしい力を解き放つことが出来ます。それは死人を甦らせることよりも、病人を癒すことよりも、さらに素晴らしい力です。私達が神様の御前で本当に 心砕かれるなら、廃虚を建て直し、神様に特別な栄光と誉れをもたらすことの出来る力が与えられます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;砕かれることは、壊されたり、登ったりと、壁と関わりがあります。ダビデはエルサレムの壁を登ることと、神様の民が砕かれることとを関連づけまし た。「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。御旨のままにシオンを恵み、エルサレムの城壁を築いてください。そのときには、正しいいけにえも焼き 尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれるでしょう。」（詩編51:17〜19より抜粋）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ネヘミヤは心砕かれた者で、彼の物語は、エルサレムの壊れた城壁に関することでした。（ネヘミヤ書2:12〜15参照）夜の闇の中、ネヘミヤは砕か れた城壁を見ました。ここで使われている「砕かれた」という言葉は、ヘブル語の「シャバー」です。そしてそれは、詩編51章17節にある「砕かれた心」で 使われている言葉と同じものです。ヘブル語での意味を踏まえて言うなら、ネヘミヤの心は2つの方法で砕かれていました。一つ目は廃虚を嘆く心、そして二つ 目は再建の希望によって、心がはち切れそうになっていたことです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;真の砕かれた心とは、こういうことです。それはまず、教会や家庭の崩壊を見て嘆き、主の苦悩を感じること。この様な心は、主の御名が非難されること に、痛みを覚えます。そしてまたこの様な心は、ダビデ同様、自分自身を見つめ、恥と失敗を見つけ出します。しかし砕かれた心に関する二つ目の重要点は、希 望です。真に砕かれた心を持つ人は、神様からの「わたしは癒し、再建し、回復する。廃虚を片付け、基礎を建て始めなさい」という御声を耳にしているので す。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-6087415682697124442?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6087415682697124442'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6087415682697124442'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/08/blog-post_23.html' title='依り頼む心'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-8535947655430453797</id><published>2010-08-20T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-08-20T03:00:00.835+09:00</updated><title type='text'>神様と共に歩む</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「エノクは神と共に歩んだ。」（創世記5:24）原文のヘブル語で「歩む」とは、エノクが上ったり下ったり、出たり入ったり、進んだり下がったり、 神様と手を取り合い、語り合い、神様に近づき続けていた様を表しています。エノクは365年、もしくは1年365日ですから、年を年分生きたと言えるで しょう。彼の内に、私達は新しいタイプの信者を見ます。成人してからの365年間の毎日、彼は主と手を取り合って歩みました。主こそ彼の人生そのものでし た。だからこそ、彼は人生の最後で、死を見ることがなかったのです。（ヘブル人への手紙11:5参照）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様が取られたエノクと同じ様に、神様と親しく共に歩む者は、サタンの手から取られます。サタンの闇の王国から取り去られ、キリストの光の王国へと 導き入れられるのです。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。」（コロサイ人への手紙1:13）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;エノクは堕落した社会にあって、神様を喜ばせる歩みをすることを学びました。彼はまったく普通の人で、私達が直面しているのと同じ問題や重荷を背負 い、初代教会時代に見られた一部の信者の様に、荒れ野にある洞穴で隠れた生活を送ったりしませんでした。彼には妻子があり、責任と義務がありました。エノ クは一人隠れて、聖い人生を送っていた訳ではありませんでした。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」（創世記5:24）ヘブル人への手紙の中で、私達はこれがエノクの移動、すなわち彼が死 を体験しなかったことを表しているのだと知ることが出来ます。しかしここに、さらに深い真理があります。創世記5章で使われている「いなくなった」という 言葉は、「この世の者ではない」という意味をも持つのです。エノクは霊的また本質的に、この堕落した世界の者ではありませんでした。日毎彼は主と共に歩 み、少しずつこの世のものから離れていきました。パウロの如く、エノクは日々この地上での生活に死に、霊によって天国の領域へと引き上げられていたので す。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;しかし地上での歩みを続けていた間、エノクはすべての責任を果たしました。家族を養い、働き、仕えました。しかし彼は、この世のものに捕らえられていませんでした。日常生活の何ものをも、彼を神様との歩みから引き離すことは出来なかったのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ヘブル人への手紙11章5節は、こう明確に記しています。「（エノクが）移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。」エノクの したことの一体何が、神様をそこまで喜ばせたのでしょうか。それは彼の神様との歩みが、神様の愛される信仰を生み出したからです。次の二つの箇所は切り離 すことが出来ません。「移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」（ヘブル人への 手紙11:5〜6）私達はこの聖句をよく耳にしますが、その前の節と共に読まれることは、ほとんどありません。しかし聖書全体を通して、神様と親しく歩ん だ者は皆、深い信仰を持った人達でした。もし教会が、日毎神様と共に歩み、神様と絶え間なく交わりを持つなら、結果として神様を喜ばせる信仰に溢れた人達 を生み出すでしょう。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;エノクの周りで、人類は堕落していくばかりでした。しかし人々が切望、頑なさ、好色に溢れて野獣と化しいく中で、エノクは共に歩む方にだんだん似る者となっていきました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「信仰によってエノクは移された。」これは私達の理解を超えてしまう様な、驚くべき真理です。エノクの信仰のすべては、たった一つの望みに焦点が置 かれていました。それは主と共にいるということです。そしてその信仰に対する応えとして、神様はエノクを移されたのです。エノクは、もはや覆いの後ろに隠 れていることができませんでした彼はただ、主を仰ぎ見たかったのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達の兄弟であるエノクには、聖書も賛美歌集も、信仰の仲間も先生も、内に宿る聖霊も、至聖所へのアクセスをもたらす裂け目もありませんでした。ただ彼は神様を知っていたのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからで す。」（ヘブル人への手紙11:6）どうやって私達は、エノクが神様を報われる方であると信じていたと知ることが出来るでしょうか。彼が神様を喜ばせる信 仰を持っていたことによってです。神様は報いと報酬を与えられる方、すなわち信仰の深さに応えられる方です。では、熱心に求める達に、主はどのように報わ れるでしょうか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;信仰により神様を信じ、神様と共に歩む者に与えられる、3つの重要な報酬があります。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;1．一つ目は、神様が私達の人生を統べ治めてくださること。主をないがしろにする人は、悪魔が働いて占領するに従い、人生のコントロールを失いま す。その人がただイエス様と恋に落ち、彼と歩むなら、神様はすぐに、サタンがいかに彼の人生の主権を握ることが出来ないかを示し、キリストが彼の人生を統 べ治められるようにしてくださいます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;2．二つ目の報酬は「真の光」を持つ信仰から来ます。私達が主と共に歩む時、私達は光、導き、分別、啓示の報酬を受けます。それらは神様が与えてくださる、神様をさらに知るためのものです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;３．  信仰の歩みから来る三つ目の報酬は、すべての敵からの擁護です。「どのような武器があなたに対して作られても、何一つ役に立つことはない。」（イザヤ書 54:17）原文のヘブル語では、この箇所は「どんな計画も、どんな破壊の道具も、悪魔のどんな大砲も、あなたを押したり、打ち負かしたりすることはな く、必ずなくなってしまう」と訳されます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-8535947655430453797?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/8535947655430453797'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/8535947655430453797'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/08/blog-post_20.html' title='神様と共に歩む'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-6004047673779069143</id><published>2010-08-19T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-08-19T03:00:02.311+09:00</updated><title type='text'>戦利品に託された神様の御計画</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ダビデと彼の軍が不在であった時、アマレク人がツィクラグという村を奇襲しました。略奪者達は村を焼き払い、女性と子どもを全員捕虜として連れ去り ました。ダビデが戻った時、「兵士は皆、息子、娘のことで悩み、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したので、ダビデは苦しんだ。だが、ダビデはその神、主に よって力を奮い起こした。」（サムエル記上30:6）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;これこそ霊的戦いです。これはただ、ダビデ一人に向けられた攻撃ではありません。これは神様の永遠の計画に対しての、徹底した急襲でした。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;霊的戦いの焦点とは、いかに敵が常にキリストの種を摘み取ろうとしているかにあります。そしてこの事実は、十字架から2,000年経った今でも変わ りありません。悪魔は今も神様の種を滅ぼし、キリストの種である私達に攻撃を仕掛けることで、その目的を果たそうとします。ダビデは、彼の兵士達のぼやき を聞いて、恐れました。しかし彼は、自分と神様との関係が正しいことを確信していました。そして聖書は、彼がいかに神様によって励まされたかを記していま す。すぐにこの信仰の人は、アマレク人の追跡に転じました。そしてすぐさま彼らに追いつき、奪い取られたすべての人々と財産を奪い返しました。（サムエル 記上30:19〜20参照）ダビデはツィクラグから取り去られたものだけではなく、アマレク人が奪い取ったすべての戦利品を取り戻しました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ダビデはこれらの戦利品をどうしたでしょうか。彼は神様のご計画を続行するために、それらを用いました。さらに、彼はユダの長老たち、また以前彼と その僕をかくまってくれていた町に対して、戦利品を贈り物として送り届けました。（サムエル記上30:26と31参照）これは、霊の戦いを通して神様が抱 いているご計画のもう一つの例です。私達は戦利品を、自分達のためだけに勝ち取るのではなく、キリストの体のために勝ち取るのです。私達が得た資源は、他 の人々に祝福をもたらすために与えられているのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;サマリアが飢饉にあった時、アラム軍が町を占領しました。アラム軍は町の外に陣営を張り、サマリア人が飢え死にするのを待っていました。城壁の内側 の状態は非常に悪化し、ロバの頭が銀80枚で売られるようになりました。あまりの飢えから、女性達は自分達の子どもを、食料として煮てしまおうとしていた 程です。異常な事態だったしか言えません。（列王記下6章参照）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;その頃、城壁の外で生活していた、4人の重い皮膚病を患っていた人達がこう相談しました。「どうしてわたしたちは死ぬまでここに座っていられよう か。町に入ろうと言ってみたところで、町は飢饉に見舞われていて、わたしたちはそこで死ぬだけだし、ここに座っていても死ぬだけだ。そうならアラムの陣営 に投降しよう。もし彼らが生かしてくれるなら、わたしたちは生き延びることができる。もしわたしたちを殺すなら、死ぬまでのことだ。」（列王記下7:3〜 4）こうして彼らはアラムの陣営に向かいました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;彼らが陣営に到着した時、すべては静まり返っていました。誰一人として見かけることが出来なかったので、彼らは天幕の一つひとつを探りましたが、誰 も見つけることが出来ませんでした。聖書はこう説明しています。「主が戦車の音や軍馬の音や大軍の音をアラムの陣営に響き渡らせられたため、彼らは、『見 よ、イスラエルの王が我々を攻めるためにヘト人の諸王やエジプトの諸王を買収したのだ』と言い合い、夕暮れに立って逃げ去った。彼らは天幕も馬もろばも捨 て、陣営をそのままにして、命を惜しんで逃げ去った。」（7:6〜7）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;重い皮膚病を患っている者達がこのことに気付いた時、彼らは天幕を渡り歩き、食べたり飲んだりした後、町に帰ってこう言いました、「私達と共に来て みて下さい。信じられないでしょうが、アラム軍は陣営を逃げ去りました」と。（7:10参照）主は事態を完全にひっくり返されました。主は戦利品を用い て、神の民を再建し力を与え、地上での御計画を続行されたのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;話の筋が掴めましたか。あなたに襲いかかっている、現在の戦いの理由が見え始めてきましたか。主に信頼をおく者は、敵のどんな力にも輝かしい勝利を 収めると約束されています。神様はあなたにこう知らせたいのです。「あなたは必ず勝利を収めます。しかしただ打ち勝つだけではなく、わたしの王国のため に、あなたの内にさらに素晴らしい計画を立てているのです。あなたはこの戦いから、どうしたら良いか分からない程の戦利品を持って歩み出るでしょう」と。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-6004047673779069143?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6004047673779069143'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6004047673779069143'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/08/blog-post_19.html' title='戦利品に託された神様の御計画'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-3392317338743643800</id><published>2010-08-18T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-08-18T03:00:02.541+09:00</updated><title type='text'>霊の戦いにおける戦利品</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「彼らは主の神殿を修理するために戦利品の一部を聖別した。」（歴代誌上26:27）この聖句は、非常に意味深く、人生を転換させる様な、驚くべき 真実を示しています。それは戦いにおいてしか、勝ち得ることの出来ない戦利品について語っているのです。そしてその戦利品を勝ち取ってから、彼らは神様の 宮を建て上げるためにそれらを聖別しました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;この聖句に隠された、力強い真理を完全に理解するなら、なぜ主が私達の人生に厳しい霊的戦いを許されるのかが理解出来ます。多くのクリスチャン達 は、神様を受け入れたなら困難はもう訪れることがなく、残りの人生はなだらかな船路が続くと思っています。これ程真実からかけ離れたものはありません。神 様は戦いを許されるばかりか、私達の人生において、それらの戦いに素晴らしい意図をもっておられます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;戦いにおける戦利品とは、何でしょうか。戦利品とは、略奪したもの、勝者によって戦いで勝ち得たものを意味します。聖書では創世記の14章で、他国 の王達が連合してソドムとゴモラを侵略した時に、初めて戦利品についての記載があります。これらの侵略者達は、ソドムとゴモラの地の住民を捕虜とし、その 所有物を略奪しました。「ソドムとゴモラの財産や食糧はすべて奪い去られ、ソドムに住んでいたアブラムの甥ロトも、財産もろとも連れ去られた。」（創世記 14:11〜12）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;甥のロトが捕虜とされたと聞いたアブラムは、318人の僕を集めて、敵の王達を追跡しました。聖書は、彼が侵略者に襲いかかり、「すべての財産を取り返し、親族のロトとその財産、女達やそのほかの人々も取り返した」と記しています。(14:15〜16)&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;この場面で、勝利に満ちたアブラムを思い描いてみて下さい。彼は喜びに満ちた人々と、山と積まれた様々な物を乗せた台車の列を先導していました。途 中彼はサレムの王であるメルキゼデクに出会います。聖書は、彼がこの王に戦利品の什一を献げる様に導かれた、と記しています。（14:20参照）「この人 がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムさえ、最上の戦利品の中から十分の一を献げたのです。」（ヘブル人への手紙7:4）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ここに、神様が私達に理解を促す原理があります。私達の主は、私達が勝利を収めるか否かより、もっと大きなことに関心を寄せておられるということで す。主は私達に、戦利品や、様々な物、霊的な富を与えたいと願っていらっしゃいます。私達は、様々な資源で山積みの台車を持って、戦いから歩み出るべきな のです。これこそ、次の箇所でパウロが語っていることです。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって 輝かしい勝利を収めています。」（ローマ人への手紙8:37）&lt;br /&gt;ダビデは、戦いで勝ち得た戦利品に対して、敬虔な態度を示しました。彼が人生の終盤 で立てた制令に、それを見ることが出来ます。ダビデは彼の息子、ソロモンをイスラエルの王として任命しました。そして国のリーダー達を呼び集め、神殿の維 持に関して、神聖なる命令を立てようとしました。この聖なる働きに際して使われた資源は何だったでしょうか。「彼らは主の神殿を修理するために戦利品の一 部を聖別した。」（歴代誌上26:27）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;この前後の状況を説明しましょう。すべての戦いに勝利する度に、ダビデは戦利品を勝ち取り、金、銀、真ちゅう、材木、金銭など、数えきれない程のものを蓄えました。ダビデにはたった一つの意図がありました。それはこれらの戦利品を、神殿建築に用いるということでした。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;聖書が神殿維持について語る時、原文のヘブル語では「家を直す、建てられたものを強化する」という意味があります。これらの資源は、神殿の最初の荘厳さを維持する為に、用いられるべきものだったのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;今日、神様の宮はどこにあるのでしょう。それは神様の人々、すなわちあなたと、私と、世界中にある主の教会からなります。パウロによると、私達の体 は聖霊の宮とされています。そして古代イスラエル同様、私達の主は、今も戦利品を用いて御自身の神殿を維持されているのです。ですから、私達の霊的戦い は、単なる生存の糧以上のものがあるのです。戦いの一つひとつを通して、神様は豊かな富と資源を、私達に備えてくださいます。神様は私達の戦いによって、 豊かに資源の貯蓄をなさいます。そしてこれらの戦利品は、イエス・キリストの教会を建て上げ、また維持するために聖別されているのです。　&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;考えてみてください。ソロモンが神殿を建築した後何年も、貯蓄してあった戦利品によってその維持がなされました。神様の宮は活気に満ちていたのは、 神様の民が、ただすべての困難に勝利するだけではなく、多くの戦利品をもってその戦いから歩み出たからです。この「戦いによる供給」という原理は、聖書の いたるところで見ることが出来ます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-3392317338743643800?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/3392317338743643800'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/3392317338743643800'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/08/blog-post_18.html' title='霊の戦いにおける戦利品'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-7860138471540120416</id><published>2010-08-17T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-08-17T03:00:00.916+09:00</updated><title type='text'>複製の出来ない霊性</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ここニューヨーク市では、ロレックスの腕時計が15ドルで購入出来ます。ニューヨーク市民なら誰でも知っている様に、これらの腕時計は本物のロレックスではありません。それらはコピー商品、すなわち非常に安価な偽物なのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;今日、すべてのものに対して、コピー商品が出回っている様に見受けられます。しかしたった一つ、絶対に複製出来ないものがあります。それは真の霊性 です。真の霊によるものは、何一つ複製することが出来ないのです。主は御自身の作品を御存知で、人の手によって複製された神の業の偽物を、決して受け入れ られません。何故でしょうか。それは真の霊性を、人の手によって複製することは不可能だからです。それは聖霊の御業によってのみ、可能なことなのです。聖 霊は神の民の内で、絶え間なく新たな働きを続けています。そしてその働きを、人間の手で複製することは絶対に不可能なのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ここに、今日の宗教の大きな誤りがあります。ただ聖書の知識や原則を人々に授けさえすれば、その人達は霊的になると思ってしまっています。しかし真実は、誰も、どんな団体も、人々の内に霊性を生み出す力を持っていないのです。ただ聖霊だけに、その力が与えられています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達の内に働かれている、神様の霊の御業のほとんどは、目で見ることが出来ません。ですから真に霊的な人達は、目に見える証拠を探したりしません。 パウロはこう語っています。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続する からです。」（第二コリント人への手紙4:18）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;この前後の箇所でパウロは、苦しみと困難について語っています。彼は、「聖霊以外は誰も、私達に何が起こっているのか、完全に知り得ません。そして厳しい試練の最中にある時にこそ、真の霊性が問われるのです」と言っています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様の霊の導きに委ねている人達、すなわち困難にあっても、それは主がその人の内で何かを生み出そうとしているのだと確信している人達は、試練のる つぼから揺るぎない信仰をもって出てきます。そして彼らは、すべてがうまくいっていた時よりも、困難にある時の方が、聖霊によって多くを学んだと、証しす るのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私の長年に亘る主との歩みの中で、人生がうまくいっている時には、霊的な成長を見ることがあまりありませんでした。むしろ、その様な霊的成長は、聖霊が許された困難、苦痛、試練を乗り越えた時に見られました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;彼自身の信仰生活の中で、パウロはこう言いました。「聖霊ははっきりと、苦難が私を待ち受けていると告げられました。」（使徒業伝20:22〜23参照）事実、パウロの人生は、常に困難で満ちていました。困難は絶えることなく、彼の上に降り掛かったのです。&lt;br /&gt;「わ たしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」（第二コリント人への手紙4:17）パウロによると、 困難や苦難は私達の内に永遠の価値を生み出してくれます。彼は「地上での困難は、おそらく命がある限り続くでしょう。しかしそれも永遠と比べれば、ほんの 一瞬の様なものです。そして今、困難を耐える私達の内に、神様が永遠に続く神様の栄光を明らかにしてくださっているのです」と語っています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-7860138471540120416?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/7860138471540120416'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/7860138471540120416'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/08/blog-post_17.html' title='複製の出来ない霊性'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-3924837425680243764</id><published>2010-08-16T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-08-16T03:00:00.678+09:00</updated><title type='text'>キリストを勝ち得る</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはす べてを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められたからです。」（フィリピ人への手紙3:8）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;パウロは完全に、主に魅了されていました。ではなぜ、キリストを“得る”必要があったのでしょう。キリストは、使徒だけにではなく、彼の人生におい て、既にはっきりと御自身を表されました。しかしそれでも、パウロはキリストの心と愛を勝ち取らねばならない、と強く感じたのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;パウロの存在すべて、すなわち彼のミニストリー、人生、そして人生におけるすべての目的は、彼の主である神様を喜ばせることだけに焦点が当てられていました。その他のものはすべて、例え良いものであっても、塵あくたにしか過ぎませんでした。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;この箇所で「イエス様の心を勝ち取るとは、どういうことだろう」と思われるかも知れません。神様の愛は、すでに私達に注がれているのではないので しょうか。事実、神様の情け深い愛は、人類すべてに注がれています。しかし、ほんの一握りのクリスチャンしか経験したことのない、もう一つの愛があるので す。それは妻と夫との間に見られる様な、キリストとの親密で深い愛です。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;この愛は、雅歌に表現されています。雅歌はキリストの愛を示すものとされ、ある箇所では、主が花嫁を次の様に語っています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「あなたはわたしの心をときめかす。あなたのひと目も、首飾りのひとつの玉も、それだけでわたしの心をときめかす・・・花嫁よ、あなたの愛は美しく、ぶどう酒よりもあなたの愛は快い。」（雅歌4:9〜10）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;キリストの花嫁は、主を喜ばせたいと願い、他の何ものからも離れ、従順に生きている、聖い人々のことです。そしてキリストの心は、彼らに対してとき めきます。ここで使われている「ときめく」という言葉は、“心を失う”または“心を奪われる”という意味があります。キング・ジェームス訳の聖書では、キ リストの心はたった一目でときめいた、と記されています。この「一目」とはキリストだけに注がれた、誠意のことだと思います。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-3924837425680243764?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/3924837425680243764'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/3924837425680243764'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/08/blog-post_16.html' title='キリストを勝ち得る'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-7468564820147188763</id><published>2010-08-13T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-08-13T03:00:00.759+09:00</updated><title type='text'>金よりも尊い</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;エステル妃のお話は、聖書の中でも、最も厳しい霊的戦いを記したものの一つです。悪魔はハマンを用いて、地上での神様のご計画を阻止しようと企みま した。この裕福で影響力を持った男は、ペルシアの王を説得し、インドからエチオピアをまたぐその王国内のユダヤ人を、一人残らず抹消する様、命令を下した のです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ハマンが最初に見たユダヤ人は、義なる人であったエステルの叔父、モルデカイでした。ハマンはモルデカイのために、特別な絞首台を用意していました が、その計画はエステルによって阻止されました。それは彼女が、神の民に祈りを要請し、ハマンの命令を撤回させるために、自分自身の命を投げ出したからで す。神様は、ハマンが企んでいた悪しき計画を明るみに出されたので、ハマンは自分が立てた絞首台に吊るされました。王はただ死の命令を撤回しただけでな く、今日で言えば何十億ドルもするハマンの家を、エステルに譲り渡しました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;しかしこのお話での戦利品は、ハマンの家だけではありませんでした。聖書は「それはユダヤ人にとって輝かしく、祝うべきこと、喜ばしく、誉れあることであった」と記しています。（エステル記8:16）これらは、敵との戦いにおいて勝ち取った、真の戦利品です。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達の試練は、霊的な富を与えてくれるだけではなく、私達に強さや純粋さを与え、継続的に維持してくれます。私達が主に信頼を置くなら、主は私達の 試練が、金よりも価値のある信仰を生み出す様にしてくださいます。「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほ かない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、賞賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」（第一ペテロの手紙1:7）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」（コロサイ人への手紙2:15）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;イエス様はカルバリによって悪魔に打ち勝ち、そのすべての支配と権威を奪い取られました。キリストが勝利の内に墓から復活された時、主は数え切れない捕虜を、サタンの手から解放しました。そして主の血潮によって購われた行列は、今も行進を続けているのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;驚くべきことに、カルバリでのキリストの勝利は、死に打ち勝つことよりもさらに素晴らしいものを与えて下さいました。それはこの人生においての戦利 品、すなわち、恵み、憐れみ、平和、赦し、力、信仰、等勝利にある人生を歩むために必要なものすべてです。主は御自身の宮を維持するため、必要のすべてを 備えてくださっています。「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の 家なのです。」（ヘブル人への手紙3:6）&lt;br /&gt;聖霊はここで、驚くべき真実を解き明かしてくださっています。それは、イエス様が御霊の内に、私達のす べての必要を与えてくださっている、ということです。しかし主の宮の維持するために、その宝庫を訪れるのは、私達の役目であり、主の宮を維持するために必 要なものはすべて、直接私達の戦利品からくるべきなのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;維持のために必要なものは、キリストがすべて与えてくださっています。主は私達を神様の住まいに導き入れてくださいました。主がその家の礎となり、 その家全体を完全に清められたのです。最後に、主は私達に至聖所へのアクセスを与えてくださいました。すなわち信仰によって、私達は完全に整えられ、宮と して完成させられるのです。イエス様は、未完成の家を建てられたのではありません。主の宮は完成しているのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;この宮は、きちんと維持されていなければなりません。常に修理が行き届いていなければなりません。もちろん、必要なものはすべて、キリスト御自身の 御霊の内に与えられています。キリストこそ、すべての戦利品の出納官なのです。これらの戦利品は、私達がその必要を感じ、神様と恊働する時に解放されま す。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様との恊働は、私達が試練のただ中にいる時に始まります。試練の真っただ中で、私達が勝ち得るのは、キリストらしさです。敵との戦いから、教訓、 信仰、練達を戦利品として勝ち取ります。戦いには価値があります。ですから、これらの戦いから良きものが生まれると、確信出来るのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-7468564820147188763?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/7468564820147188763'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/7468564820147188763'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/08/blog-post_13.html' title='金よりも尊い'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-8715404156049163704</id><published>2010-08-05T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-08-05T03:00:00.127+09:00</updated><title type='text'>砕かれて、聖霊によって満たされなさい</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;旧約・新約両聖書において、聖霊は非常に珍しい方法で、人々の上に降りました。建物を震わせ、人々は異言によって神様を讃える様になりました。そこには聖霊による、完全な支配がありました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ペンテコステの日には、聖霊が力強く、激しい風として降りました。聖霊が注がれた時、すべてのものが揺り動かされました。（使徒行伝2:4及び 4:11 参照）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;バプテスマのヨハネはこう教えました。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしはその方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」（ルカによる福音書3:16）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;愛する皆さん、聖書は明確に語っています。イエス様があなたの元に来られる時、彼はあなたが聖霊と火による洗礼を受けることを望んでおられるので す。聖霊は火をもたらします。その火とは、真っ赤で熱い、イエス様の愛のために燃える炎です。では、何故多くのクリスチャン達が、熱くなったり、冷めてし まったりして、なかなか自分を捧げきることが出来ないのでいるのでしょうか。それは彼らが、イエス様による聖霊の洗礼を受けることを、拒絶しているからで はないでしょうか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「その方（聖霊）が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」（ヨハネによる福音書16:8）これらのクリ スチャンが確信に至ることが出来ないのは、彼らの内の玉座に着く様に、聖霊を招き入れていないからではないでしょうか。聖霊は神様の測量機です。キリスト に対して不適切なものはすべて、聖霊がそれを明らかにし、私達が御言葉に従う様、力を与えてくださいます。この様な時にこそ、聖霊は私達の慰め主となられ ます。なぜなら聖霊は、私達の罪を明らかにし、それを捨て去る様、力付けてくださるからです。これこそ真の慰めです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;聖霊は決して、あなたに馬鹿げたことをさせたりなさいません。しかし時に聖霊が降りると、罪人達からして見れば、まるで私達が酔っぱらっているかの 様に振る舞うことがあります。多くの教会で、聖霊はあまり受け入れられていません。それは聖霊が、騒がしく、気分を害し、予測不可能なものであると思われ ているからです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-8715404156049163704?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/8715404156049163704'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/8715404156049163704'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/08/blog-post_05.html' title='砕かれて、聖霊によって満たされなさい'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-8810506363413569758</id><published>2010-08-04T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-08-04T03:00:01.935+09:00</updated><title type='text'>御霊の働き</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;聖霊は、無秩序でいい加減な方法で、私達の内に働かれる訳ではありません。私達がうまく人生をこなし、危機や寂しさに沈む夜を乗り越えるのを助ける為だけに存在している訳でもありません。私達を競技場に戻す前に、少し力を与えようと待っておられる訳でもありません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;聖霊が成される御業のすべては、聖霊が来られた理由に関わっています。それは私達を花嫁として、御国に連れて行くということです。御霊は、その使命 を果たすためだけに働かれます。そう、聖霊は私達の案内人であり、慰め主であり、弱い時の力です。しかし、私達を救い出すためのこれらの御業のすべて、す なわち、私達の内で御自身を表される御業の一つひとつは、私達を花嫁として整えることを目的としているのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;また、御霊はただ世に賜物を与えるためだけに存在している訳ではありません。そうではなく、御霊の与える賜物の一つには、それぞれ目的があるので す。聖霊が掲げるメッセージはたった一つ。すべての教えは、ある中核的な真実に向かっています。私達の内で、聖霊は宝石の様に輝いておられるかも知れませ んが、その輝きの一つひとつは、私達に唯一の真実をもたらすためにあるのです。そしてその真実とは、次の通りです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「あなたは自分のものではありません。代価をもって購われたものです。キリストの花嫁として選ばれた者なのです。そして、あなたを他のどんな切望か らも解き放つために、神様の霊が遣わされているのです。真実こそ、罪の束縛をすべて解き、不信仰を取り扱ってくれます。あなたはこの世に属する者ではあり ません。あなたには、素晴らしい花婿との対面と、婚礼の宴が待ち受けているのです。すべての準備は整っているので、わたしがあなたの準備を手伝っているの です。神様への激しい愛を内に秘めた、非の打ち所のない者として、あなたを紹介したいのです。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;これこそが聖霊の御業です。キリストを教会に表すことで、私達がキリストと恋に落ちるためです。そしてこの愛こそ、私達を支えるのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-8810506363413569758?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/8810506363413569758'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/8810506363413569758'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/08/blog-post_04.html' title='御霊の働き'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-3900076200239215117</id><published>2010-08-03T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-08-03T03:00:01.890+09:00</updated><title type='text'>信仰によって聖霊を受ける</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたから ですか。」（ガラテヤ人への手紙3:2）聖徒の皆さん、この聖句はあなたの信仰を燃やし、信仰によって神様の約束を信じるよう促すべきです。「いささかも 疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。」（ヤ コブの手紙1:6〜7）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;この賜物が与えられる様、神様に求められましたか。聖霊を求めておられますか。扉を叩き続けておられますか。「このように、あなたがたは悪い者であ りながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」（ルカによる福音書11:13）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ただ求めれば、受け取ることが出来るのです。聖霊の洗礼を受けることを天のお父様に求めれば、神様は必ず与えてくださいます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達はこの世にはびこる悪に直面します。悪魔はその力を振りかざし、悪しき霊の大軍は、御国との最後の戦いに備えています。しかしサタンは、聖霊に 満ち、信仰と従順の内に歩む、義なる神様の子どもに立ち向かうことは出来ません。真に聖霊に満ちたクリスチャンは、地獄の大軍を追い払う者です。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様、どうか聖霊を遣わしてください。聖霊を注いでください。聖霊によって、力強く洗礼を授けてください。そして揺るぎない信仰と共に、サタンが強く働く所へと、私達を遣わしてください。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;使徒パウロは言いました、「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」（ガラテヤ人への手紙 5:16）また、こうも語っています。「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」（5:25）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;クリスチャンとして、私達は「聖霊の導きに従って歩む」という言葉を幾度も耳にしてきました。多くのクリスチャン達は、聖霊の導きに従って歩んでい ると言うものの、それが本当にどういう意味なのか、しらないでいます。お尋ねしましょう。あなたは聖霊の導きに従って歩み、聖霊の内に生きていらっしゃい ますか。そしてそれはあなたにとって、どういう意味がありますか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私にとって「聖霊の導きに従って歩む」とは、次の一文に集約されます。それは“聖霊の導きに従って歩むことは、ただ私達の内で、神様が聖霊を遣わされた業の成就をゆるすこと”です。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;何故神様が聖霊を遣わされたかを理解するまで、あなたの内で聖霊が働かれるのをゆるすことは出来ません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;聖霊は、神様からたった一つの永遠の目的を果たす為に、私達の元へ遣わされました。そして私達が、この聖霊の使命と私達の内での働きを理解しないな らば、次の2つの内、どちらかの間違いを犯すことになります。一つ目は、ほんの少しの霊的な賜物を受け取る等、限られた聖霊の御業で満足し、私達の人生に おいて聖霊が成そうとされている、素晴らしい永遠の目的を見逃してしまうことです。二つ目は、聖霊を求めながら、私達の内で完全に聖霊を無視してしまうこ とです。それは聖霊が神秘的であり、その存在は信仰によって受け取るもので、私達には決して理解することが出来ないものである、という考えからきます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;聖霊は、あなたの内で、また私の内で、確信を与え、聖め、力を与え、備えるために、私達の元に来てくださいました。聖霊は、私達をキリストと結ばれる花嫁として整えるために、この世に遣わされているのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;旧約聖書時代の信者と聖霊の関係を示したものが、創世記24章に記載されています。アブラハムは、彼の最も年老いた僕、エリエゼルを遣わし、息子で あるイサクに花嫁を探し出す様、命じました。エリエゼルという名前は、「力強い、神の助け手」という意味があり、言ってみれば聖霊の様なものです。そして この力強い助け手が、リベカをイサクの花嫁として連れ帰って来た様に、聖霊もまた、私達の主、イエス・キリストの元に、必ず花嫁を連れ帰られます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様はリベカをイサクの花嫁として選ばれました。そして神様は、エリエゼルを彼女の元へ、真っ直ぐに導かれました。この僕の任務と目的のすべては、 たった一つ。それはリベカをイサクの元の連れ帰ることでした。彼はリベカに、彼女の持っていたものすべてを捨て、イサク自身に、またイサクと結婚すること に夢中になるよう、働きかけねばなりませんでした。リベカの両親は、エリエゼルに告げました。「このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申 することはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻になさってください。」（創世記 24:50〜51）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;そしてこれと同じことが、皆さんと私にも起こっているのです。神様は私達を、神様の花嫁として選んでくださいました。私達の救い、すなわちキリスト のものとして選ばれることは、主の御意志によるものです。神様は私達をイエス様の元へと導くために、聖霊を遣わされました。もし私達が彼を信じるなら、聖 霊は私達を、キリストの永遠の花嫁として無事に連れ帰ってくださいます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-3900076200239215117?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/3900076200239215117'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/3900076200239215117'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/08/blog-post_03.html' title='信仰によって聖霊を受ける'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-6608611975848074727</id><published>2010-08-02T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-08-02T03:00:00.472+09:00</updated><title type='text'>「アバ父よ」</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;聖霊は、私達とイエス様、及び私達と父なる神様との関係を、 簡素化してくださいます。 私達に「アバ父よ」と神様に呼びかける様、促してくださるのは、聖霊です。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;この表現は、聖書時代に東洋で用いられていた、養子縁組にまつわる習慣から来ています。養子縁組の書類がすべて整い、養父によって承認されるまで、 養子とされた子どもは、養父をただの父としてしか呼ぶことが出来ません。「アバ」とは“私の父”という意味なので、養父を「アバ父よ」と呼ぶ権利がないの です。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;しかし、書類が整い、登録が済み、承認を受けるや否や、養子とされた子どもの世話役は、彼を養父の元へと連れて行きます。そしてその時初めて、彼は 「アバ父よ！」と呼ぶことが出来るのです。養父の腕に抱かれ、その子は、「私のお父さん、あなたはただの父ではなく、私のお父さんです」と叫ぶのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;これこそが、聖霊の働きとミニストリーです。御霊はキリストについてのあなたの世話役であり、あなたを父なる神様の元へと導きます。そしてこう、私 達に告げるのです。「書類はすべて承認を受けました。あなたはもう、孤児ではありません。法的に、神様の子とされたのです。あなたには、ひたすらに愛と富 と力に満ちた父がいます。彼に抱きつきなさい。『わが父よ』と呼んでごらんなさい。あなたに神様がどれ程あなたを愛しておられるかを示すため、わたしは来 たのです。神様はあなたを愛しておられ、あなたを求めておられます」と。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達の叫びは、これ以上とない喜びと感謝からくるものであるはずです。私達の内におられる御霊は、「あなたは神様の相続人です。イエス様が勝ち取ら れたものすべてを相続する者です」と叫んでおられます。この様な素晴らしい財産を相続することが出来るのは、あなたのお父様が宇宙一裕福な方だからです。 神様に近づくことをためらう必要はありません。お父様はあなたに対して怒りを燃やしておられる訳ではありません。貧しさに打ちひしがれ、喜びと霊的勝利を 失った孤児の様に振る舞うのは止めましょう。あなたは見捨てられてはいないのです。お父様の存在を、存分に楽しめば良いのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達は見捨てられていないばかりか、迷いや苦しみの時にも、聖霊が私達と共にいてくださいます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;聖霊の任務とは、キリストの花嫁をその花婿がいない間、慰めることです。「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくだ さる。」（ヨハネによる福音書14:16）「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、 わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」（26節）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;“慰め主”とは「痛みや悲しみの時になだめる者」という意味です。それは痛みと悲しみを和らげ、安堵をもたらし、慰め、励ます者のことです。しかし 私は次のギリシア語の定義が気に入っています。「あなたを温かで、安全な寝床に横たえてくださるお方。」あなたの魂が冷たく暗い闇に沈む時、御霊は、その 心地よく、慰めに満ちた御手によって、あなたをやわらかな布団に寝かしつけてくださいます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;御霊を慰め主と呼ぶことで、イエス様は実に確実な予測を立てられました。イエス様は、彼に従う者達が苦しみの目に遭うこと、終わりの日に大きな痛みと苦しみがあり、いかに慰めが必要となるかを予測されたのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;聖霊は、御自身が神様の力のすべてをもって、あなたの内に住まわれているかを思い起こさせることで、あなたに慰めをもたらします。ですからあなた は、こう叫ぶことが出来るのです。「世界中のすべての力より、悪魔のすべての力より、私の内におられる方の力は勝っている」と。神様は私達を悪魔の手から 守られるために、聖霊を遣わされ、その力を与えられたのです。それは、私達の霊を引き上げ、打ちひしがれた思いを追い出して、神様の愛によってあなたの心 を満ち溢れさせるためです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。そして希 望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」（ローマ人への手紙 5:3、5）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-6608611975848074727?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6608611975848074727'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6608611975848074727'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/08/blog-post.html' title='「アバ父よ」'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-5809669300422482822</id><published>2010-07-30T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-07-31T05:51:54.661+09:00</updated><title type='text'>御国の前触れ</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;前触れとは、前もって体験すること、または認識することです。聖書はこれを保証金と呼んでいます。（例：「わたしたちが御国を受け継ぐための保証」 エペソ人への手紙1:14より）それは全体を経験する前に、一部のみを体験するという意味です。私達が受け継ぐもの、それはキリスト御自身です。そして私 達がキリストの花嫁となり、永遠の交わりを楽しむことの前触れとして、聖霊は私達を主の臨在に導き入れてくださいます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;パウロは神様の内にある人々を「聖霊で証印を押された者」と表現しています。（エペソ人への手紙1:13）これは御霊の働きによって、特別に印をつ けられた人々のことを表しているのです。聖霊は彼らの内に、特徴的な印を押し、また素晴らしい内なる働きを起こしたのです。それは彼らを、永遠に変えられ た者とする超自然的なものです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;彼らはもはや、ただの信者ではありません。  この世のものではなく、天のものに情熱を寄せているので、彼らはもはや、この世に属する者ではありません。彼らはこの世の出来事に押し流されません。むし ろ、彼らは  揺り動かされない者となったのです。また彼らは、生温かったり、中途半端だったりすることはありません。それどころか、彼らの心は昼も夜も、「主なるイエ ス様、早く来て下さい」と叫ぶのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;一体彼らに何が起こったのでしょうか。聖霊が彼らの内で、何を行ったのでしょうか。何が彼らに、主に属する者だという証印を押したのでしょうか。そ れは簡単に言うと、こういうことです。聖霊が彼らに、素晴らしい主の臨在を、前触れとして体験させてくださったからです。御霊は彼らに近づき、御国を垣間 見せました。それによって彼らは、神様の偉大なる素晴らしさを、超自然的な明示によって体験したのです。御霊は私達に、御国を待ち望む様、“御国の一片” を与えてくださったのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;黙示録に書かれている終わりの日に、御霊はどんな花嫁をイエス様に備えられるのでしょうか。生温い人でしょうか。中途半端な愛、または冷めきった愛を持った人でしょうか。イエス様を熱愛していない人でしょうか。キリストとの親密な交わりを望まない人がいるでしょうか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;もしあなたが本当にイエス様を愛しておられるなら、常に彼のことが頭から離れないでしょう。あなたの歩みの一歩一歩に、主は臨在しておられます。ク リスチャンの中には、「それは死んでからの話だ。天国に行けば、すべては変わる。その時に主の特別な花嫁とされるのだ」と思っている人がいます。いいえ、 死が人を聖めるのではありません。御霊は今、ここにおられます。御霊は今生きておられ、あなたの内に働いておられます。あなたが死のこちら側にあるうち に、キリストに対する熱愛を生むために。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ローマ人への手紙8章26節に、御霊が信者の内にいかに強く働かれているかが記されています。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ここで使われている「うめき」という言葉は、ギリシア語で“熱望”すなわち、もっとキリストを切望すること、という意味があります。あまりにキリス トを切望し、その臨在にたたずんでいるので、深いうめきの他、言葉が何も出て来ないかも知れません。それは「イエス様、あなただけがこの世界での唯一の幸 せです。わたしはあなたの良さを体験しました。あなたのすべてを経験させてください」と願うことです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;これこそが、御霊の内に歩む者の印です。その人は、イエス様に対する強い欲求をもっています。パウロ同様、その人はこの世を去り、主とまみえる日を心待ちにしています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-5809669300422482822?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/5809669300422482822'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/5809669300422482822'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/07/blog-post_30.html' title='御国の前触れ'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-4397000768787752653</id><published>2010-07-29T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-07-31T05:51:30.261+09:00</updated><title type='text'>深夜零時1分前</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;サムエル記上13章で、サウルはすべての信者がいつかは経験しなくてはならない、決定的な瞬間に直面しました。それは、信仰によって神様を待ち望むか、我慢出来ずに自分の手でなんとかしようとするか、という決断を迫られる時です。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;サウルにとっての分岐点は、戦争を暗示する不吉な暗雲が、イスラエルの上に広がっていた時に訪れました。ペリシテ人は騎手、鉄製の戦車、最新兵器を 振り回す歩兵からなる、大軍を従えていました。一方のイスラエルは、全軍を通して、たった２本の剣しか持っていませんでした。その1本はサウルのもの、そ してもう1本は彼の息子であるヨナタンのものでした。残りの兵は全員、木製の槍や、農道具等、持ち合わせの兵器を使用せねばなりませんでした。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;この場面の1週間前、サムエルはサウルに、戦闘に行く前にギリガルにて彼を待つように命じました。預言者は7日後に来て、主に適切ないけにえを捧げると言ったのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;約束の7日が過ぎてもサムエルの姿は見られず、サウルの兵士達はまとまりを失い始めていました。それどころか、王は戦いに対して、主からの託宣を受けていませんでした。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;サウルはどうしたでしょうか。固く立ち、「例えサムエルが8日かかろうが、私は神様からの御言葉に固く立つ。生きるとしても死ぬとしても、私は主の 命令に従う」と宣言したでしょうか。いいえ。サウルは狼狽しました。周りの状況に飲み込まれてしまったのです。結局彼は、神様の御言葉を自分に良い様に解 釈し、自分のやり方を通しました。サウルはその場にいた祭司に、サムエル抜きでいけにえを捧げる様に命じました。このことによって、彼は主に対して重大な 罪を犯してしまったのです。（サムエル記上13:11〜12）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様が約束に遅れるということは、絶対にありません。主はサムエルがギリガルに向かっている道中の、その一歩一歩を知っておられました。主は預言者 を、天のナビゲーションシステムに従わせ、主が定められたその瞬間にギリガルに到着する様、完全に計画しておられたのです。本来ならサムエルは、7日目に はそこに着くことが出来ました。例えそれが、7日目の深夜1分前だったとしても。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様は歴史を通して、決して変わることがありません。そして今日も、主の民がこの掟に従うかに関心を持っていらっしゃいます。「主の御声に聞き従い なさい、そして主の御命令に背いてはなりません。」（サムエル記上12:15より要約）例え私達の人生が手に負えない状況であっても、それは問題ではあり ません。私達は、主にある完全な信頼の内に歩むべきなのです。例え絶望的な状況にあったとしても、恐れの内に行動を起こすべきではありません。むしろ、御 言葉が約束されている通り、神様が私達を救い出されるのを、我慢強く待つべきなのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;実際神様は、ペリシテ人の大軍に迫られていたサウルの、すぐ側に立っておられたのです。主はサウルが直面していた危機を御存知で、主の御目は、その詳細のすべてに注がれていました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達の神様は、あなたが直面している危機の詳細を、すべて見ることがお出来になります。主はあなたに押し迫る、人生の問題の一つひとつを見ておられ ます。そして日々、その状況が深刻化していることを御存知です。祈り、揺るぎない信仰と共に神様を待ち望む者は、大変な危険に遭遇することがありません。 そればかりか、神様はあなたの「これ程の借金をどうやって返済すれば良いというのか・・・結婚生活に全く望みが持てない・・・どうやったら仕事をクビにな らずに済むだろうか・・・」等という、恐れに満ちた思いを、すべて御存知です。しかし神様の御命令は真実です。「恐れず、わたしより先に進んではいけな い。あなたはただ、祈れば良い。そしてわたしに信頼しなさい。わたしに信頼を置く者を、わたしは祝福する」と。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様が教会に対して語られた、次の御言葉を見てみましょう。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」（ヘブル人への手紙11:6）「民 よ、どのような時にも神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。」（詩編62:9）「主を畏れる人よ、主に依り頼め。主は助け、主は 盾。」（詩編115:11）「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなた道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐに してくださる。」（箴言3:5〜6）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;不信仰は致命的で、そのもたらす結果は悲劇的です。もし私達が、主に頼るのではなく、自分の手で試みから逃げ出そうとするなら、恐ろしい結果に直面することになります。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-4397000768787752653?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/4397000768787752653'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/4397000768787752653'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/07/1.html' title='深夜零時1分前'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-4448949554132290480</id><published>2010-07-28T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-07-31T05:51:00.950+09:00</updated><title type='text'>霊的な良薬</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「敵をも愛しなさい」という神様の掟は、苦くてまずい薬のようです。しかし、私が小さい頃に飲まされたビーバー香油同様、それは癒しをもたらす薬です。正に「良薬口に苦し」ということです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;イエス様ははっきり、こう語られています。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしはあなたに言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」（マタイによる福音書5:43〜44）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;イエス様は、律法に反することを語られていたのでしょうか。そうではありません。イエス様は、律法に侵入していた肉の霊を翻そうとされたのです。当 時のユダヤ人は、ユダヤ人のみを愛していました。彼らは、異邦人の手を握ることや、さらには異邦人の衣が自分の衣に触れることすら許していませんでした。 しかしこれは、神様の律法の本質とは食い違っていたのです。律法は聖く、こう教えています。「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているな ら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。」（箴言25:21〜22）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達は政権にある者達の、みだらな行いを憎むことが出来ます。同性愛者や中絶者など、キリストを忌む者達の罪を憎むことが出来ます。しかし主は、彼 らを人間として、イエス様が彼らのために死なれた人々として、私達も彼らを愛する様、命じておられるのです。そして彼らのために祈る様、命じておられま す。もし私が、ある人の掲げている主義ではなく、その人自身を軽蔑するなら、私はキリストを代表出来ていません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私はここ、ニューヨーク市の五番街で、同性愛者のパレードを見ました。25万人もの人達が、多くは半裸で、「神様は同性愛者である」と記したサイン を掲げて歩いていたのです。また私は、彼らが行列から離れ、「神様はあなたの罪を憎んでおられますが、あなたを愛しておられます」というサインを掲げたク リスチャン達に、食って掛かっている姿を見ました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私は怒りで顔が真っ赤になりました。ソドムの様に、彼らの上に硫黄の火が降る様に求めたい気分でした。しかし私は反省し、心の中でこう自分に言いました。「私はまるで、イエス様を拒絶した人々の上に、火を降らせて滅ぼしをもたらすよう、弟子達が求めたのと同じである」と。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;同性愛は罪です。不貞も罪です。また許さないことや、 無慈悲も罪なのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;あなたの敵を愛しなさい。好戦的でうっとうしく思う様な罪人達を愛しなさい。彼らのために祈りなさい。迫害する者達を祝福しなさい。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;これこそ、イエス様が命じられたことです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ですから、これを実行しましょう。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-4448949554132290480?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/4448949554132290480'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/4448949554132290480'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/07/blog-post_28.html' title='霊的な良薬'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-5705405751604427795</id><published>2010-07-27T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-07-31T05:50:16.446+09:00</updated><title type='text'>ダニエル―異なるタイプの人</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ダニエルは自分が砕かれた者であることを語る、異なるタイプの人でした。「わたしは主なる神を仰いで断食し、粗布をまとい、灰をか ぶって祈りをささげ、嘆願した。わたしは主なる神に祈り、罪を告白してこう言った。」（ダニエル書9:3〜4）一方でダニエルは神様の御心を知っていたの で、時を読むことが出来ました．「わたしダニエルは文書を読んでいて、エルサレムの荒廃の時が終わるまでには、主が預言者エレミヤに告げられたように、 70年という年数のあることを悟った。」（ダニエル書9:2）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;どうやってダニエルはこの様に砕かれ、知識と識別を持つ人となったのでしょう。それは神様の御言葉を学ぶことから始まりました。ダニエルは、御言葉 が彼を支配するに委ねました。そして心に御言葉を蓄えていたので、聖句をよく引用しました。「モーセの律法に記されている通り・・・」（ダニエル書 9:13）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ダニエル書10章では、この信仰深い預言者が、キリストに関するビジョンを受けたことが記されています。「目を上げて眺めると、見よ、一人の人が麻 の衣を着、純金の帯を腰に締めて立っていた。体は宝石のようで、顔は稲妻のよう、目は松明の炎のようで、腕と足は磨かれた青銅のよう、話す声は大群衆の声 のようであった。」（10:5〜6）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;あなたの力のすべて、思いのすべてをもって、神様を追い求めると、今日心に誓って下さい。そしてかつてない程の愛と渇望をもって、御言葉に触れて下 さい。断食によって砕かれる様、また神様の重荷を背負うことが出来る様祈るのです。そして最後に、聖霊が天の恵みをあなたに与えることを妨げるものすべて を告白し、それらから離れて下さい。異なるタイプの人となる方法は、誰にでも与えられています。あなたはこの方法を用いられますか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;この様な方法によって、神様に触れられることが出来ます。ダニエルは、こう証ししています。「突然、一つの手がわたしに触れて引き起こしたので、わ たしは手と膝をついた。」（ダニエル書10:10）ここで使われている「触れる」という言葉は、“激しく掴む”という意味があります。ダニエルは「神様が 御手を私の上に置かれた時、私は顔を伏せました。それは私の内なるすべてのものが、主を求める様切迫した渇望を与えてくれました。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様が誰かの人生に触れられる時、これと同じことが起こります。その人はひざまずき、祈りの勇士となり、激しく主を求める様になります。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様は、何故特定の人にだけ触れてこの様な緊迫感を与えられるのだろうと、私はよく思います。何故一部の神様の僕が主を飢え渇いて求める時、他の信 仰深い人々は自分の道を歩み続けるのでしょうか。神様に触れられた僕達は、主と親密な関係を持っています。彼らは天から啓示を受けます。そして他の人はあ まり楽しまない、キリストとの歩みを楽しみます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;何故神様はダニエルの上に手を置き、彼に触れられたのでしょう。何故彼は他の誰も見ることが出来なかったことを見、聞くことの出来ないことを聞くこ とが出来たのでしょう。ダニエルはこう語っています。「この幻を見たのはわたしダニエルひとりであって、共にいた人々は何も見なかった。」（ダニエル書 10:7）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様は、神様のメッセージを語る声が必要だったのです。神様は祈る僕、神様の召しに対して信仰をもって応える者が必要だったのです。ダニエルこそ、 その人でした。彼は一日に3度、熱心に祈りを捧げていました．そして彼が川岸を歩んでいる時、キリストは彼に啓示を与えたのです。（ダニエル書10:7〜 9参照）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様がダニエルを神託として用いた理由は次の通りです。1．ダニエルは祈りを止めなかったため（ダニエル書10:2〜3参照）2．ダニエルは社会と 教会の霊的堕落に関して、心を痛めていたため（ダニエル書9章参照）3．ダニエルは罪を隠したり罪から逃れたりしようとしなかったため　（ダニエル書 9:4〜5）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-5705405751604427795?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/5705405751604427795'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/5705405751604427795'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/07/blog-post_27.html' title='ダニエル―異なるタイプの人'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-6699201246916557352</id><published>2010-07-26T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-07-31T05:49:43.479+09:00</updated><title type='text'>聖霊が必要です</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ある人は救われてからもう何年も経っているでしょう。ある人は一年前に救われたかも知れません。またある人は数ヶ月前、もしくは数週間前に救われた ばかりかも知れません。罪から救われるということは、素晴らしいことです。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくされるのです。あなたが救われているという ことを、心から嬉しく思います。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;しかし、私達の主、イエス・キリストの良き勇士となるためには、ただ救われているだけでは十分ではありません。あなたには、もっと大きなものが与えられているのです。あなたは聖霊によるバプテスマを受けなければなりません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;パウロの時代、聖霊の存在を知らない人々がいました。「彼らに、『信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか』と言うと、彼らは、『いいえ、聖霊がある かどうか、聞いたこともありません』と言った。」（使徒行伝19:2）彼らは救われていましたが、彼らが聖霊によって満たされたり、聖霊のバプテスマを受 けたりしていなかったことがはっきり分かります。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達は、聖霊の力と御業によって救われると信じてます。しかし聖書はそれに加えて、聖霊による洗礼、満たしがあると語っています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;イエス様御自身も、弟子達と信者が聖霊によるバプテスマを受けるまで、彼らを世界に遣わされませんでした。もちろん弟子達は純粋な心を持っていたこ とでしょう。病む者を癒し、悪霊を追い出す信仰を持っていました。御言葉を信じ、すでにキリストについて伝道し、改宗者が生まれていました。彼らはイエス 様の甦りを目撃しました。これ以上に何が必要だというのでしょうか。彼らはイエス様のために、死ぬ覚悟が出来ていました。彼らのイエス様に対する愛が、国 々に出て行き神様の御業をするには十分でなかったのでしょうか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;愛する皆さん、そのどれも十分ではなかったのです。彼らにはさらに必要なものがあったのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受 ける。そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」（使徒行伝1:8）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;本当に聖霊が欲しいですか。聖霊があなたの上に降り、火によってあなたにバプテスマを授けられるのを求めておられますか。聖霊はあなたのために与え られているのだ、と完全に確信していなければなりません。自分では何者でもなく、何も持たず、聖霊による導きと力なしでは何も出来ないのだ、と確信するに 至る必要があります。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;聖霊が今もバプテスマを授け、信者の上に降り、その体を所有しているのだと、知るべきです。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名に よって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもにも、遠くにいる すべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」（使徒行伝2:38〜39）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;毎日、毎時、世界中で多くの人々が聖霊によるバプテスマを受けています。彼らは聖書に記された約束を目にしたか、それにまつわるメッセージを耳にしたのでしょう。それで彼らは約束の成就を主張し、洗礼を受けることが出来たのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;聖霊によるバプテスマは、特に終わりの日に生きている人々に与えられています。「終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。そのときには、わた しの霊を注ぐ。」（使徒行伝2:17〜18より抜粋）聖霊は求める者に与えられます。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」（ルカによる福 音書11:13）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様はあなたが霊の内に生き、歩むことを望んでおられます。何か必要がある時、誰か他の人にその必要を満たしてもらう様、頼むべきではありません。 私達は、聖霊が働かれるままに神様の御言葉を語り、  病む人の上に手を置き、悪霊を追い出す様に召されているのです。私達は聖霊と力に満たされた証し者として召されているのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-6699201246916557352?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6699201246916557352'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6699201246916557352'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/07/blog-post_26.html' title='聖霊が必要です'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-664325045481675761</id><published>2010-07-23T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-07-23T03:00:02.927+09:00</updated><title type='text'>御言葉による支配</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;もしキリストが王国の支配者であり、私達がその支配下にあるなら、私達の人生はキリストによって支配されなければなりません。ではイエス様によって 支配されるとは、実際どういうことを意味するのでしょうか。&lt;br /&gt;辞書によると、「支配する」とは、“導くこと、指導すること、すべての行動やその権力 下にある者の態度を管理すること”とあります。要するに、一つひとつの考えや言動を含む、私達の行動や態度のすべてを、イエス様が管理されるのを許すとい うことです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;また、イエス様は世界のすべての国々を統べ治めておられます。聖書はこう語っています。「神はとこしえに力強く支配し、御目は国々を見渡す。背く者 は驕ることを許されない。」（詩編66:7）「主は天に御座を固く据え、主権をもってすべてを統治される。」（詩編103:19）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;騙されてはなりません。アメリカ合衆国は、共和党や、民主党、もしくはどんな人間の権威によって支配されているのではないのです。経済界や、大企業 によって支配されているのでもありません。どんな力―この世の力も超自然の力も―合衆国やその他のどんな国をも支配することは出来ません。それが出来るの は、神様だけです。神様は王の王、主の主として、天の御座からすべての被造物を管理し、統べ治めておられます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;全米を通して、モラルの低下、オカルト団体の増加、逸脱した性の問題、無神論者のはっきりした主張などが見られます。クリスチャンの中には、地獄か らの大群が、サタンの闇の王国を建て上げるために、米国をじわじわと占領していっている、と不安を抱く人達がいます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;しかし私達は恐れる心配などありません。イザヤはこう語っています。「主は、逆らう者の杖と支配者の鞭を折られた。ああ、お前は天から落ちた明けの 明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた。もろもろの国を倒した者よ。しかし、お前は陰府に落とされた、墓穴の底に。お前を見る者は、まじまじと見つ め、お前であることを知って、言う。『これがかつて地を騒がせ、国々を揺るがせた者か。』」（イザヤ書14:5、12、15〜16）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;愛する皆さん、私達の神様は、サタンのことをほんの少しも心配しておられないのです。悪魔がこの国を襲っていると、私達が目にするものに対して、神 様は全くやきもきしておられません。たった一言の御言葉によって、サタンは永遠に消え去り、永遠の苦しみを味わうのです。ですから、私達はどんな悪をも恐 れる必要がないのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様の王国、すなわち神様の民の心の内に建て上げられた王国の他には、どんな国家も完全かつ力強い神様の支配を見ることが出来ません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;イエス様は言われました。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」（ルカによる福音書17:21）そして私達の心の中にある、この王国におい て、キリストは私達を導き、癒し、私達の言動と態度を管理されるのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。」（イザヤ書9:6）この聖句は、永遠に続くイエス様の権威について語っているの です。しかしここにはもう一つの、重要な意味があります。それは、私達が常に私達の支配に対する服従を増すべきだということです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;正直に、自分は日々イエス様の支配に対する服従を増している、と言うことが出来ますか。あなたの言動を少しずつ、イエス様の権威の下に委ねています か。&lt;br /&gt;もしイエス様が天国におられ、御父の右の座からすべてを治めておられるなら、どうやって地上での王国を統べ治められているのだろう、と思われ るかも知れません。この答えは、ヘブル人への手紙に見つけることが出来ます。この手紙の著者は、旧約聖書の時代には、神様が預言者を通して語られたと記し ています。しかし今日、主は御子を通して語られるのです。（ヘブル人への手紙参照1:1〜2）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;イエス様は私達に与えられた、肉となった聖なる御言葉、明示的な神様のメッセージです。代わりに御父は聖霊を私達に与え、イエス様が地上にて語られ た御言葉を思い出させてくれます。ですから、イエス様は文字として綴られた、明白な神様の御言葉によって、私達を統べ治めておられるのです。聖書は私達の 王の笏であり、それを通して神様の御言葉を私達に示してくださいます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;もし書面として与えられている神様の御言葉によって支配されるに任せた人の証しを読みたいと思われるなら、詩編119:11にそれを見ることが出来 ます。「わたしは仰せを心に納めています。あなたに対して過ちを犯すことのないように。」（119:105, 123, 133,  162をも参照のこと。）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-664325045481675761?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/664325045481675761'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/664325045481675761'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/07/blog-post_23.html' title='御言葉による支配'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-7774420219555834327</id><published>2010-07-22T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-07-22T03:00:02.882+09:00</updated><title type='text'>恵みの成長を妨げるもの</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;エペソ人への手紙4章31節において、パウロはキリストの恵みにおける成長を促すために、私達が生活から取り除かなければならないものを列挙してい ます。「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達はパウロが並べたこれらの問題を、軽視するべきではありません。私達が恵みにおいて成長するなら、これらのことに直面しなければならないと、パ ウロは語っているのです。もしここでパウロの挙げている問題を無視するなら、あなたは聖霊を悲しませることになります。あなたの成長は妨げられ、あなたは 霊的なゾンビとなってしまうでしょう。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;パウロが挙げた最初の３つ、無慈悲、憤り、怒りは、理解し易いと思います。無慈悲とは、過去の傷を手放そうとしなかったり、過去の過ちを許さなかっ たりすることです。憤りとは、激しい怒りと共に、復讐を望むことです。怒りとは激高、すなわち瞬間的な憤激や、誰かに向かってじわじわと憤りを燃やすこと です。悪意とは、破壊的な言葉を発すること、すなわち誰かを立て上げる言葉を発することと正反対のことです。悪意を持って語る言葉とは、敵意に満ち、誰か を傷つける言葉のことです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;わめきとは何にも無いことに対して、突然爆発すること、すなわち必要のない大騒ぎをし、無意味に大きな雑音を立てることです。些細なことを取り上げ て大きな問題としたり、癒しや平和をもたらす代わりに修羅場を作り出したりすることで、私達はわめきます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;パウロのリストの最後はそしりです。そしりとは、誰かが苦しむことを望むことです。多くのクリスチャンにとって、そしりとは、自分を苦しめた人を神 様が懲らしめられるのを望むことです。それは非道な霊であり、大抵心の奥底にしまい込まれています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;パウロが「これらを一切の悪意と一緒に捨てなさい」と言ったのは、即席の解決について語っているのではありません。彼は長い時を要する、成長過程に ついて説明しているのです。時に私達は、これらの悪意をコントロールすることに失敗するかも知れません。しかし私達がすぐに悔い改め、その人との関係の修 復に徹するなら、これらの問題は時が経つにつれて消え去っていきます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-7774420219555834327?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/7774420219555834327'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/7774420219555834327'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/07/blog-post_22.html' title='恵みの成長を妨げるもの'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-2007585922926030931</id><published>2010-07-21T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-07-21T03:18:26.077+09:00</updated><title type='text'>爆発的な成長</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達が私達を苦しめる人達の成長を促す時、私達は恵みにおいて、爆発的に成長します。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神 の聖霊を悲しませてはいけません。」（エペソ人への手紙  4:29〜30）ここでパウロが用いている“造り上げる”という言葉の語源には「家を建てる者」という意味があります。またその語源は「立て上げる」とい う語源から来ています。要するに、造り上げる者は皆、神様の家、すなわち教会を建て上げる者なのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;パウロはここで、私達が語る言葉について３つの重要な点を挙げています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;1．私達の言葉は、神様の民を立て上げるために使うべきだということ&lt;br /&gt;2．私達の言葉は、人々に恵みを与えるために使うべきだということ&lt;br /&gt;3． 私達の発する言葉によって、聖霊を悲しませることがあるということ&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;過去の偉大なる信仰に満ちた人々の伝記を読むと、私は深く反省させられます。彼らは御国中心の考え方をしていました。御言葉に熱心で、よく祈り、恵 みにおける成長を願っていました。彼らの人生で最も私の心を打つのは、彼らのキリストに対する献身的な姿勢や、祈りの激しさだけではありません。もちろ ん、これらは彼らの内に生まれた、素晴らしい霊の実です。しかしそれよりも、私が彼らの共通点として見るのは、いかに彼らが恵みにおける成長を望み、聖い 言葉が流れ出す、純粋な心が与えられる様願っていたか、ということです。「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。」（マタイによる福音 書12:34）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私が自分の為ではなく、他の人々の為に生きようとする時、恵みにおいて成長することが出来ます。この恵みにおける成長は、家庭において、伴侶や子ど も達にキリストらしさを証しすることから始まらなければなりません。自分の家庭こそ、「自分がいつも正しい」という思いを捨て去ることによって、すべての 問題や誤解に打ち勝つ場所とされるべきなのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;いつも自分が正しくなければいけない、と思わなくなることで、かつて無い程に神様の恵みを楽しむことが出来るようになりました。私達がつまらない論 争に勝とうとするのを止め、お互いを立て上げることを求めるなら、すべての口論や権利の主張はなくなります。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;皆さん、恵みにおいて成長しようではありませんか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-2007585922926030931?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/2007585922926030931'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/2007585922926030931'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/07/blog-post_21.html' title='爆発的な成長'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-4771896030475270906</id><published>2010-07-20T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-07-21T03:17:39.921+09:00</updated><title type='text'>異なるタイプの僕達</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;旧約聖書に記されている信仰に満ちた人の偉業を読む時、私の心は燃やされます。この神の僕達は、神様の御名に対して重荷を持ち、今日のクリスチャン の多くが驚きを覚える様な、力ある業の数々を成し遂げました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;旧約時代に生きたこの聖徒らは、神様の御言葉なしに進むことを岩の様に固く拒絶しました。そして彼らは神様の宮の堕落に対し、幾日にも亘って涙を流 し嘆きました。彼らは食べることも、飲むことも、体を洗うことも拒否しました。頭から髪の毛の束を、またヒゲを引き抜きました。予言者エレミアは、365 日もの間、神様の来るべき裁きを警告し続け、エルサレムの街角で身を横たえました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;この聖徒達は、一体どこからその霊的な権力とスタミナを得ていたのでしょうか。彼らは全く異なる種類の人達、今日の教会で見られる僕達とは全く異な るタイプの僕達だったのです。私は自分を彼らと、又彼らの歩み方と比較することは出来ません。私は完全に彼らの様な者には、なれていません。実際、彼らの 様な人は、誰一人として知りません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;このことは、私の心を乱します。聖書はこれらの旧約時代の僕達が行った偉業は、私達の教訓として記されている、と語っています。「これらのことは前 例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。」（第一コリント人への手紙 10:11）彼らの話は前例として、いかに神様の心を動かすか、またいかに堕落した人々を悔い改めに導くかを示すために記されているのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;では、この聖徒達は特別な人種だったのでしょうか。彼らは、はっきり心に決めた宿命を抱き、私達の時代では見られない超自然的な力を受けた、スー パーマンの様な人達だったのでしょうか。全くそうではありません。聖書は、彼らがいかに私や皆さんと全く同じ様に、肉による熱情に悩まされていたかを記し ています。（ヤコブによる手紙5:17参照）事実、彼らの前例は、私達が従うべき模範となってくれています。彼らには、神様の働きを促す様な性質がありま した。だからこそ神様は、彼らを用いて御業を成そうとされたのです。そして神様は今日私達にも、彼らと同じ性質を求める様、促しておられます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;エズラは国家全体を目覚めさせた、信仰に満ちた神の人でした。聖書は、神様がエズラの上に御手を置かれたと語っています。エズラはこう証ししていま す。「わたしは、わが神なる主の御手の加護によって勇気を得た。」（エズラ記7:28）言い換えるならば、神様は御手を伸ばされ、エズラを抱き、彼を異な る者へと変えられたということです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様は何故、エズラに対してこうなされたのでしょうか。当時のイスラエルには、何百人という書記官がいました。彼らは全員、神様の御言葉を学び、人 々にそれを説明するという、同じ召しを受けていました。何がエズラを、他の書記官とは異なる者にしていたのでしょうか。何が主に、この僕の上に御手を置く 様、そしてエルサレム再建の為に、彼を5万人の頂点に立たせる様、導かれたのでしょうか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;聖書はその答えを記しています。「エズラは主の律法を研究して実行し、イスラエルに掟と法を教えることに専念した。」（エズラ記7:10）答えは簡 単です。エズラは自分で決断したのです。彼は何事よりも、ただ神様の御言葉を求め、それに従おうと決心しました。そしてその決断からそれることがありませ んでした。彼は自分自身にこう言い聞かせたのです、「私は御言葉の弟子となる。読むものすべてを実行に移すのだ」と。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様がエズラの上に御手を置かれる前から、彼は御言葉を求めることに熱心でした。彼は御言葉が自分を探り、洗い出し、すべての肉と霊の汚れから清め るままに委ねました。エズラは飢え渇いて御言葉を求め、そこに喜びを見いだしました。彼は御言葉が、神様の選ばれたどんな召しにも答えられる様、彼の心を 整えられるままに委ねました。だからこそ、神様は彼の上に御手を置かれ、彼に油を注がれたのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-4771896030475270906?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/4771896030475270906'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/4771896030475270906'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/07/blog-post_20.html' title='異なるタイプの僕達'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-8086991508346925953</id><published>2010-07-19T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-07-21T03:17:09.460+09:00</updated><title type='text'>神様の特別部隊</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;米国軍隊の特別部隊について耳にされたことがあるでしょうか。彼らは特別な訓練を受けた、軍隊の中の軍隊であり、非常に熱心なエリート集団です。特 別部隊は、上官によって招集された、完全なるボランティアによって構成されています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;アフガニスタンでの戦争が始まる前、ウサマ・ビンラディンはアメリカ軍が弱く、臆病で、山岳での戦いに対して訓練がなされていない軍隊である、と発 言しました。彼はタリバン軍が、アメリカ部隊を侮辱と共に帰還に追い込むと予測していました。しかし彼は特別部隊のことを考慮していなかったのです。この 恐れを知らない部隊は、たった2,000人でアフガニスタンに侵入しました。数日の間に、敵の本拠地を完全に把握することが出来たのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;霊的な領域において、神様はこれと同じ様なことをなされている、と私は信じています。祈っている間に、私は聖霊によって感銘を受けました。神様は天 において、極秘作戦にあたっておられているのです。神様は、通常部隊の中から、ボランティアによるエリート軍を、軍隊の中の軍隊として起こそうとしておら れます。この特別部隊は、神様が敵との戦いにおいて、直接触れ、動かすことが出来る勇士達から構成されています。この状況は、サウルの特別部隊について記 した箇所で、目にすることが出来ます。聖書はこう記しています、「神に心を動かされた勇士たちは、サウルに従った。」（サムエル記上10:26）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;今日の神様の特別部隊は、若者も、中年者も、年配者をも含みます。彼らは皆、隠れた部屋においての祈りによって、ずっと訓練されてきました。イエス 様と親密な時間を持つことで、彼らはどの様に戦えば良いかを学んできたのです。ですから、彼らは例えそれが山岳戦であっても、盆地での戦いであっても、ど の様な霊的領域においても戦う術を知っています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様の軍隊の中の軍隊は、すべての国々に置かれています。その戦略はまだ極秘となっているかも知れませんが、そのうちにキリストの御名と力によって 行われる戦術が、明らかにされることでしょう。神様の御言葉が成り、飢饉は終着に向かっています。主は勝利を取られます。その御言葉は、すべてに打ち勝ち ます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「自分の神を知る民は確固として行動する。」（ダニエル書11:32）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」（イザヤ書40:31）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-8086991508346925953?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/8086991508346925953'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/8086991508346925953'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/07/blog-post_19.html' title='神様の特別部隊'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-1894678343336445696</id><published>2010-07-16T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-07-21T03:16:46.075+09:00</updated><title type='text'>神の家族</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;キリストの御名による力を主張することは、難しく、隠された神学的な真実ではありません。私の書斎には、イエス様の御名についての み書かれた本がたくさんあります。これらの著者達は、キリストの御名に秘められた奥義を、信者達がさらに深く理解出来る様にと、執筆したのです。しかしこ れらの本の多くは、あまりに深くまで探求しているため、読者の理解力を遥かに超えてしまっています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;イエス様の御名について私達が知るべきことは、幼子でも理解出来るような、非常に簡単なものである、と私は信じています。それは基本的にこういうこ とです。「イエス様の御名によって求める時、それはイエス様御自身が御父にお願いしているのと同じことなのだ、と私達が完全に確信するべきである」という ことです。「これは本当だろうか」とあなたは思われるかも知れません。その理由をご説明しましょう。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達は、神様がいかに御子を愛しておられるかを知っています。神様はイエス様と共に語り合い、イエス様が地上におられた間、彼を教え続けられまし た。そして神様は、イエス様の祈りをすべて聞かれただけでなく、そのすべてに対してお答えになられました。イエス様はこのことについて、証ししておられま す。「神様はいつでも、わたしに耳を傾けておられる」と。言い換えれば、御父は御子の願いを、一度も退けたことがないということです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;今日、イエス様を信じる者は皆、彼の御子としての権利を衣としてまとっているのです。そして天のお父様は、心から私達を御自身の子どもとして受け入 れてくださいます。何故でしょうか。それは私達が、キリストと霊的に結ばれているからです。十字架と復活を通して、イエス様は私達とお父様を結びつけてく ださいました。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。わたしが彼らの内におり、あなた がわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」（ヨハネによる福音書17:21〜23より抜粋）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;簡単に言うなら、私達は今や神の家族である、ということです。御父と一つであり、また御子とも一つなのです。私達は養子縁組をしていただき、すべて の子どもが受け取る相続権を完全に与えていただきました。すなわち、天におけるすべての力と富は、キリストによって、すべて私達に与えられているというこ とです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;“イエス様のお名前を通して”祈ることは、単なる方程式ではありません。このフレーズを口に出すことによって、力が生まれる訳ではないのです。その 力は、イエス様が私達の主張を取り上げ、御自身の持つ特権によって私達を御父の元に導いてくださる、と信じることから来ます。イエス様は私達の代弁者、す なわち私達の代わりにお願いしてくださる方なのです。その力は、御父が御子の願いを退けたことがなく、私達が御父の御子に対する誠実さの恩恵を被る者であ ると、完全に信じることから来ます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-1894678343336445696?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/1894678343336445696'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/1894678343336445696'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/07/blog-post_16.html' title='神の家族'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-6487461396967728907</id><published>2010-07-14T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-07-16T05:10:45.253+09:00</updated><title type='text'>地獄を揺り動かす祈り</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ダニエル書が書かれた時、イスラエルはバビロンにて捕囚とされていました。そして長年のミニストリーを経て、6章でダニエルは80歳になっていまし た。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ダニエルは常に祈りにある人でした。そして年老いた今も、ゆったりした生活を送ろうという気はありませんでした。ダニエルが落胆したり、燃え尽きた りしたとは、聖書のどこにも記されていません。その反対で、ダニエルは始動しかけたところでした。聖書は、80歳になっても、彼の祈りが地獄を揺り動か し、悪魔を怒らせたと記しています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ダレイオス王はダニエルを王国において、最も高い位に昇進させました。彼は3人いた大臣の一人で、他の2人と共に、王子と120地方からの総督を統 べ治めていました。ダレイオス王は、他の2人よりもダニエルを気に入っており、彼に政務と、裁判官や知識人達を教える担当の長としました。（ダニエル書 6：3）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;もちろんダニエルは、非常に忙しい預言者でした。多忙なスケジュールに、長時間の会議の数々と、彼に圧し掛かっていた圧力は想像するに、た易いもの でしょう。しかしダニエルから祈りを取り上げるものは、何もありませんでした。どんなに忙しくても、彼は決して祈ることを止めなかったのです。祈りは、彼 にとって最も大切な任務であり、他のいかなることよりも優先されるべきものであり続けました。一日に3度、彼は大臣としての責任や要求や義務から抜け出 し、主との時間を持ちました。彼はただ、周りのすべてから撤退し、祈ったのです。そして神様は、彼に答えられました。ダニエルは彼の知識、導き、お告げ、 預言のすべてを、ひざまずいて祈る時に与えられたのです。（ダニエル書6：10参照）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;地獄を揺り動かす祈りとは一体どんな祈りだろう、とあなたは思われるかも知れません。それは国や教会が堕落してしまっているのを目にする、従順で信 仰に満ちた主の僕から来ます。この人はひざまずき、主に向かって叫びます、「主よ、私はこの環境に馴染んでしまいたくありません。この堕落した時代にあっ て、あなたが力を握っていることを証しする、生きた例として下さい。他の人が祈っているかどうかは、関係ありません。私はあなたに向かってお祈りしま す。」と。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;忙し過ぎてお祈り出来ないのですか。「祈りによって受け取ります」と言っているのですか。「神様は私の心を御存知だ。私がどれだけ忙しいかも知って おられる。日中を通して、頭の中でお祈りしている」と自分に言い聞かせておられるかも知れません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様は、私達と二人きりで、ゆとりをもった時を持ちたいと願っておられます。そうならば、祈りはただリクエストを伝えるだけの時間ではなく、愛と献 身の行いとなります。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-6487461396967728907?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6487461396967728907'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6487461396967728907'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/07/blog-post_14.html' title='地獄を揺り動かす祈り'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-8191694614304589403</id><published>2010-07-13T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-07-14T06:01:27.429+09:00</updated><title type='text'>キリストにある力を主張する</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;イエス様が地上での最後の数時間を、弟子達と共に過ごしている時、イエス様は彼らに言われました。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名に よって何かを父に願うならば、父はお与えになる。」（ヨハネによる福音書16：23）そしてこう命じられました、「今までは、あなたがたはわたしの名に よっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」（16：24）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;何と素晴らしい御言葉でしょうか。この場面において、キリストは弟子達に、御自身が彼らを放れ去ること、そしてしばらくの間、彼らを見ることが出来 ないことを、伝えられました。しかし同時に、イエス様は彼らに、天におけるすべての祝福へのアクセスを保障されたのです。彼らはただ、イエス様の御名に よって願えば良いということです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;弟子達は、扉を叩き、探し、神様のものを求めることを、イエス様から個人的に教わりました。彼らはキリストの内にある、御父の恵みについて―その恵 み、権威、力のすべてについて―を直接教わったのです。そして彼らは、イエス様が人々にこう語るのを聞きました。「はっきり言っておく。わたしを信じる者 は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあ げよう。」（ヨハネによる福音書14：12～14）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;弟子達に対するキリストの言葉は、私をチャレンジします。「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。」（ヨハネによる福音書 16：24）この箇所を読むと、主が私にささやかれる声が聞こえてきます。「ディビッド、あなたはわたしが与えた力を主張していない。あなたはただ、わた しの名によって願えば良いだけなのに」と。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;すべての肉においての罪よりも、神様の心を悲しませるもの、それは、私達がいかに神様の約束を信じていないかです。また神様が、私達の祈りに答えら れないのでは、という疑いを深めていることです。そして人々が、キリストの内にある力を、だんだん主張しなくなっていることです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;あなたがどれ程、キリストに似る者とされる様願ったとしても、神様の宝庫には、それをはるかに超える、霊的な知識の源が備えられています。大きな願 いを持ちましょう。知恵を、導きを、啓示を求めましょう。しかしこれらは、疑いではなく信仰によって、求めなければいけません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-8191694614304589403?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/8191694614304589403'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/8191694614304589403'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/07/blog-post_13.html' title='キリストにある力を主張する'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-8498183074188931314</id><published>2010-07-12T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-07-14T06:00:59.335+09:00</updated><title type='text'>あなたのキリストの偉大さ</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ヨハネによる福音書14章は、2つの素晴らしい約束を記しています。一つ目に、イエス様はこう宣言されています。「はっきり言っておく。わたしを信 じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかな えてあげよう。」（ヨハネによる福音書14：12～14）最後の節で、イエス様は単純かつ明確に、こう言われています、「わたしの名によって願うなら、そ れを叶えてあげよう」と。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;その2節後、イエス様はこう約束されています。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてく ださる。この方は真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。 この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに 戻って来る。」（ヨハネによる福音書14：16～18）ここでイエス様は、「わたしはあなたがたに真理の霊を授ける。そしてこの霊の力が、あなたがたの内 に留まるでしょう」と言われています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;この2つの素晴らしい約束は、イエス様がなされたものです。しかし、これら2つの間に挟まれた節を見てみて下さい。「あなたがたは、わたしを愛して いるならば、わたしの掟を守る。」（ヨハネによる福音書14：15）何故この言葉が、この場所に記されているのでしょう。キリストは私達にこう、語ってお られるのです、「従順さの問題が、これらの約束に関係しています」と。要するに、この2つの約束は、神様の御言葉を守り、それに従うことに関わっていると いうことです。私達がキリストにある力を主張するにあたって、一切障害となるものがない様、御言葉が与えられているのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私は、イエス様の御名によって、何も願わなかったり、小さいことしか願わなかったりすることは、イエス様に対しての侮辱にあたると確信しています。 毎年、多くのクリスチャン達が妥協してしまっています。彼らは最終的に、「救いさえあれば良い」というところに行き着いています。いつか御国にたどり着く こと以外は、何の期待も持っていないのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;あなたに尋ねます。「あなたはキリストに対する期待の、最終段階にありますか。キリストの恵みと力によって救われること以外に、何の期待も抱いてい ないのですか。あなたのキリストは、この日を生きるのに必要な力を与えるだけでお終いですか。キリストは、サタンからの攻撃が大半の人生において、時々平 安と喜びの場所となっているだけでお終いですか。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;これらの箇所は、私にこう教えてくれています、「私のイエス様の大きさは、私の願いの大きさに比例しているのだ」と。しかし残念ながら、多くのクリ スチャンは不信仰によって、キリストを力無いものにしてしまっています。愛する皆さん、私は私のキリストを制限してしまいたくありません。そうではなく、 地獄中の悪魔達に、私の神様がいかに大きいかを、私の願いの大きさによって示してやりたいのです。私はキリストに、さらに多くを期待しています。私の人生 において、かつて無いほど、大きなキリストとなって欲しいのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-8498183074188931314?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/8498183074188931314'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/8498183074188931314'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/07/blog-post_12.html' title='あなたのキリストの偉大さ'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-5284961508847011278</id><published>2010-07-09T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-07-14T06:00:33.254+09:00</updated><title type='text'>御手に記されたあなたの名前</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達には祈りによって、素晴らしい権威が与えられています。では実際、一体どの様にして、この権威を用いるべきなのでしょうか。それは、キリストの 御名を通してです。私達がイエス様の内に信仰を持った時、イエス様は私達に、御自身の御名を与えてくださいました。イエス様のいけにえによって、「私はキ リストのものです。私は彼の内にいます。彼と一つとされています」と言う事が出来る様になりました。すると素晴らしいことに、イエス様が私達の名前を手に してくださったのです。大祭司として、イエス様は私達の名前を、その御手に記されました。ですから私達の名前は、イエス様の御名の下で、天に登録されてい るのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「キリストの御名によって」という言葉が、単に重要な方程式ではないということが、分かっていただけるでしょう。そうではなく、文字通りそれが私達 の立場を示しているのです。そしてその立場は、天のお父様によって承認されています。イエス様はこう言われています。「その日には、あなたがたはわたしの 名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがた が、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。」（ヨハネによる福音書16：26～27）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ここに、何故イエス様が私達に、彼の御名によって祈る様、命じられたかが記されています。「あなたがわたしの名によって願うなら、その願いは、わた しが父にお願いするのと同じ力と影響が与えられる。」言い換えるならば、私達の祈りが、御父の御座の前でイエス様の口から発せられたものと見なされる、と いうことです。同様に、私達が病む者の上に手を置いて祈るのならば、神様はそれを、イエス様が癒しをもたらすために、その人に手を置いているのだと見なさ れるということです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;これはまた、何故私達が恵みの御座に、大胆に近づくべきかを示しています。それは、受け取るためです。私達は確信を持って、「天のお父様、私は出て 行き実を結ぶよう、キリストの内に選ばれた者として、御前に立っています。今、私の喜びが満ち溢れるよう、大胆に願いを申し上げます」と祈るべきなので す。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私は多くのクリスチャン達が「イエス様の御名によってお祈りしたのに、聞かれなかった」と言うのを耳にします。この人達は、「イエス様の御名による 力を宣言しようとしたのに、うまくいかなかった」と語っています。私達の祈りが聞かれない理由は、たくさんあります。私達が罪を犯すことで、キリストとの 交わりが汚されてしまいます。それは、神様からの祝福をせき止めてしまう、障害となります。そして私達がそれらの罪を取り除くまで、神様は私達の祈りに答 えられません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;または、神様に対する私達の生温さや、中途半端な態度が障害となっているかも知れません。疑いによって、キリストの力が私達の内に流れ込むのを止め ているかも知れません。ヤコブはこう警告しています。「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。」（ヤコブの手紙1：6～7）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ヤコブは明確に語っています、「揺れ動くものは、神様から何も受け取ることが出来ない」と。ここでヤコブが使っている、「揺れ動く」という言葉は、 “決断していない”という意味があります。事実、この様な人達が神様にお願いをする時、彼らは神様を試しているのです。心の中で彼らは、「主よ、もし答え てくださるなら、あなたに従います。この祈りに答えてくださるなら、あなたにすべてを捧げます。でももし答えてくださらないなら、自分のやり方で生きてい きます」と。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;しかし神様は、下心のある取り引きをなされません。神様は私達の心を御存知で、御子に対しての決心がついているか否か、お見通しなのです。神様は、 キリストにすべてを委ねた者のために、キリストの内にある力を取っておかれます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-5284961508847011278?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/5284961508847011278'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/5284961508847011278'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/07/blog-post_09.html' title='御手に記されたあなたの名前'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-6338753730357722755</id><published>2010-07-08T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-07-14T06:00:04.800+09:00</updated><title type='text'>主はすべてを求めておられます</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。もはや泣くことはない。主はあなたの呼ぶ声に答えて、必ず恵みを与えられる。あな たの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ、ここを歩け。右に行け、左に行け』と。あなたたちは祭りを祝う夜のように歌い、笛に合わせ て進む者のように心楽しむ。」（イザヤ書18～19、  21、29より抜粋）イザヤは「もしあなたが、ただ主を待ち望むなら―再び主を呼び求め、主に信頼するようになるなら―主は私が言ったことすべて、またそ れ以上のことを成してくださいます」と言っているのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様がただ一言発せられるだけで、敵は私達の前に打ちのめされます。「アッシリアは主の声のゆえにおののく。」（イザヤ書30：31）愛する皆さ ん、神様に解決出来ない問題はありません。私達のために勝利出来ない戦いはありません。神様はそれを、口から出る御言葉だけで成されるのです。イザヤはこ う言っています、「主の息が焼き尽くす硫黄の流れのように、そこに臨む。」（イザヤ書30：33）　&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;しかし、すべてのことにおいて、神様に信頼することは、簡単なことではありません。最近のことですが、私はニューヨーク市にある私の教会の建物につ いて、主の御心を求めました。私は主にこう言いました、「天のお父様、このことについて、あなたに一切をお委ねします。私はあなたの御心を求めましたか ら、平安の内に待ち望みます」と。神様はこの様に返答されました。「ディビッド、あなたが自分の所有地や、財産など、物質的なものに関して、わたしに信頼 を置いてくれていることは素晴らしいことだ。しかし、あなたはまだ、自分の健康について、わたしを信頼していない。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私は自分の年齢を、よくわきまえているつもりです。そして自分がいなくなった後、家族がどうなるのか、非常に心配しています。主からの御言葉は、稲 妻の様に私に突き刺さりました。私は物質上の心配はすべて主の御手に委ねているのに、永遠についての心配は委ねられていなかったのです。それに気付き、私 は「主よ、あなたは私がすべてを委ねることを、求めていらっしゃるのですね」と祈りました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;そうです、聖徒なる皆さん、神様はすべてを求めておられるのです―あなたの健康も、家族も、将来も。神様はあなたに、すべての問題について神様に委 ねて欲しいと願っておられます。そしてあなたに、平安と、確信と、憩いの中で生活して欲しいと願っておられるのです。ですから、隠れた場所に行き、主と二 人っきりの時間を持って下さい。すべてを携えて、御前に行くのです。神様は、「あなたはわたしが背後から、『こっちに進みなさい、この道を歩みなさい』と 語る言葉を聞く」と約束してくださっています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;信仰を証明するものは、安らぎです。信頼し切った信仰は、心に平安をもたらします。そして真の信仰は、すべてを主の御手に委ねます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-6338753730357722755?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6338753730357722755'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6338753730357722755'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/07/blog-post_08.html' title='主はすべてを求めておられます'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-2385522470965875749</id><published>2010-07-07T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-07-14T05:59:40.257+09:00</updated><title type='text'>霊的な強さと信頼</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達がすべての必要を神様の御手に委ね、神様の御力に信頼を置く時、聖霊は私達に力を与えてくださいます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ルツはその良い例です。彼女は夫に先立たれてから、義理の母であるナオミと一緒に生活していました。ナオミはルツの将来と生活を心配していました。 ですから、彼女はルツに裕福であるボアズの元に行って身を横たえ、家系を絶やさない責任を果たすようお願いしなさい、と助言しました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;その夜、もみ殻を吹き分ける仕事が終わった後、ボアズは「山と積まれた麦束の端に身を横たえ」（ルツ記3：7）、毛布を被りました。翌朝目が覚めた 時、彼は自分の足元に女性が寝ているのを見て驚きました。（ルツがそこにいたことは、ふしだらなことではありませんでした。この様なことは、当時慣習的 に、よく行われていたことでした。）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ルツは彼に言いました、「どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。」（ルツ記 3：9）基本的に彼女が言いたかったのは、「同族の者としての責任を果たしてくれますか。私を養ってくれますか。」ということです。実際、彼女は「私と結 婚してくれますか」とお願いしたのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;これは決してずる賢い策略ではありません。ルツとナオミは、すべて神様の掟に従って行ったのです。キリストがルツの血統から来たことで、これが正し かったのだと分かります。ルツが帰宅した時、ナオミは彼女にこう尋ねました、「娘よ、どうでしたか。」（3：16）言い換えると、彼女は「婚約したルツと 呼ぶべきなの?それともまだ“やもめルツ”なの?」と聞いていたのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ルツはナオミに、一部始終を伝えました。ナオミの知恵に満ちた助言を聞いて下さい。「わたしの娘よ、成り行きがはっきりするまでじっとしていなさ い。あの人は、今日中に決着がつかなければ、落ち着かないでしょう。」（ルツ記3：18）ナオミはこのことについて祈り、神様の導きを求めていたので、神 様は彼女に助言を与えていました。神様は彼女に、家を絶やさぬ責任に関する律法のことを知らせました。（この概念はキリストの典型、また予兆となりまし た。）ですからナオミは、彼女とルツが、自分達の責任は果たしたという確信を持つことが出来たのです。次はじっと待ち、神様が約束を成就してくださるのを 信じる番です。彼女は、「ルツ、すべては主の御手にあります。落ち着いて、平静にしていましょう」と言いました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;平安と平和が、ナオミの家を覆いました。取り乱し、爪を噛み、「神様は本当に働かれるのかしら。いつ起こるのかしら」と心配する者は、誰もいません でした。この二人の信心深い女性は、落ち着いて、神様に賛美を捧げることが出来ました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;お祈りしていますか?信じていますか?主の救いをじっと待つ準備が出来ていますか?主はすべてを統べ治めていらっしゃいます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-2385522470965875749?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/2385522470965875749'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/2385522470965875749'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/07/blog-post_07.html' title='霊的な強さと信頼'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-1245872063076806553</id><published>2010-07-06T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-07-14T05:59:10.971+09:00</updated><title type='text'>祈りの民となること</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;エレミヤ書5章において、神様は「エルサレムの通りを巡り、よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか、正義を行 い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう。」と言われました。（エレミヤ書5：1）主が言わんとされていること、それは「もしわたしを 求める者が一人でもいるなら、わたしは憐れみを持とう」ということです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;バビロンでの奴隷生活にあった時、神様はダニエルをその様な人として見つけられました。そして今日、歴史上でかつてなかった程に、主はその様に、神 様を敬う人達を探しておられるのです。主は生垣を建て直し、隔たりに立つ、従順な僕達を探しておられるのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ダニエルの様に、その様な人は、神様の御言葉を手にしている時に見つけ出されます。聖霊がダニエルに降った時、彼はエレミヤ書を読んでいました。そ の瞬間に御霊が、イスラエルに神様の救いの時が訪れたのだと、明らかにされたのです。この啓示が与えられると、ダニエルは祈るように導かれました。「わた しは主なる神を仰いで断食し、粗布をまとい、灰をかぶって祈りをささげ、嘆願した。わたしは主なる神に祈り、罪を告白した。」（ダニエル書9：3～4）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ダニエルは、主の民が元通りに回復される準備が出来ていないと知っていました。しかし彼は、仲間の罪を非難したでしょうか。いいえ。ダニエルは、自 分を道徳的に堕落していた周囲の人々と同じ様に見なしました。「わたしたちは罪を犯し悪行を重ね、背き逆らって、あなたの戒めと裁きから離れ去りました。 主よ、恥を被るのはわたしたちです。あなたに対して罪を犯したのですから。」（ダニエル書9：5、8）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様は御自身の民を祝福されることを、強く望んでおられます。しかし、もし私達の心が、この世の霊によって汚染されているなら、私達は神様の祝福を 受け取る準備が出来ていません。ダニエルは、次の様な厳しい言葉を述べました。「モーセの律法に記されているこの恐ろしい災難は、紛れもなくわたしたちを 襲いました。それでもなお、わたしたちは罪を離れて主なる神の怒りをなだめることをせず、またあなたのまことに目覚めることもできませんでした。主はその 悪を見張っておられ、それをわたしたちの上に下されました。」（ダニエル書9：13～14）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様との歩みを見直し、私達が妥協している部分を聖霊に見せていただくようにしましょう。堕落した国家のために祈るだけではなく、「主よ、私の心を ご覧ください。私の内にはびこる、この世の霊をさらし出してください」と神様に叫び求めましょう。そうすることで、私達もダニエルの様に、家族や国家の救 いのために祈ることが出来る様になります。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-1245872063076806553?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/1245872063076806553'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/1245872063076806553'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/07/blog-post_06.html' title='祈りの民となること'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-287174990978510222</id><published>2010-07-02T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-07-14T05:58:42.539+09:00</updated><title type='text'>霊的な強さの秘密</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安 らかに信頼していることにこそ力がある』と。」（イザヤ書30：15）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ここに、神様の霊的な強さの秘密があります。「安らかに信頼していることにこそ力がある」ということです。ここで使われている「安らか」にという言 葉は、ヘブル語で“静養”という意味です。そしてこの「静養」とは、“落ち着いていること、穏やかであること、不安がないこと、閑静であること、下からの 支えがある所で横になること”という意味があります。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;今日のクリスチャンの中で、この様な安らかな信頼を持っている人は、あまりいません。多くの人は、たくさんの活動に参加し、富や財産や快楽を得よう と、必死に走り回っています。ミニストリーにおいても、神様の僕達は不安を覚え、カンファレンスや、セミナーや、ベストセラー本に答えを探そうと、躍起に なっています。誰もが導きや答え、また魂を静める何かを欲しがっています。しかし彼らは、主以外の所に、それを探し求めているのです。彼らは、神様がすで にこのことについて、イザヤを通して語られたのだと、気づいていないのです。もし彼らが、主こそすべての源であると、主に立ち帰らないならば、彼らの探求 は悲しみと混乱に終わってしまいます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;イザヤは、神様の義が私達の内で、何を成し遂げるべきなのかを、語っています。「正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえ に安らかな信頼である。」（イザヤ書32：17）もし私達が、本当に義の内に歩むなら、私達の人生は平安な霊と、心の安らぎと、神様との平和という実を生 むことでしょう。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;イザヤが周囲を見回すと、神様の民が、人に信頼を置き、馬や戦車により頼み、エジプトへ助けを求めて逃れていくのを見ました。多くの大使が行き来 し、リーダーたちは、緊急会議を開いて策略を練っていました。誰もがパニックに陥り、「どうしたら良いのだろう」と嘆いていました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;彼らに対してイザヤは、こう言いました。「こんな道を  たどる必要はないのです。堕落した道から、立ち帰りなさい。他人に信頼を置き、反抗した態度を悔い改めるのです。主に立ち帰りなさい。そうすれば、主はあ なたを平和で覆ってくださるでしょう。今あなたが直面しているすべての状況のただ中にあって、主はあなたに平安と安らぎを与えてくださいます。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-287174990978510222?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/287174990978510222'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/287174990978510222'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/07/blog-post.html' title='霊的な強さの秘密'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-935690044419390469</id><published>2010-07-01T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-07-02T05:47:25.587+09:00</updated><title type='text'>41 日目</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;もし、あなたが41日目、荒野で誘惑を受けられた直後のイエス様に遭遇したら、と想像してみて下さい。その御顔は輝いているでしょう。素晴らしい勝 利を得た後ですから、喜びに満ち、御父を誉め讃えていることでしょう。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;あなたは、活気と自信に満ちているイエス様を目にします。地獄の力に立ち向かう準備が整われたイエス様は、大胆に、闇に覆われた大都市に出て行きま す。福音を述べ伝え、神様の御言葉を確信していらっしゃいます。病人を癒され、御父が共にいてくださると御存知です。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;一方、あなたが自分の人生に目を向けると、正反対の状況を目にします。未だに乾いた荒野での体験が続いています。サタンからの激しい攻撃に耐え、あ なたの魂は元気を失っています。「イエス様は、私が通っている様な試練は経験されなかった。イエス様はこんなことでつまずかれたりしないだろう」と思われ るかも知れません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;あなたが牧師を見ると、とても強い信仰を持った人の様に見えるかも知れません。彼の言うことは、神様の臨在を確信している様に聞こえ、あなたは「彼 は私が抱えている様な問題など、経験したことはないだろう」と思うでしょう。もしあなたが真実を見ることが出来たなら、と思います。神様が彼をミニスト リーに導き出された後、彼が荒野で厳しい試練を経験したことを、あなたは知らないでしょう。彼が自分自身を失いそうになり、落胆にくれていたことを、あな たは知らないでしょう。そして彼の素晴らしい説教が、彼自身の試練から生まれたものだということを、あなたは知らないでしょう。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;パウロは、自分の義を他人の義と比較しないよう、警告しています。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしような どとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。」（第二コリント人への手紙10：12）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達は他人の心を読むことが出来ません。41日目に、イエス様が長く厳しい試練を終えられたばかりだということを、いったい誰が知り得たでしょう か。人々が目にした栄光が、彼らの経験したことがないような困難から生まれたものだということを、いったい誰が知り得たでしょうか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達は、イエス様だけを見つめるべきです。そして、彼の義と聖さのみに、より頼むべきなのです。主は私達全員に、同じ権利を与えてくださっていま す。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様は、あなたが試練にある時も、あなたを愛しておられます。神様御自身の御霊が、あなたを荒野へと導き出されたのです。しかし、御子はすでにそこ に行き、あなたが経験していることのすべてを知っておられるのです。あなたが主に完全なる信頼を置く様、神様が成されている御業の  完成を見ましょう。あなたはこの試練から、自信だけでなく、神様のもつ憐れみと、他人を助けるための力を持って、抜け出すでしょう。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-935690044419390469?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/935690044419390469'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/935690044419390469'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/07/41.html' title='41 日目'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-6909690718024651934</id><published>2010-06-30T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-07-01T05:49:03.967+09:00</updated><title type='text'>泣いてしまいなさい</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;あなたがひどく心を痛める時は、隠れた場所に行って、嘆きのすべてを泣きはらしてしまいなさい。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;イエス様は涙を流されました。ペテロも苦い涙を流しました。ペテロは、神様の御子を否定してしまったという痛みを抱えていました。しかしその苦い涙 は、彼の内に麗しい奇跡となって働いたのです。彼はサタンの支配を揺さぶるため、戻って来ました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;イエス様は、涙を流す者から、決して目をそらされません。こう書いてある通りです。「打ち砕かれ悔い改める心を、神よ、あなたは侮られませ ん。」（詩篇51：19）ただの一度でさえ、主は「しっかりしなさい！ちゃんと立って、必要な薬を服用しなさい。歯を食いしばり、涙を我慢しなさい」と言 われませんでした。それどころか、イエス様は私達の涙の一粒一粒を、永遠の容器に入れて保存しておられるのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;今あなたは痛みを覚えておられますか。ひどく傷ついておられますか。だったら、泣いてしまいなさい。涙が流れ落ちなくなるまで、泣き続けるのです。 しかし、痛みのためにだけ泣くのです。不信仰や自分に対する同情心から泣いてはいけません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;人生は進んでいきます。神様の助けによって、どこまで我慢することが出来るか、自分自身に驚くことがあるでしょう。幸せとは、痛みや傷を受けずに生 きることではありません。真の幸せとは、悲しみや痛みがあるにも関わらず、一日ずつ、その日を生きる方法を学ぶことです。それは、過去にどんなことがあっ たとしても、主にあって喜ぶことを学ぶことです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;あなたは拒絶感を抱いているかも知れません。見捨てられたように感じているかも知れません。信仰の弱さを覚えているかも知れません。打ちのめされ、 カウントをとられるのを待っている様に感じているかも知れません。時に、悲しみ、涙、痛み、空虚感に襲われるかも知れませんが、神様はそれでも御座にい らっしゃいます。神様は、神様なのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;あなたは自分自身を救うことが出来ません。自分の手で、痛みや苦しみを止めることは出来ません。しかし、私達の主があなたに訪れ、その愛に溢れた御 手であなたを引き上げ、再び天の御国へと導いてくださいます。主は死の恐怖から、あなたを救い出してくださいます。神様は、永遠に続くあなたへの愛を示し てくださいます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;だから目を上げて下さい。主にあって、元気を出して下さい。霧があなたを囲み、窮地から逃れる道が見えない時には、イエス様の御腕に身を委ね、ただ 主に信頼するのです。イエス様は、あなたの信仰、信頼感を求めていらっしゃいます。主はあなたがこう叫ぶのを望んでおられるのです。「イエス様は私を愛し ておられる！私と共におられる！主は決して私を見放されることはない。今、すべてを良きに働いてくださっている。落胆することなどない！私は決してサタン の餌食になったりしない！打ち負かされることもない！神様が私と共におられる。私は主を愛しているし、主は私を愛してくださっている！」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;結局は信仰が要となります。そして信仰は、次の絶対的な事実に、安らぎを得ます。「どのような武器があなたに対して作られても、何一つ役に立つこと はない。」（イザヤ書54：17）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-6909690718024651934?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6909690718024651934'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6909690718024651934'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/06/blog-post_30.html' title='泣いてしまいなさい'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-1206422711636216405</id><published>2010-06-29T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-06-30T05:59:28.039+09:00</updated><title type='text'>量り与えられる神様の栄光</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「また、彼らに言われた。『（中略）あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えら れ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。』」（マタイによる福音書4：24～25）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;イエス様はこれらの御言葉が、霊のない人の耳には奇妙に聞こえるかも知れないと御存知だったので、「聞く耳のあるものは聞きなさい」と言ってこのお 話を始められました。（マルコによる福音書4：23）イエス様は「もしあなたの心が、神様の御霊に対して開かれているなら、わたしがあなたに伝えようとし ていることを、あなたは理解するだろう」とおっしゃったのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;イエス様がこの箇所で伝えられたかったのは、一体何だったのでしょうか。イエス様は、私たちの人生における、神様の栄光を語っておられたのです。す なわちそれは、キリストの臨在のことです。要するに、主はその栄光に満ちたご臨在を、教会や個人に対して、異なる分量を分け与えられるということです。あ る人達は、神様の栄光を一切受け取りません。しかしある人達は、彼らの教会又は人生において、永遠に増し続ける、神様の栄光を受け取ります。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様は終わりの日に、神様の民の上に御霊を注ぐと約束されました。実際聖書はすべて、終末のときに勝利と栄光に満ちた教会に向けて書かれています。 イエス様御自身も、地獄の門は彼の教会に打ち勝つことが出来ないと語られました。私たちは、弱々しく足を引きずり、打ちのめされ、絶望し、すすり泣き、落 胆した状態で、御国に入る訳ではありません。そうではなく、私たちの主は、もっと素晴らしい力を、主の教会に与えてくださいます。この力は、しるしと不思 議によって表わされるだけではありません。それは神様の民によって表わされます。神様の御霊によって触れられた彼らの心が、素晴らしい変化を遂げることに よって表わされるのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;どの様にして、さらに素晴らしく、永遠に増し続けるキリストの栄光を、手に入れることが出来るのでしょうか。主は明確に語ってくださっています。 「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。」（マルコによる福音書4：24）イエス様はこう言っておられます。「あなたがわた しに委ねている心の分量に応じて、わたしはあなたに与えよう。あなたのわたしに対する態度に応じて、わたしもあなたに応じよう。あなたがわたしを量る分量 に応じて、わたしもあなたに量り与えよう。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;もしあなたが、神様の素晴らしい御業を当然のものと見なし、神様に怠惰とものぐさを量り与えているのなら、あなたにも無気力でうたた寝をするような 霊が与えられるでしょう。「怠惰は人を深い眠りに落とす。怠けていれば飢える。」（箴言19：15）結果として、あなたの魂は飢え渇き、満たされることが ないでしょう。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様の私達に対する愛、憐れみ、恵みは、限りがありません。ここでの問題は、どうやって神様の愛、憐れみ、恵みを手に入れるかではありません。そう ではなく、神様の栄光の恵みを、いかに私達の人生で体験するかということです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;イエス様は、私達が神様に分け与える心の分量に応じて、神様の栄光を私達に分け与えられると、はっきり語って折られます。私達に求められているこ と、それは礼拝において、忠実さにおいて、従順さにおいて、さらに神様に近づくことです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-1206422711636216405?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/1206422711636216405'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/1206422711636216405'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/06/blog-post_29.html' title='量り与えられる神様の栄光'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-7568555540861475982</id><published>2010-06-28T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-06-30T05:58:56.775+09:00</updated><title type='text'>傷つくとき</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;どの様にかは別として、私たちは皆、傷ついています。地上に生きる人は誰でも、その人に課せられた、痛みの重荷を背負っています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;あなたが深く傷つく時、誰もあなたの内なる恐れと、心の奥底でのもがきを鎮めることは出来ません。どんなに親しい友人も、あなたが経験している試練 や、あなたが受けた傷を理解することは出来ません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;傷ついた心に対する特効薬は、あるのでしょうか。深く、秘めた痛みに対する癒しは、存在するのでしょうか。砕かれた心が元通りにされ、以前よりさら に強められることは、可能でしょうか。はい、断言して言います。それは可能です。もしそうでないなら、神様の御言葉がただの作り話であり、神様が嘘つきと いうことになってしまいます。そんなことは、決してあり得ません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様はあなたに、痛みのない道を約束されませんでした。神様はあなたに、「逃げ道」を約束してくださいました。あなたの痛みを担うと、また、弱さに 負けそうになりよろめく時に、再び歩みだす力を与えると、約束してくださったのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私たちの愛に満ちた神様は、こうおっしゃいます。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方 です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」（第一 コリント人への手紙10：13）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;天のお父様は、あなたを揺るぎのない目で見守ってくださっています。あなたの一挙手一投足は、記録されています。涙の一滴一滴は、瓶に詰められてい ます。神様は、あなたの痛みのすべてに共感してくださっています。神様はそのすべての痛みを感じておられるのです。あなたが決して涙に溺れることのないよ うに、あなたの痛みが、あなたの思いを破壊させることのないようにしてくださいます。神様は、必要な時に必ず、あなたの涙を拭き、悲しみの代わりに喜びを 与えるために来てくださると、約束してくださっています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;あなたには、主にあって心に喜びを抱く力が与えられています。神様の御目は、あなたに注がれています。そして神様はあなたに、立ち上がり、疑いを生 む恐れを振り払うよう、命じておられます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-7568555540861475982?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/7568555540861475982'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/7568555540861475982'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/06/blog-post.html' title='傷つくとき'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-5077907462763388939</id><published>2010-04-22T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-06-05T00:55:50.315+09:00</updated><title type='text'>創造の前から召されている</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;使徒パウロは、神様についてこう語っています。「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたち の行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト･イエスにおいてわたしたちのために与えられました。」（第二 テモテへの手紙1：9）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;キリストにある人は誰でも、主から召命を受けています。そして私達は皆、同じ任務を与えられています。それは神様の御声を聞き、御言葉を宣べ伝え、 人を恐れず、どのような試みにあっても、主により頼む、ということです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;事実神様は、預言者エレミヤを召命した時に、彼と同じ約束を結ばれました。（エレミヤ書1：1～10参照）エレミヤと同じ様に私達も、世に対して何 を語ろうか、事前にスピーチを準備する必要はありません。神様は、必要なその時に、私達の口に御言葉を与えられると、約束して下さいました。しかしそれ は、私達が神様に信頼する時に、初めて起こるのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;パウロは、多くの人が宣教者、教師、使徒に任命されており、彼らはそのために苦しみを受けると語っています。彼は自分自身も、その内の一人として数 えています。「この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのような苦しみを受けているのですが、それを恥じ ていません。」（第二テモテへの手紙1：11～12）彼は、「神様は私に、聖なる仕事を与えて下さいました。そしてその召しの故に、私は苦しまねばなりま せん」と言っているのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;聖書は、パウロが他の聖職者が過去に経験をしたことの無い程の試練を受けたと、記しています。サタンは何度も、彼を殺そうとしました。宗教家と呼ば れる人達も、彼を拒絶し、笑いものとしました。時には彼の支持者たちでさえ、打ちのめされ、裏切られたままの状態で、彼を見捨ててしまいました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;しかしパウロは、人の前で決してうろたえたりしませんでした。彼は世にあって、決して気落ちしたり、辱めを受けたりすることがありませんでした。そ してパウロは、決して燃え尽きたりしませんでした。どんな時でも、必要な時に、彼は神様から来る油注がれた御言葉を語りました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;実際パウロは、決して揺らぐことがなかったのです。彼は決して、神様に対する信頼を失いませんでした。それどころか、彼は「わたしは自分が信頼して いる方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです」と証ししました。（第二テモテ への手紙1：12）彼は、「私は自分の命を完全に、主に委ね切っています。生きようとも、死のうとも、私は神様のものです」と言っています。そして彼は、 若いテモテにも同じ様に生きる様、駆り立てました。「キリスト･イエスによって与えられている信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としな さい」と。（1：13）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-5077907462763388939?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/5077907462763388939'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/5077907462763388939'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/04/blog-post_22.html' title='創造の前から召されている'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-6393300923401407709</id><published>2010-04-20T03:00:00.001+09:00</published><updated>2010-06-05T00:55:16.841+09:00</updated><title type='text'>新しい人間として歩みなさい</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;これは、皆さんもよくご存知のお話です。ある若者が、父の財産の中から、自分が受け継ぐ分を持ち去り、そのお金を飲み食いして、湯 水の様に使い切ってしまいました。彼は破産し、肉体的にも霊的にもボロボロになり、人生どん底に陥った時、父の元に帰ろうという決心をしました。聖書は、 「彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走りよって首を抱き、接吻した」と記して います。（ルカによる福音書15：20）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;父がこの若者を赦すのを妨げたものは、何もありませんでした。この若者がなすべきことは何一つなかったのです、罪を告白することでさえ。なぜなら、 父はすでに和解を準備してくれていたからです。事実、すべては父の始動によって起こりました。息子の姿を見るや否や、父親は彼に走り寄り、彼を抱きしめた のです。実際、愛する父親にとって、赦しを与えることは、問題ではないのです。同様に、天の父にとっても、悔い改めた子どもを見る時、罪の赦しは問題でな くなります。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ですから、このたとえにおいて、赦しは問題ではありません。事実イエス様は、この放蕩息子が赦しを受けるだけでは足りないということを、明白にして おられます。父親は、ただ息子を赦すために抱きしめ、彼の道を行かせた訳ではありませんでした。そうではなく、この父親は、息子を元に戻すこと以上のこと をしてやりたいと願ったのです。彼は息子の仲間、風貌、親交をも与えてやりたいと思ったのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;放蕩息子は赦され、再び愛顧されましたが、彼はまだ父の家に腰をすえた訳ではありませんでした。その時になって初めて父は満足し、息子が再び仲間に 入れられるのを見て、彼の喜びは満ち溢れます。これこそが、このたとえの中心なのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ここからこの話は、面白くなります。明らかに息子は、父の赦しに対して、居心地の悪さを感じます。それで彼は、父の家に入ることを躊躇したのです。 彼は父にこう言いました、「もしあなたが、私のしたすべての悪を知ったなら、すべてのみだらで汚れたことを知ったなら。私は神に対しても、あなたの愛と恵 みに対しても、罪を犯したのです。私にあなたの愛を受ける価値はありません。あなたには、私を勘当する一切の権利があります。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;これに対して、父親がどの様な反応を示したか、注意してみて下さい。彼は叱責の言葉を、一つたりとも発しませんでした。放蕩息子が犯したことについ ては、彼の反抗も、愚かな選択も、浪費した生活も、霊的な破綻も、一切触れませんでした。実際、息子が家の外で価値のない者として留まることを、父親は認 めようとしませんでした。父親は、それらを完全に無視したのです。それは何故でしょうか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;父親の目に、以前の息子は死んでしまっていたのです。以前の息子のことは、彼の記憶の中から、完全に消し去られていました。今、父親の目に映ってい るもの、それは新しい人間として、家に帰ってきた息子の姿です。そして彼の過去は、二度と思い起こされる必要がないのです。父親は、「私にとって、以前の 息子は死にました。だから、新しくなった人間として、私と共に歩みなさい。罪悪感の下に生きる必要はありません。罪の問題は、清算されたのです。だから 今、私の元に大胆に近づき、私の憐れみと恵みを受け取りなさい」と言ったのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-6393300923401407709?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6393300923401407709'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6393300923401407709'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/04/blog-post_20.html' title='新しい人間として歩みなさい'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-6008348843833614462</id><published>2010-04-15T03:00:00.001+09:00</published><updated>2010-06-05T00:54:44.010+09:00</updated><title type='text'>アラビアに退く</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;もし私が人を喜ばせようとするなら、キリストの僕となることは出来ません。もし私の心が、他人からの賞賛を得ることでやる気を出す のなら、もしそれが私の考えであり、それが自分の生き方を左右するのなら、私の忠誠心は分割されてしまっています。常に私は、イエス様以外の誰かから賞賛 を得ることに、一生懸命になってしまうでしょう。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;使徒パウロが改心してから数年後、彼はエルサレムの教会を訪れ、弟子達の仲間に加わろうとしました。「しかし、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れ た。」（使徒行伝9：26）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;弟子達は、パウロのことを迫害者として知っていました。「キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。ただ彼 らは、『かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている』と聞いたのです。」（ガラテヤ人への手紙 1：22～23）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;バルナバは、パウロに対する弟子達の恐れを取り除く助けをし、彼らはパウロに、友好の手を伸ばしました。しかしパウロは、異邦人達と巡回することを 決めました。事実、パウロはその召しを、非常にはっきり説明する様、細心の注意を払いました。彼はその召しが、「人々からでもなく、人を通してでもなく、 イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって」受け取ったと、宣言したのです。（1：1）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;そして力強く、こう続けました。「兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこ の福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知ら せるようにされたとき、わたしはすぐ血肉に相談するようなことはしませんでした。」（1：11～12、 16）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ここでパウロが言っていることは、キリストの思いを持ちたいと願っている人すべてに当てはまります。「私は本を読んだり、人の教えを借りたりして、 今持っているものを手にした訳ではありません。私はメッセージと、ミニストリーと、油注ぎを、ひざまずくことで受け取りました。」と。ガラテヤ人への手紙 1章17節で、パウロは「わたしはアラビアに退いた」と言っています。言い換えれば、「私はエルサレムで、聖徒達からキリストの啓示を受けたのではありま せん。そうではなく、私は砂漠の地であるアラビアに退き、そこでキリストが私に示されることを見ました。私は貴重な時間をそこで過ごし、自分を注ぎ出し、 聖霊に耳を傾け、聖霊によって教えられたのです」と言っているのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;パウロは、誇らしげで高慢な、孤立した説教師ではありませんでした。彼が僕の心を持っていたことを、私達は知っています。彼は自分の野望を捨て、キ リストの内に、すべての満たしを見出したのでした。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;あなたがキリストを喜ばせることだけに心を留めるなら、人からの賞賛や承認は、全く必要なくなります。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-6008348843833614462?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6008348843833614462'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6008348843833614462'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/04/blog-post_15.html' title='アラビアに退く'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-6509868594651281646</id><published>2010-04-13T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-06-05T00:54:11.920+09:00</updated><title type='text'>隠れた場所で</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;聖霊は、ダマスコにいたアナニアと呼ばれる、信仰深い男性の元を訪ねられました。聖霊はアナニアに、「直線通り」と呼ばれる通りへ行き、ユダの家に いるサウロの上に手を置き、彼の目を元通りにしなさい、と命じられました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;もちろん、アナニアはサウロの評判を聞いていたので、それがどんなに危険なことであるか、気付いていました。しかし聖霊は、アナニアにサウロこと を、｢今、彼は祈っている｣と言って口説きました（使徒行伝9：11）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;主は、「アナニア、あなたは彼がひざまずいているのを見るでしょう。彼はあなたが来ることを、知っています。あなたの名前も、なぜ彼の元に遣わされ ているかも、知っています。彼は目を開いて欲しいのです」と言われたのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;いつサウロは、この隠された知識を受け取ったのでしょうか。どうやって、この純粋な神様の言葉とビジョンを受け取ったのでしょう。それは、熱心な祈 りと懇願を通してです。事実、アナニアに対する聖霊の言葉は、サウロの何が神様の心を揺り動かしたか、明らかにしています。それは、｢今、彼は祈ってい る｣ということです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;サウロは、すべての飲み物も食べ物も拒み、3日間に亘って、神様と閉じこもっていました。ただ彼が望んだのは主でした。ですから彼は、この間ずっと ひざまずき、祈り、神様を求め続けたのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私が小さい頃、牧師であった父がこう言いました、「神様はいつも、祈る人に道を与えられる」と。私の人生の中で幾度か、このことを主が、議論の余地 のないほど、はっきりと示して下さいました。私は8歳の時に、聖霊が私の上に注がれ、牧師になる召しを受けました。私は涙を流して祈り、叫びました、｢主 なるイエス様、私を満たして下さい｣と。その後10代の時にも、御霊が激しさをもって訪れて下さるまで、祈り続けたことがありました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;若い牧師であった時、熱心に祈る様、私の内に深い渇望が湧き上がりました。心の中の何かが、「イエス様に仕えるとは、自分が今していること以上のも のだ」と私に語りかけました。それから何ヶ月にも亘り、私はひざまずき、泣きながら何時間もかけて祈りました。そしてやっと、主はニューヨークに行き、 ギャングメンバーや、薬物依存者に対してのミニストリーをする様、私を召されました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;そして20年前、神様が再び私をニューヨークへと召し、タイム･スクエアーで教会を開拓しなさいと言われた時も、私はひざまずき、涙ながらに大声で 叫び、主を求めました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;もし神様の御声を聞いたことがあるとすれば、もしキリストや、彼の思いに関する啓示を受けたとすれば、それは聖書を学ぶことだけでは、もたらされま せんでした。それは祈りを通してもたらされました。隠れた場所で、神様を求めることでもたらされたのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-6509868594651281646?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6509868594651281646'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6509868594651281646'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/04/blog-post_13.html' title='隠れた場所で'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-4980110671645576012</id><published>2010-04-08T03:00:00.001+09:00</published><updated>2010-06-05T00:53:43.739+09:00</updated><title type='text'>キリストを言い表すこと</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間だと言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表 す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」（マタイによる福音書10：32～33）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ここで用いられている「言い表す」という言葉は、ギリシア語で、“誓約、契約、同意”といった意味があります。イエス様は、私達が彼と結ぶ契約のこ とを、語っておられるのです。私達のすべきことは、イエス様を言い表すこと、また日々の生活において、彼を表すことです。私達は、彼の守りと愛の約束に よって、生きるべきなのです。そして私達は、人生を通して、イエス様の素晴らしい祝福を証しするよう、召されているのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;キリストを言い表すことは、ただ彼の神性を信じることだけではありません。彼が神の御子であり、十字架にかけられ、葬られ、甦られ、神様の右の座に 就かれたと、宣言することだけではありません。聖書は、悪魔でさえこれらのことを信じ、恐れを抱いている、と語っています。では、人々の前で御自身を言い 表すよう、イエス様が語られたのは、どういったことだったのでしょうか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は･･･」（10：32より抜粋）イエス様が「だから」という言葉を用いられた のは、簡潔に言うと、「今わたしが言ったことに基づいて」もしくは、「今わたしが言ったことの故に」ということです。イエス様は群集に、何と言われたので しょうか。｢二羽の雀が1アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはな い。｣（10：29）イエス様は「地上にいる、幾億もの鳥達のことを考えてごらんなさい。今度は、創造の初めから存在した、すべての鳥達のことを考えてご らんなさい。この日まで、これらの鳥のうちの一羽でさえ、天の父が知ることなく死んだものも、罠にかかったものもいなかったのです」と言われたのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;そして次にイエス様は、「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」と言われました。（10：30）キリストは、「神様は素晴らしい、あ なたの理解を遥かに超えて。あなたがたに対する神様の愛が、どれだけ細部まで及んでいるか、あなたがたが把握することは絶対に出来ません。」と強調された のです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;イエス様は、｢だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている｣と締めくくられました。（10：31）そしてすべてのこ とを要約するために、「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表 す」と言われたのです。（10：32）イエス様は、「今わたしが伝えた、すべてを見定め、すべてを御存知である、父の愛を考えてごらんなさい。あなたはこ の真理を、世界中で告白しなければなりません。あなたは生き、呼吸をし、『神様は私を愛してくださる』ということを、証ししなければなりません」と言って おられるのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;天の父の、あなたに対する愛を信じ、その深い思いやりを受け入れて下さい。そしてすべての恐れと疑いを、投げ出して下さい。人々の前で、神様があな たを見落とされていないという信仰と共に、生活して下さい。すべての人々に、｢神様の御目は、雀の上に注がれている。そして神様は私をも、見守って下さっ て入る｣と言い表して下さい。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-4980110671645576012?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/4980110671645576012'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/4980110671645576012'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/04/blog-post_08.html' title='キリストを言い表すこと'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-7493809901034027370</id><published>2010-04-06T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-06-05T00:53:10.734+09:00</updated><title type='text'>完全なる委ね</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;主に完全に委ねきった人生を送るための方程式は、存在しません。私が皆さんにお分かち出来るのは、このことについて、神様が私に教 えてきて下さったことだけです。神様は、どうやって私が神様に完全に委ね切るかについて、2つの基本的なことを教えて下さいました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;一つ目は、例え人生のどんな小さな事柄においても、神様が私に御心をお示しになりたいと望んで下さり、またそれを待っていて下さるということを、確 信することです。私の内におられる聖霊が、私に対する神様の御心を御存知で、御霊が私を導き、守り、語りかけて下さるのだと、信じなければなりません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。（中略）その方はわたしに栄光を与える。わたしのも のを受けて、あなたがたに告げるからである。」（ヨハネによる福音書16：13～14）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;もしかしたら、あなたは今、浅はかな決断がもたらした、苦しみの中におられるかも知れません。もしそうであったとしても、主はあなたにこう、約束し ておられます。「あなたの内なる耳が、わたしの霊があなたに『こちらに行きなさい。こうしなさい。それをしては、いけません』等と、語りかけるのを聞き分 けます。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;二つ目に、私達は揺るぎない信仰をもって、神様の導きに従う力が与えられるよう、祈らなければなりません。聖書は「いささかも疑わず、信仰をもって 願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません」と語っています。（ヤコブの 手紙1：6～7）神様が私達に何かするよう語られる時、私達は完全に神様の道に従い、またそこに留まるための力が必要です。50年以上に亘る私のミニスト リーの中で、サタンや肉が、私の心の中に疑いや疑問の種を、いつも植えようとしていることを学びました。イエス様が「いいえ」と言われたことに対して、私 が「はい」と言ってしまわないよう、私は天からの力が必要でした。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達の多くは、｢主よ、あなたがお語りになったことは覚えています。でもあなたの声だったか、いまいち確信が持てません。あなたの御声を聞き分ける ほど、自分が霊的に訓練されているか自信がありません。どうかお願いですから、このことに関して、扉を閉ざすか開けるかして、御心を示して下さい｣と祈り ます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;これは、主がその子ども達に望んでおられる、信仰に満ちた対応ではありません。皆さんは好きなだけ、何時間でも、何日でも、祈ることが出来ます。し かし、もし皆さんが信仰によって祈らないなら、すなわち、イエス様が約束されたように、聖霊があなたを導かれると信じないなら、決してあなたに伝えられよ うとしている、神様の思いを持つことが出来ません。主が言われることに対して、あなたがどんなことでも受け入れ、疑うことなく従う決心がつくのを確認され るまで、神様は待っておられます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-7493809901034027370?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/7493809901034027370'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/7493809901034027370'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/04/blog-post_06.html' title='完全なる委ね'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-1318097616981941266</id><published>2010-04-01T03:00:00.001+09:00</published><updated>2010-06-05T00:52:40.025+09:00</updated><title type='text'>キリストの思い</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト･イエスにもみられるものです。」（フィリピ人への手紙2：5）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;この教えの中で、使徒パウロは神の民にこう語っています、「キリストの内にあるのと同じ思い、イエス様の思いそのものが、あなたがたの思いであるよ うに。彼の思いこそ、私達が追い求めるものです。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;キリストの思いを持つとは、どういうことでしょう。簡単に言うならば、イエス様が成されたことを行い、思われたことを思うということです。また、私 達の生き方を定める、キリストの様な決断をするということです。そして、どの様にすれば実際に、キリストの思いを持つことが出来るのか、思いのすべてを もってそれに心がける、ということです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;御言葉の鏡を覗き込む時はいつも、｢私が見ている自分の姿は、キリストの本質や考えを反映しているだろうか。神様が人生にもたらして下さるすべての 経験を通して、私はイエス様のお姿へと、徐々に変えられているだろうか｣と自分に問いかける必要があります。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;パウロによると、これがキリストの思いです。「キリストは自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」（フィリピ人への手紙 2：7）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;イエス様は、まだ天におられた時に、ある決断をされました。天においての栄光を捨て、人間として地上に来られることを、天のお父様と約束されたので す。心砕かれた僕として、地上に降りられるということ、そして仕えてもらうのではなく、仕える者となるということです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;キリストにとって、これは「父よ、あなたの御心を行いに参ります」と言うことを意味していました。事実、イエス様は「父よ、あなたの御心を行うため に、わたしは自分の思いを捨てます。あなたの御心に応じるため、自分の思いを服従させます。わたしの言動のすべては、あなたから来たものです。わたしは完 全にあなたに委ねるため、すべてを投げ出します」と言って、事前に心を固めておられたのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;その代わり、天の父は御子にその御心を示される様、約束されました。神様は、「わたしの御心は、あなたから隠されることはない。あなたはいつも、わ たしが何をしているか知ることが出来る。あなたはわたしの思いを持つことが出来る」と言われたのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;パウロが「私はキリストの思いを持っている」と大胆に宣言した時、彼は「私も自分を無にしたのです。イエス様のように、僕の身分となったのです」と 言い切ったのです。そしてパウロは、同じことがすべての信者に言えると、断言しています。「わたしたちはキリストの思いを抱いています。」（第一コリント 人への手紙2：16）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-1318097616981941266?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/1318097616981941266'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/1318097616981941266'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/04/blog-post.html' title='キリストの思い'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-7653902143650880409</id><published>2010-03-30T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-06-05T00:51:37.050+09:00</updated><title type='text'>キリストを試すこと</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;｢彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。｣(第一コリント人への手紙10：9）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;パウロがここで言う  「キリストを試みること」とは、一体何を意味しているのでしょうか。簡単に言うならば、主を試みることは、主を試すということです。私達は「もし私がこの 罪を犯し続けるなら、どれくらい神様は憐れみを見せて下さるだろう。神様の怒りに触れるまで、どれ程罪に身を委ねることが&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;出来るだろう。神様は憐れみ深いお方だし、今私たちは恵みの時代に生きていて、罪人に裁きが下ることはないはず。神様の子どもである私に、どうして 裁きが下されようか」と言うことで、神様を試しているのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;多くのクリスチャンは、恐ろしい試みを真剣に捕らえずに、同じ様な質問を簡単に投げかけます。彼らは、罪の報酬を受けることなしに、どれ程地獄の炎 に近づけるか、試してみたいのです。要するに、彼らはキリストを試しているのです。そして、そうすることによって、彼らは御言葉による確信を、投げ出して しまっているのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様の御霊が明白にして下さった真理に逆らおうとする時はいつでも、パウロの警告を無視していることになります。「立っていると思う者は、倒れない ように気をつけるがよい。彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で2万3千人倒れて死にまし た。」（第一コリント人への手紙10：12、8）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様からの素晴らしい賜物である、恵みの限度を試していないか、自分を見つめてみて下さい。反抗心をむき出しにして、罪におぼれることで、キリスト を試していませんか。「私は新約聖書の信者です。イエス様の血で覆われています。だから、神様は私を裁かれることがありません」と言って、自分を納得させ ていませんか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;罪を犯し続けることで、あなたはイエス様御自身がいけにえとなって下さったことを、完全に無視しているのです。あなたが今故意に犯している罪によっ て、あなたはイエス様を世の中だけではなく、天と地獄の前で、辱めにあわしているのです。（ヘブル人への手紙6：6参照）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;第一コリント人への手紙10章13節において、パウロはどうやって試みから逃れることが出来るかを記しています。「あなたがたを襲った試練で、人間 として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに 耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;この逃れる道とは何でしょうか。それは神様の聖い畏れを養い、また経験することです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-7653902143650880409?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/7653902143650880409'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/7653902143650880409'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/03/blog-post_30.html' title='キリストを試すこと'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-8874897814810714749</id><published>2010-03-25T03:00:00.000+09:00</published><updated>2010-06-05T00:51:03.920+09:00</updated><title type='text'>十戒</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;アメリカ人の多くは、裁判所で十戒を啓示してはならないという、最高裁が下した評決をご存知のことでしょう。この非常に重要な決断 は、メディアによって大きく報道されました。しかしこの評決は、一体何を意味しているのでしょうか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;裁判所とは、法律が施行されるところです。十戒は、決して変わったり、揺れ動いたりすることのない、神様の道徳的な律法を表します。それは、重力の 法則と同じくらい、不変のものです。それを無視することは、高い橋の上から飛び降りようとすることと同じです。自分はその法則に縛られていない、と信じ込 んでも、それのもたらす結果から免れることは出来ません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;簡単に言うならば、十戒は社会が自滅しない様、神様がお定めになった永遠の律法なのです。しかし驚くべきことに、多くの企業が、裁判所の大理石やコ ンクリートに関わらず、十戒だけではなく神様の御名を、削り落としてしまおうと働きかけています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;これはアメリカ社会の現実を、まざまざと映し出しています。これらの不変の律法は、神様御自身の指によって、最初に石に刻み込まれたのです。そして 今、人々の作った法律により、それらは石から削り落とされているのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;クリスチャンの中には、「何故そんなに騒ぎ立てるのですか。私達は律法に縛られていません。これのどこが問題なのですか」と言う人達もいます。確か に、私達はヘブル人の法律、すなわちユダヤ教の指導者達によって加えられた613の法律には縛られていません。しかしすべてのクリスチャンは、十戒によっ て集約された、神様の道徳的な律法による主権の下にいるのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達の目の前から、これらの企業が神様の律法を消し去ろうとするのを見て、神様はどう感じておられるでしょうか。信者の中には、「十戒を飾る必要な どありません。ただ私達の心に、それが刻み込まれていれば良いのです」という人がいます。しかしそれは、神様の御言葉と異なります。十戒が神様の民に与え られた時の、はっきり目に見える神様の臨在を、思い出して下さい。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、（中略）家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせな さい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」&lt;/span&gt;&lt;cite&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;（申命記 6：6～9）&lt;/span&gt;&lt;/cite&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-8874897814810714749?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/8874897814810714749'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/8874897814810714749'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/03/blog-post_25.html' title='十戒'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-815277428105066701</id><published>2010-03-23T03:00:00.001+09:00</published><updated>2010-06-04T06:10:28.279+09:00</updated><title type='text'>瞬き時代</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;多くのクリスチャンは、聖書を定期的に読み、それが私達に与えられた、神様の生ける御言葉であると信じています。聖書では何度も何度も、神様の御声 を聞いていた世代のことを目にします。「そして主はこう言われた」という言葉に続き、何度も何度も神様がその民に語られるのを読みます。しかし、そのクリ スチャンの多くが、今日では神様がその民に語られることがないかの様に生きています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;新しい世代の信者は、祈ったり、御言葉が何を言わんとしているか尋ね求めたりせずに、完全に自分一人で決断を下してしまいます。多くの信者は、ただ 自分のしたいことを決め、それから神様の承認を求めます。彼らは自分の決断を推し進め、その祈りは、「主よ、もしこれがあなたの御心でないなら、私を止め て下さい」というものだけに止まります。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達は「瞬き時代」と呼ばれる時代に生きています。人々は重要な決断を、瞬きする間に決めてしまいます。あるベストセラーの本は、このコンセプトに 基づいて書かれました。その題は、「瞬き―考えずに考える力」（原題Blink： The Power of Thinking Without  Thinking）です。この本の論説は、「自分の直感を信じなさい。瞬きする間にする決断こそが最善だと、証明されているからです」ということです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私達が日々耳にする、私達を押し急かす「瞬き言葉」を思い出してみて下さい。「これは一世一代の大チャンスです。一晩で大金持ちになれます。でも、 このチャンスは今だけです。さあ、今すぐ行動に移して下さい。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;この様な考え方は、教会をも汚染し始めています。それは「瞬きクリスチャン」だけでなく、「瞬き牧師」による決断によって影響を受けているからで す。当惑した多くの教会員達が、私の元に同じ様な内容の手紙を書いてみえます。「私達の牧師は、教会成長セミナーから帰って来てすぐ、『今日からすべてが 変わります』と宣言しました。先生は私達の教会が、人々を引き寄せるトレンディーな教会に生まれ変わるべきと、一晩で思い立たれたのです。先生は、このこ とについて祈る様、私達に勧められることもありませんでした。私達教会員は、困惑しています。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ほんの数年前まで、クリスチャンの合言葉は、「そのことについて祈りましたか。神様を求めましたか。兄弟姉妹が、祈りによって支えてくれています か。信仰に知恵を仰ぎましたか」ということでした。皆さんは、これを実行されていますか。この一年の間で、幾つの重要な決断を、ただ神様を尋ね求め、心か らの祈りによって決めましたか。それとも、それらの重要な決断の幾つを、瞬きする間に決めてしまったでしょうか。私達に人生のすべてを委ねることを、神様 が望んでおられるのは、私達を惨事から守ろうと願っておられるからです。なぜなら私達の「瞬きの決断」の多くは、大惨事に終わることが少なくないからで す。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-815277428105066701?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/815277428105066701'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/815277428105066701'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/03/blog-post_23.html' title='瞬き時代'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-8547427509930652987</id><published>2010-03-18T03:00:00.001+09:00</published><updated>2010-06-04T06:06:45.008+09:00</updated><title type='text'>聖さに追い求めること</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様の御言葉は、明確な言葉をもって私達に語られます。「聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見るこ とはできません。」（ヘブル人への手紙12：14）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ここに、簡潔で明白な真理を見ることが出来ます。キリストによってのみ、与えられる聖さ―神様の御言葉のすべてに従う決意を生き抜くことで与えられ る、貴重な賜物―この聖さなしでは、誰も主を見ることが出来ません。そしてそれは天においてだけではなく、現在の地上での命においても言えることです。聖 さなしでは、日々の歩みで、家庭で、人間関係において、伝道やミニストリーにおいて、神様の臨在を見ることが出来ません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;何度特別集会に参加したか、どれだけ多くの説教テープを聴いたことがあるか、また幾つの聖書研究会に属しているかは関係ないのです。もし私達が罪を 隠すなら、もし主が私達の罪に反感を持たれるなら、私達のいかなる努力も、信仰の実を結ぶことが出来ません。それどころか、私達の罪はさらに深まるだけ で、周囲の人々にも伝染し、彼らをも汚染させてしまいます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;もちろん、この問題はすべての肉的な色情を超え、霊的な堕落も含みます。パウロはその様な、破壊的な罪のことを、次の箇所で語っています。「彼らの 中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。」（第一コリント人への手紙 10：10）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ですから、愛する聖徒の皆さん、あなたは知らずに隠している色情のすべてに対して、聖霊が働かれままに委ねることが出来ますか。また神様がご用意下 さった逃げ場を探し、そこに信頼をおくことが出来ますか。どうか、終わりの日に対しての畏れと信仰を養って下さい。そうすることによって、周りにどんな悪 がはびころうと、あなたは潔白を守ることが出来ます。そして、神様の永遠の臨在を約束する、神様の聖さの内に歩むことが出来ます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;これは信仰の問題です。もしあなたが、ただキリストの語られたことを信じるならば、キリストはあなたが倒れないよう守ると、また罪に抵抗する力を与 えると、約束して下いました。それを受け入れ、そのために祈って下さい。神様は、必ずその約束をお守り下さいます。自制心や、誓約や、その他のどんな人間 的な努力では、絶えず付きまとう、罪の死の手から逃げ切ることは出来ません。「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われ る。」（ゼカリヤ書4：6）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-8547427509930652987?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/8547427509930652987'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/8547427509930652987'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/03/blog-post_18.html' title='聖さに追い求めること'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-6185992113276513061</id><published>2010-03-16T03:00:00.001+09:00</published><updated>2010-06-04T06:06:13.033+09:00</updated><title type='text'>神様の究極の計画</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;創世記が締めくくられる前に、神様は小さく取るに足りない人々を、国々の模範として選ばれました。神様は不信仰に満ちた世界におい て、御自身の素晴らしさを表す、生ける証しとなる人々を起こされたかったのです。そしてその様な証しを示すため、神様は民が自分達の力では何も出来ないと ころを通らされました。神様は、御自身だけが命の源となり、すべての必要を満たすことが出来る荒野へと、イスラエルを導き出されました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;イスラエルの民にとって、その様な孤立した地で生き抜くことなど、自分達の手でどうにか出来ることではありませんでした。食べる物や水の入手を、自 分達でコントロールすることは出来ません。方位磁石も地図もなかったので、目的地を自分達の手で定めることも出来ませんでした。彼らはどうやって、食べた り飲んだりすることが出来たのでしょうか。どうやって、どの方向に進むべきかを決めることが出来たのでしょうか。そして、どこにたどり着くことが出来たの でしょうか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様がそのすべてを成されたのです。神様は、彼らの前にある闇を追い散らし、闇で光り輝く不思議な雲をもって、日毎彼らを導かれました。また、天か ら天使の食物を降らせることで食物を与え、岩から水を出すことで、水を供給されました。そうです、すべての必要は一つひとつ、神様の御手によって備えら れ、敵は彼らを打ち倒すことが出来ませんでした。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「主はあなたを訓練するために、天から御声を聞かせ、地上に大いなる御自身の火を示された。」&lt;/span&gt;&lt;cite&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;（申命記4：36）&lt;/span&gt;&lt;/cite&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様の 民は、彼らを導かれる神様御自身の御声を聞くことが出来るので、「世界の国民の中で一体誰が、生ける神の御声を聞いたことがあるだろうか」と証しします。&lt;/span&gt;&lt;cite&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;（4：32～34 参照）&lt;/span&gt;&lt;/cite&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;古代のイスラエルを取り囲んでいた国々は、木や金銀で作られた偶像でしかない、他の神々で溢れていました。これらの神々は、語ることも、聞くこと も、見ることも出来ず、それらを礼拝する人々を愛することも、導くことも、守ることも出来ませんでした。これらの国々はイスラエルを見ることで、彼らがい かに神様によって厳しい荒野を導き出された、特別な民であるかを見ることが出来たはずです。また、御自分の民に語りかけ、愛し、感情を持ち、祈りに答え、 奇跡を起こされた神を見ることが出来たはずです。ここに、御自分の民の詳細に至るまですべてを導かれた、生ける神を見ることが出来ます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様は、御手によって訓練される民を起こされました。神様の主権に従い、その人生のすべてを完全に委ね切る民が必要だったのです。その様な民こそ、 世界に神様を証しする民とされるのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;なぜ神様は、民が完全にすべてを委ね切り、いつも神様に信頼をおくことを望まれるのでしょうか。それは、神様だけが目的地にたどり着く方法を御存知 で、そのために必要な、不可能を可能とする力をお持ちだからです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-6185992113276513061?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6185992113276513061'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6185992113276513061'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/03/blog-post_16.html' title='神様の究極の計画'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-2642170626261066488</id><published>2010-03-09T03:00:00.002+09:00</published><updated>2010-06-04T06:05:34.474+09:00</updated><title type='text'>放蕩息子とその父</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ルカによる福音書15章に記されている放蕩息子は、父との過去の関係があったから家に帰ってきたのだと思います。この若者は父の人 柄を良く知っており、父は彼にひたすら愛を注いでくれていた様です。そうでなければ、なぜ彼を痛い目にあわし、浪費したお金のすべてを返済させようとす る、怒りと復讐心に満ちた人の元に帰ろうとするでしょうか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;きっとこの放蕩息子は、家に帰ったとしても、犯した罪をとがめられたり、罰せられたりしないだろうということを、知っていたのでしょう。おそらく彼 は、「お父さんは、私のことを愛してくれている。きっと私の罪をなじったりしない。多分私を迎え入れてくれるはずだ」と思ったことでしょう。この様な過去 の関係があるなら、いつでも家に帰ることが出来ます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;放蕩息子の父が、いかに優しさの祝福をもって、息子を妨げたか見てみましょう。息子は父に対して、心からの告白をしようと心に決め、帰路につく間中 ずっとそれを復唱していたのです。しかし父の顔を見るや否や、彼は告白するチャンスを奪われてしまいます。彼に駆け寄り抱きしめることで、彼の父がそれを さえぎったからです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」（ルカによる福音書15：20）父は息子が帰って きたことが本当に嬉しくて、息子に接吻し、「愛しい息子よ。早く家に帰って、癒されなさい」と言いました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;父は息子が告白を終える前に、これらのことすべてを行ったのです。息子は、何とか練習した台詞の冒頭部分を、口に出すことが出来ました。しかし父 は、息子が言い終わるまで待ちませんでした。父にとってみれば、息子の罪はすでに清算されているのです。父の唯一の反応は、僕たちに命令を下すことでし た。「息子に衣を着せ、手に指輪をはめてやってくれ。お祝いをするための宴を準備してくれ。皆、喜んでくれ。息子が帰って来たのだ。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;父にとって、息子の罪は問題でありませんでした。彼の頭の中にあったのは、ただ愛でした。愛しい息子が罪を告白する前に、彼は受け入れられているの だと知って欲しかったのです。そして神様は、同じことを私たちに伝えたいと、願っておられるのです。神様の愛は、私たちのすべての罪よりも大きいのです。 「神の憐れみがあなたを悔い改めに導く。」（ローマ人への手紙2：4）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-2642170626261066488?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/2642170626261066488'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/2642170626261066488'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/03/blog-post_09.html' title='放蕩息子とその父'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-231675223888150893</id><published>2010-03-05T03:00:00.001+09:00</published><updated>2010-06-04T05:23:32.766+09:00</updated><title type='text'>霊によって行きなさい</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;あなたは霊によって、世界中のどこにでも行くことが出来ます。ひざまずき祈る時、福音を聞いたことのない人達に触れることが出来ます。事実、あなた の隠れた部屋が、ある国家における御霊の働きの本部となることがあります。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;アブラハムがその良い例です。彼は神様を信じない、不道徳なソドムのために祈りました。主は彼に、こう答えられました、「もしソドムの町に正しい者 が50人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」（創世記18：26）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;これを聞いた時、アブラハムは主と交渉を始めました。彼は、「もしかすると、50人に5人足りないかもしれません。それでもあなたは、5人足りない ために、町のすべてを滅ぼされますか。」（18：28）アブラハムは、「主よ、もしその50人の信仰者の内、45人が正しい人だったらどうされますか。も し求道者がそれだけだったら、どうされますか。それとも、たった10人だけが、あなたを求める正しい人だとしたら、どうされますか。もしあなたを呼び求め る人が、たった10人だとしたら、あなたは町を滅ぼさないでいて下さいますか。」とお願いしたのです。神様はアブラハムに答えられました、「その10人の ためにわたしは滅ぼさない。」（18：32）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;この聖句は、主について私たちにあることを教えてくれています。主は、もし幾人かの正しい人がいるならば、その社会を丸ごとお救い下さるおつもりで ある、ということです。これは、自分の国のために執り成す、主の御顔を求める人達のことを語っています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;このことについて、神様はアブラハムに約束されたより、さらにその上を成されます。エゼキエル書22章で、神様は隔たりに立つ、祈りにあるたった一 人の信者について語っておられます。「この地を滅ぼすことがないように、わたしは、わが前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者を彼らの中から探し求めた が、見いだすことができなかった。」（エゼキエル書22：30）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;エゼキエルが預言していた時代、イスラエルは霊的に堕落していました。預言者たちは神様を冒涜し、ありとあらゆる神様の律法を破っていました。そし て民は抑圧され、様々なことに腹を立て、色情に溢れ、お互いに略奪し合っていました。彼らの中で、誰一人として主に叫ぶ者はいませんでした。隔たりに立 ち、執り成す者は、誰もいなかったのです。しかし神様は、たった一人の執り成し手のために、国のすべてを救われるおつもりでした。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;もし肉体的にある国に行くことが出来なくても、執り成し手の一部となることが出来ます。私たちは、国々に遣わされるために献身した人達を援助する 様、召されているのです。パウロが宣教旅行について書き綴った時、彼のアシスタントとしてテモテやテトスの名を挙げただけではなく、彼を助けてくれたリ ディアを始めとする、その他の女性をも紹介しました。彼女達は皆、福音によって国々に触れる助けをした、敬虔な主の僕たちだったのです。 &lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-231675223888150893?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/231675223888150893'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/231675223888150893'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/03/blog-post_05.html' title='霊によって行きなさい'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-4725422649292634643</id><published>2010-03-04T03:00:00.001+09:00</published><updated>2010-06-04T05:22:59.586+09:00</updated><title type='text'>収穫の主に祈りなさい</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;イエス様は、地上でミニストリーをされていた時から、終わりの日までを見渡し、大変な問題があることを指摘されました。そして弟子 達にこう言われました、「収穫は多いが、働き手が少ない。」（マタイによる福音書9：37）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;この箇所を読みながら、私は「では、どんな解決法があるのだろう。どうやったら、世界に出て行く働き手が、もっと起こされるのだろうか」と思いまし た。イエス様は私のこの質問に、次の節で答えて下さっていました。それは、それらの働き手が収穫の地に遣わされる様、誰かが祈らなければならない、という ことです。「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」（マタイによる福音書9：38）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「しかし、いたる所で扉は閉ざされているではないか」と思う方がいらっしゃるかも知れません。確かにそれは事実かも知れません。しかしそれらの国々 が、私たちの目にどれだけ閉ざされているように見えるかは、問題ではないのです。もし神様がヨーロッパの鉄のカーテンを砕き、アジアの竹の衝立を砕くこと が出来るなら、神様が御心と定められた場所で、その働きを止めることが出来るものは、何もないのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私たちのミニストリーがテキサス州を本拠地としていた1980年代、私は一年間に亘り、誰かがニューヨークのタイム･スクエアーにおいて教会を開拓 するよう、神様にお祈りしていました。神様が起こされたその人に対して、私は必要な資金を集めたり、ミーティングを開いたり、支援したりして、お手伝いを することを誓いました。しかし私が、この具体的な収穫の地に働き手を送って下さる様、神様にお願いするにつれ、主は私にその重荷を置かれました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;使徒パウロは、祈りの力によって、宣教師として遣わされたのです。アンティオキアにおいて、教会のリーダー達は収穫のために祈っていました。（使徒 行伝13：2～6参照）パウロの最初の宣教旅行は、祈りの会から始まったのです。それは収穫地に働き手を送って下さる様、神様に祈りなさいという、イエス 様の御言葉に忠実に従った、信仰深い人達がもたらした結果です。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;これと同じことが、今日にも言えます。アンティオキアの信仰深い人達がしたように、私たちも収穫のために祈るべきです。実際、私たちが祈る間に、聖 霊が地上を見渡して、主に用いられたいと望む人達の心に、危機感を送られるのです。聖霊はいたる所で人々に触れ、彼らを主の御用のために聖別されるので す。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;マタイ8章で、ある百人隊長が、瀕死の僕を癒してもらうため、イエス様のところにやって来ました。キリストは、彼にこの様に答えられました、「『帰 りなさい。あなたが信じたとおりになるように。』ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。」（8：13）これと同じことが、収穫のために執り成す人々に 起こると信じます。働き手を送って下さいと神様にお願いする時、聖霊がどこかで誰かに働きかけられます。その場所は問題ではありません。ここに素晴らしい 真実があります。それは私たちの祈りが、収穫の地に働き手が遣わされるために、用いられているということです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-4725422649292634643?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/4725422649292634643'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/4725422649292634643'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/03/blog-post.html' title='収穫の主に祈りなさい'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-2404183313702376719</id><published>2010-02-26T03:00:00.001+09:00</published><updated>2010-06-04T05:19:22.135+09:00</updated><title type='text'>彼らには命と光があった</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「イエス･キリストの教会は、社会の中で霊的な権威を持たない。それは彼らが霊性に欠けているからだ。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;何故、アメリカ政府のリーダー達やメディアは、クリスチャンを馬鹿にするのでしょう。何故、世間の目から見て、教会はその意義と目的を失ってしまっ たのでしょうか。何故若者は、キリスト教が彼らにとって無関係なものと見なす様になってしまったのでしょうか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;その理由の大半は、教会が光でなくなってしまったことにあります。キリストが社会で権威を持たないのは、キリストが私たちの人生において権威を持っ ていないからです。今日周りを見渡してみると、神の家で、キリストと真に結びついている人を、ほとんど見かけなくなりました。天国との交わりも、ほとんど ありません。そして牧師の中でも、世の方法を拒み、ただ神の導きだけに信頼をおく人が、ほとんどいなくなりました。私たちが光を失ってしまったのは、私た ちがキリストの命を失ってしまったからです。神様の主権が影響力を持つには、まず完全に委ね切った従順な器で、それが実現されなければなりません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ネブカドネツァル王時代の、バビロン王国を思い出してみて下さい。それは、地上で最も巨大な王国でした。ダニエルは、後に続く王は皆、能力でも、力 でも、影響力でも彼に劣ると、預言しました。何故でしょうか。それは、バビロンを本当に統べ治めていたのが、ネブカドネツァル王ではなかったからです。巨 大な王国を支えていたのは、王が建設した金の彫像ではありませんでした。そうではなく、バビロンの権威は、少人数の神に従う人達の手にありました。主は隠 れた天の政府を立て上げ、ダニエルと3人のヘブル人の子ども達によって、それを支配させました。彼らが主の権威の器として用いられたのは、彼らが天の領域 において働いていたからです。彼らは、世の組織や制度を一切拒絶しました。その代わり、彼らは神様と一緒に閉じこもったのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;その結果、この聖なる男性達は、時を読むことが出来ました。いつでも、神様が何をなさろうとしているか、民に告げることが出来たのです。彼らが王国 中で、明るく光り輝いていたのは、彼らの内に神の命があったからです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;列王記2章6節に、シリアがイスラエルに対して戦争をしかけようとする場面のことが、記されています。この危機にあって預言者エリシャは、自分の家 で腰掛け、主と語っていました。彼は神様の秘密の政府として、権威をもって統べ治めました。エリシャは主から御言葉を受け、シリアの策略のすべてを警告す るメッセージを、イスラエルの王に届けました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;シリアの王が、いかにエリシャが彼の策略を妨害しているかを耳にした時、彼は預言者の故郷を大勢の軍隊で取り囲みました。しかし神様はシリア人の目 を見えなくし、エリシャが彼らを捕虜として、イスラエル軍のキャンプ地まで導いていくことになったのです。エリシャには光があり、サタンの一挙手一投足を すべて知っていました。なぜなら、彼には命があったからです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-2404183313702376719?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/2404183313702376719'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/2404183313702376719'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/02/blog-post_26.html' title='彼らには命と光があった'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-3113955103018674973</id><published>2010-02-25T03:00:00.001+09:00</published><updated>2010-06-04T05:18:48.615+09:00</updated><title type='text'>イスラエルの聖なる方を傷つけた</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「（彼らは）繰り返し神を試み、イスラエルの聖なる方を傷つけた。」（詩篇78：41）ここで使われている“傷つける”という言葉 は、「神様の印象を傷つけることで、神様を悲しませる」という二つの語源から来ています。言い換えれば、神様を傷つけるということは、境界線を引いたり、 円で囲んだりすることによって「神様はここにいるけど、この先には行けない」と神様を制限することです。多くの信者が、この様な考えを持っています。私た ちは自分の頭の中で、非常に大きいキリストを、とても小さな印象や概念として記録してしまっています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;エルサレムの初代教会も、全く同じことをしました。彼らはキリストを小さな円で囲み、ユダヤ人だけの間に留めておこうとしました。しかし、イエス様 を制限することは出来ません。彼は絶えず、私たちの描く小さな境界線を破り、いつも一番遠くの人達に御手を伸ばされます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;例を一つ挙げてみましょう。約40年前まで、ペンテコステ派の人達は、霊による洗礼が自分達だけに与えられているものだと信じていました。彼らの内 の多くは、「私たちこそ、神様の霊に満ち溢れた教会なのだ」と思っていました。ペンテコステ派の牧師達は、主流の教派の活気の無さを見て嘆き、「彼らは私 たちの様に、完全なる福音を持っていないのだ」と宣言していました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;突然、神様の霊が、私たちの引いた境界線を打ち破られました。聖霊が、全教派の信者達の上に注がれたのです。この現象は、ジョン･シェリル （John L. Sherrill）氏によって、「彼らは異言を語った」（原題：They Speak With Other  Tongues）という一冊の本にまとめられました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;また主は、私が書いた本、「十字架と飛び出しナイフ」を、特にカトリックの方の間で用いて下さいました。しかし、ペテロと初代教会同様、私がこの現 象を受け入れられる様になるには、主が私の心に働いて下さらねばなりませんでした。私はずっとペンテコステ派の信者として育てられてきたので、神父達が罪 を確信して涙を流し、イエス様に叫ぶのを初めて見ました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;すぐに福音派の牧師達が、「カトリックの聖母崇拝はどうするのか。そんな信仰を持つ人達に、どうやって働きかけるのか」と言って私に詰め寄りまし た。私はペテロと同じ様に、彼らに返答しました。「私には聖母崇拝のことは、よく分かりません。私が知っているのは、ただカトリック信者の間で、霊に飢え 渇いている人達がいるということです。そして神父達の間でも、イエス様を礼拝する真の信者がいるということです。神様が、この人達を御自身の御霊で満たし ておられるのです。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様は、世界の隅々まで御自身の民を養っておられます。ですから私たちは、その中の誰をも、下品で汚れた者と呼ぶことは出来ないのです。私たちは、 イエス様を小さい方である様に描いたり、自分達のちっぽけな考えの中で、小さな箱に入れてしまったりしない様、気を付けなければなりません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-3113955103018674973?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/3113955103018674973'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/3113955103018674973'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/02/blog-post_25.html' title='イスラエルの聖なる方を傷つけた'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-6843165202906263851</id><published>2010-02-24T03:00:00.001+09:00</published><updated>2010-06-04T05:18:13.032+09:00</updated><title type='text'>シミもしわもない</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;キリストの教会は、世から承認されたり、受け入れられたりすることがありませんでした。そして将来的にも、同じことが言えるでしょ う。もしあなたがイエス様のために生きるなら、すすんで他の人から離れようとする必要はありません。彼らの方が、あなたから離れていくでしょうから。あな たがただ、イエス様のために生きようとするだけで、突然、非難を受け、拒絶され、悪魔と呼ばれることに気付くでしょう。あなたは「人々に憎まれ、また人の 子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられる」のです。（ルカによる福音書6：22）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;しかしイエス様は、こう続けられます。そしてこれこそが、真の満たしへの道なのです。「自分のために命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたし のために命を失う者は、それを得る。」（マタイによる福音書16：25）言い換えると、こういうことです、「人生に意義を見つける唯一の方法は、わたしの ために一切を失うことです。そうすれば、真の喜び、平安、満足感を得ることが出来るでしょう。」キリストは、私たちにこう言われます。「わたしの教会に は、シミもしわもありません。だから、あなたがわたしのところに来る時、すべての罪を投げ捨てる心構えが必要なのです。わたしにすべてを明け渡し、完全に 自分に、また自分勝手な野望や自我に、死ななければなりません。信仰によって、あなたはわたしと共に葬られます。しかしわたしがあなたを、新しい命へと甦 らせます。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;シミもしわもないということが、何を意味するか、考えてみて下さい。皆さんもご存知の通り、シミは汚れのことです。しかししわとは、どういうことで しょう。“新しいしわ”という言葉を聞いたことがありますか。それは、「既存の考えに、新しいアイデアを付け足す」という意味です。この理解を当てはめる ならば、しわとは、福音を改良しようとする人達のことを示しています。それは、完全にキリストに委ねることなしに、簡単に天国へ入る方法を手に入れようと することです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;この種の福音が、今日の多くの教会で語られています。説教は、人々の必要を満たすことだけを目的として説かれています。イエス様の御言葉を読む時、 私はこの種の福音が、うまくいかないことに気付かされます。それは、真の福音の働きを成し遂げることが出来ないからです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;誤解しないで下さい。私は神様の民に、慰めや勇気を語ることに反対している訳ではありません。主の羊飼いとして、私は正にそのために召されているの です。しかし、もし私が人々の必要を満たすことだけのために説教し、私たちのすべてを投げ出す様勧められたキリストの教えをないがしろにするならば、私た ちの真の必要は、決して満たされることがありません。イエス様の御言葉は明確です。私たちの必要は、自分に死に、キリストの十字架を背負うことによって、 満たされるのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-6843165202906263851?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6843165202906263851'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6843165202906263851'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/02/blog-post_24.html' title='シミもしわもない'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-544858498108001812</id><published>2010-02-22T03:00:00.001+09:00</published><updated>2010-06-04T05:16:50.269+09:00</updated><title type='text'>自分の描く主の姿</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;あなたは、キリストとの関係に成長が見られなかったり、成熟していなかったりする家族や友達のことを心配していますか。その人を見 定める時、自分にとってのキリストの概念を、その人の人生に当てはめようとしていませんか。自分の中で、真のクリスチャンはこういうものだという絵を描い て、あなたの愛する人がその絵に当てはまらないと思っていませんか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;もしかして、あなたはキリストを制限していないでしょうか。あなたのイエス様はとても小さく、固く活動を制限されているので、あなたは彼の御霊が、 深く隠れた働きをしていると、信じることが出来ないでいるのではないでしょうか。自分の思い描いた絵に見合っていないと言って、非難していませんか。神様 は大きなお方であり、目に見えない方法で、その人の内に働かれることが出来ると信じていますか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;約35年前、セレステ・ホバスというある悪名高い女性が、ブルックリンにあるティーン･チャレンジにやって来ました。彼女は、全米でも非常に有名な 男性たちを相手にする売春婦たちを雇っている、ニューヨークで最も名の知れた女将でした。セレステはペンテコステ派の家庭で育ち、祈りの人であった彼女の 祖母は、彼女に向かって「あなたは伝道者になる」と預言しました。しかしセレステは、教会の教えを拒絶し、売春に走ったのでした。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;セレステの売春宿が繁盛するにつれ、彼女は薬物に依存するようになりました。この間ずっと、彼女の心の中で葛藤が繰り広げられていました。毎晩彼女 はこう祈りました、「神様、どうか私にあともう一日、命を与えて下さい」と。結局セレステは逮捕されました。そのニュースは、全米で一面記事となりまし た。ある時彼女の弟は、「お前は家族にとんでもない恥をもたらした。もう救いようがない」と彼女に書き付けました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;しかしイエス様は、彼女を決して見捨てられませんでした。ある日、非常に心細く感じてどうしようもなかった時、セレステは祈り、主の御前で心を砕き ました。すぐに彼女は変えられ、その瞬間に新しく創られた者となりました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;彼女の生活を外側から眺めていた人達は、誰もが彼女に望みは無く、何も変わりようが無いと思っていました。しかし彼らは、限定されたキリストの考え しか持っていなかったのです。彼らは、この間何年にも亘って、彼女の内でずっと働いておられた聖霊を見ていなかったのです。人々がセレステを、ただのあり ふれた汚れた者としてしか見ていない中、主は彼女を伝道者として見ておられたのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;セレステは判決が下る直前にティーン･チャレンジにやって来たので、私たちは彼女のケースを引き受けました。彼女は刑務所にいる間に、神様が召され た通り、伝道者になりました。彼女は投獄中に、たくさんの魂をイエス様に導きました。釈放されてから、彼女は力強い路傍伝道師となり、やがてロングアイラ ンドで教会を開拓しました。その教会は、今日も霊に満ち溢れています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-544858498108001812?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/544858498108001812'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/544858498108001812'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/02/blog-post_22.html' title='自分の描く主の姿'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-5406350313964988828</id><published>2010-02-19T03:00:00.001+09:00</published><updated>2010-06-04T05:16:14.929+09:00</updated><title type='text'>畏怖と敬意</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;聖書は、一人ひとりの信者が養わなければならない、主の畏れがあると明確に示しています。真の神様に対する畏れは、畏怖と敬意を含 みますが、それよりももっと深いものです。ダビデはこう記しています。「神に逆らう者に罪が語りかけるのが、わたしの心の奥に聞こえる。彼の前に、神への 恐れはない。」（詩篇36：1）ダビデは、「誰かが罪におぼれるのを見るとき、私の心は、その人の内に神に対する恐れがないことを知らせてくれます。その 人は、罪に関する真実や、神様が私たちを聖さへと召されていることを認めていないのです」と言っているのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;事実、信仰に満ちた畏れは、邪悪な時代にあって、私たちに勝利を維持する力を与えてくれます。ではどうやって、この畏れを手に入れることが出来るの でしょうか。エレミヤは、神様からの御言葉によって、こう答えてくれます。「わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼 ら自身とその子孫にとって幸いとなる。わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしか ら離れることのないようにする。」（エレミヤ書32：39～40）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;これは、主からの素晴らしい約束です。神様が、私たちに聖い畏れを与えると、保証して下さっているのです。神様はこの畏れを、超自然的な閃光とし て、ただ私たちの心に入れ込まれる訳ではありません。神様は御自身の御言葉を通して、この畏れを私たちの内に入れられるのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;では、ただ聖書を読むだけで、神様の畏れが私たちの内に植えられるということでしょうか。そうではありません。それは私たちが、神様の御言葉一つひ とつに従おうという決断を、意識的に行う時に与えられます。聖書はこれを証明しています。エズラにどうやって、神様に対する畏れが与えられたかが記されて います。「エズラは主の律法を研究して実行し、イスラエルに掟と法を教えることに専念した。」（エズラ記7：10）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様に対する畏れは、旧約聖書だけの概念ではありません。それは旧約・新約両聖書を通して見ることが出来ます。旧約聖書は、「主を畏れ、悪を避け よ」（箴言3：7）と語っています。同様に、新約聖書もこう記しています、「彼らの目には神への畏れがない。」（ローマ人への手紙3：18）さらにパウロ はこう言っています、「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」（第二コリント人への手紙7：1）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-5406350313964988828?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/5406350313964988828'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/5406350313964988828'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/02/blog-post_19.html' title='畏怖と敬意'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-4326040323738334641</id><published>2010-02-18T03:00:00.001+09:00</published><updated>2010-06-04T05:15:41.879+09:00</updated><title type='text'>隠されるべきではない光</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;イエス様は私たちに、「あなたがたは世の光である」と言っています。（マタイによる福音書5：14）この御言葉は、ただミニスト リーを行うこと以上のことを、物語っています。それは教えや、説教や、トラクト配布を超えています。キリストは非常に分かり易く「あなたがたは光である」 とおっしゃっているのです。彼が言っていること、それは「あなたがたは、ただ光が反射したものではありません。光そのものなのです。そしてあなたの光の明 るさは、私との歩みの強さにかかっています」ということです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ここで主が、何を言わんとされているか、分かりますか。世界は、誰が主と共に歩む者か、判断することが出来ます。あなたの近所の方や職場の仲間は、 あなたの主との日々の交わりや、主にある信仰や、主への完全なる信頼を知らないかもしれません。しかし、彼らはあなたが放つ光を見ます。あなたが主と共に あって、命を得ているからです。そして、何もその命を隠すものが無い限り、あなたの光は暗闇で光り輝きます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」（マタイによる福音書5：14）イエス様は、「わたしはあなたを、世に見 せるために置いた。わたしがあなたを展示物としたので、人々はあなたを見るでしょう。あなたは隠されるべきでない、光なのです。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;では、誰がこの山に置かれた光なのでしょうか。そしてどこで彼らを見かけることが出来るのでしょう。彼らは大抵、スポットライトの下では見つけられ ません。彼らは自己中心的で、世から認められることのために生きている、出世を追い求める人達の間では見ることが出来ません。また彼らは、聖いふりをしな がら、陰口をたたき、不平･不満をこぼしている、自尊心の強い、教会の派閥支持者の間でも見ることが出来ません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;長年の経験を通して私は、一見信心深く見えながら、実は霊的に怠惰である多くの信者を見てきました。彼らは謙遜に見えると思い、自分達の失敗や弱さ を語ります。しかし彼らは他人の過ちを、すぐに裁きます。彼らは、誠実で、寛大で、僕の様に仕える、キリストの様な霊を持っていないのです。それどころ か、彼らが持つ“光”は実は暗闇なのです。イエス様は「もしあなたの内にある光が濁っているなら、その暗さはどれほどであろう」（マタイによる福音書 6：23）と言っています。キリストの命がないなら、他の人を照らす光はありません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためであ る。」（5：16）私たちが世に光を放つようにされているのは、神様が栄光を受けられるためです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-4326040323738334641?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/4326040323738334641'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/4326040323738334641'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/02/blog-post_18.html' title='隠されるべきではない光'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-2303837115714806201</id><published>2010-02-17T03:00:00.001+09:00</published><updated>2010-06-04T05:15:12.079+09:00</updated><title type='text'>光に秘められた命</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「イエスは再び言われた、『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』」（ヨハネによる福音書 8：12）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;イエス様は世の光です。ヨハネは、キリストの内にある命が、この光を生み出したと言っています。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であっ た。」（ヨハネによる福音書1：4）簡単に言うならば、キリストが持つ命が、世の光の源だということです。そして信じる者はすべて「命の光を得る」（ヨハ ネによる福音書8：12）のです。では、聖書が語っている“光に秘められた命”とは、一体何のことでしょう。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私たちのほとんどは、この命をキリストの内に秘められた永遠の命として理解しています。それは、信じる者すべてに永遠の命を与えることが出来る、キ リストの力です。しかしヨハネはここで、それ以上のことを語っています。彼がここで使っている“命”という言葉は、イエス様の存在のすべてを表しているの です。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;イエス様は私たちに、御自身が生きられた様に生きなさいと言われています。私たちがキリストの様に生きるためには、彼の人生が私たちにとって、自分 たちの経験から理解出来る様なものである必要がありました。私たちの人生に、結びつくようなものでなければならなかったのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;皆さんに、どうやって私がキリストにある命と結びつきを見出しているか、お教えしましょう。私はイエス様が触れられ、話され、成されたどんな小さな ことをも喜びます。イエス様の日々の行い、御言葉、御父との歩みが、私たちにキリストにある命が、どんなものであるかを明確にしてくれると信じています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;私はラザロとイエス様の友情を、思い浮かべます。長いミニストリーの後に、群集から距離を置かれたイエス様のことを、思い浮かべます。マリア、マル タ、ラザロの家で、楽しんでいるイエス様を思い浮かべます。そして子ども達を抱え、祝福するイエス様の姿を思い浮かべます。結婚の宴の席で水をワインに変 えた、成長した後も母に対して従順であったイエス様を思い浮かべます。軽蔑を受ける者、醜い者、貧しい者を気にかけ、愛を注いだイエス様を思い浮かべま す。姦淫の最中に捕まった女性や、たった二枚の銅貨しか捧げることの出来なかった、やもめに対するイエス様の憐れみを思い浮かべます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;イエス様が地上で成された、愛に満ち、僕の様に仕えられた、すべての御業を記録するには、本が足りないでしょう。これらの聖句の中で私たちは、自分 の人生とキリストの人生を結びつける方法を見つけ出します。これが“光である命”を理解する方法です。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-2303837115714806201?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/2303837115714806201'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/2303837115714806201'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/02/blog-post_17.html' title='光に秘められた命'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-9219492192934698756</id><published>2010-02-16T03:00:00.001+09:00</published><updated>2010-06-04T05:14:40.477+09:00</updated><title type='text'>約束に立つ</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様の先見的な祝福の約束があるので、私たちは戦いが始まる前に、勝利と主権を主張することが出来ます。ダビデはこう歌いました、 「主よ、王はあなたの御力を喜び祝い、御救いのゆえに喜び踊る。あなたは王の心の望みをかなえ、唇の願い求めるところを拒まれませんでした。」（詩篇 21：1～2）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;あなたは、「何故ダビデは喜ぶことが出来たのだろうか。彼は体験したことのないような、厳しい攻撃に直面していたのに。傷つけられ、殺されるかもし れないという時に、なぜ彼は喜ぶことが出来たのだろうか」と不思議に思われるかも知れません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ダビデはこう答えています。「（あなたは）彼を迎えて豊かな祝福を与え、黄金の冠をその頭におかれた。」（21：3）ここでダビデが言っていること は、人生の転換を示すものです。「私は、私を必死になって滅ぼそうとしている、強力な敵に直面しています。しかし、私の心には平安があります。何故かっ て？それは、主がすでに私の苦しみを、御存知でいて下さるからです。そして神様は、私に神様の愛の保証を降り注いで下さったのです。敵は私をつまずかせ、 倒れさせ、場合によっては完全に私の望みが絶たれたように見えるかも知れません。しかし神様は、私は立ち上がり、神様の力を受けて、戦いに勝つと、教えて 下さいました。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ダビデは次の言葉を、戦いに行く直前に発しました。「（あなたは）彼を迎えて豊かな祝福を与え、黄金の冠をその頭におかれた。」（詩篇21：3）こ こでダビデが言っている黄金の冠とは、勝利と主権の象徴です。ダビデは、「私は神様の約束に立って、戦いに行きます。神様は、私が勝利の冠をかぶって戦い を後にすると、約束して下さったのです」と言ったのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ここに、神様の先見的な約束の教理を要約することが出来ます。神様は、私たちの困難のすべて―私たちの罪、肉、悪魔との戦いのすべて―をすでに御存 知であり、その憐れみと恵み故に、私たちの負債を、その期日前に支払って下さったのです。私たちの勝利は、すでに確約されているのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様の先見的な約束は、特にイエス様を愛し、罪に驚く人達に対して適用されます。主は、もし私たちが一時的に倒れてしまったとしても、イエス様がす でに負債を支払って下さっているので、戦いから高く頭を上げて起き上がってくることが出来ると、保証して下さいます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-9219492192934698756?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/9219492192934698756'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/9219492192934698756'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/02/blog-post_16.html' title='約束に立つ'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-5357731895326295781</id><published>2010-02-15T03:00:00.001+09:00</published><updated>2010-06-04T05:14:10.007+09:00</updated><title type='text'>愛の備え</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「（あなたは）彼を迎えて豊かな祝福を与え、黄金の冠をその頭におかれた。」&lt;/span&gt;&lt;cite&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;（詩篇21：3）&lt;/span&gt;&lt;/cite&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;初見で は、このダビデの詩篇は、少し不思議な感じがします。ここで使われている“与える”という言葉は、英語の聖書で“prevent”すなわち“防止する”と いう訳がなされています。それは普通、何かを妨げる時に使うもので、祝福とは共に使いません。直訳するならば、「主はダビデが祝福を受けないようにされ た」となります。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;しかし、聖書の“prevent”は全く異なる意味を示しています。それは、“予期する、先に立つ、あらかじめ見越し実現する、期日前に支払う”と いう意味があります。さらに、ほぼすべての事例において、それは何か好ましいことを示しています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;イザヤは私たちに、この様な喜びを垣間見せてくれます。それは神様が、あらかじめ必要を予期し、それを実現させて下さることから来ます。「彼らが呼 びかけるより先に、わたしは答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける。」&lt;/span&gt;&lt;cite&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;（イザヤ書65：24）&lt;/span&gt;&lt;/cite&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;この聖句は、私たちに対する素晴らしい神様の愛を描いてくれています。明らかに、神様は私たちを祝福したいと待ち焦がれていらっしゃいます。神様は 私たちの人生を、主の愛と恩恵で満たす準備が出来ているので、私たちがそれらを求めるまで待つことが出来ないでいらっしゃるのです。ですから、神様は介入 して、私たちに憐れみ、恵み、愛の御業を成して下さるのです。そしてそれは、神様にとって最上の喜びとなるのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;これこそが、ダビデが詩篇21篇で語っていたことです。「主よ、あなたは私が、あなたの愛と恵みを求める前に、それらを注いで下さいます。そして、 私が求める想像さえつかない程のものを、与えて下さいます。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;ダビデは霊の領域において、神様が彼に対して行った、素晴らしい御業を思い出して言っているのです。それは、ダビデが敵から勝利を得たこと、祈りに 答えられたこと、力に打ち勝ったこと、言葉に言い表せない程の喜びを感じたこと等です。そして神様はこれらすべてのことを、ダビデが祈りに入り、心の重荷 を下ろしたり、願いを示したりする前に成されました。ある時ダビデは、神様の前に心を注ぎ出しましたが、神様がすでに敵を打ち負かすための備えをして下 さっていたことに気付きました。ダビデの勝利は、彼が戦場に近づくそのずっと前から、すでに確約されていたのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-5357731895326295781?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/5357731895326295781'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/5357731895326295781'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/02/blog-post_15.html' title='愛の備え'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-6345797184412930965</id><published>2010-02-13T02:47:00.001+09:00</published><updated>2010-02-13T02:47:47.824+09:00</updated><title type='text'></title><content type='html'>&lt;td id="gap"&gt;&lt;/td&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;div class="almost_half_cell" style=""&gt;&lt;div dir="ltr"&gt;&lt;div id="tts_button" title="Listen to this translation" style="margin: 2px 6px 0pt 0pt; float: left; display: none;"&gt;&lt;object type="application/x-shockwave-flash" data="http://www.gstatic.com/translate/sound_player.swf" id="tts_object" width="18" height="18"&gt;&lt;param value="http://www.gstatic.com/translate/sound_player.swf" name="movie"&gt;&lt;param value="sound_name=" name="flashvars"&gt;&lt;param value="transparent" name="wmode"&gt;&lt;param value="always" name="allowScriptAccess"&gt;&lt;/object&gt;&lt;/div&gt;&lt;span id="result_box" class="short_text"&gt;&lt;span style="background-color: rgb(255, 255, 255);" title="All future post are being moved to"&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="font-size: large;"&gt;将来のすべてのポストに移されている: &lt;/span&gt;&lt;a href="http://www.worldchallenge.org/ja/view/devotions"&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="font-size: large;"&gt;http://www.worldchallenge.org/ja/view/devotions&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/td&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-6345797184412930965?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6345797184412930965'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/6345797184412930965'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/02/httpwww.html' title=''/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-4102057628011191097</id><published>2010-02-12T03:00:00.001+09:00</published><updated>2010-06-04T05:13:16.069+09:00</updated><title type='text'>私たちの焦点</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="font-family:arial, serif;"&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="font-family:arial, serif;"&gt;&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;パウロの時代のクリスチャン達は、エルサレム崩壊が近づくのを感じるにつれ、もっと預言された出来事を知りたいと願うようになりま した。彼らは、大勢の捕虜を奴隷とする、冷酷な侵略者達に関するうわさに恐れを抱いていました。信者達はそれを聞いて、危険な時が近づいているのだと感じ る様になりました。そこで彼らはパウロに、何が起ころうとしているのか、もっと教えて欲しいと願い出ました、「どうやって時を読めば良いのか、私たちに手 紙を書いて教えて欲しい」と。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;パウロは、次の様な確信の言葉をもって返答しました。「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜にやって 来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身がよく知っているからです。」（第一テサロニケ人への手紙5：1～2）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;パウロは、キリストの再臨の際、何が起こるかを彼らに伝えました。「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響く と、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で 主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた 言葉によって励まし合いなさい。」（14：16～18）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;パウロの奨励の言葉は、彼らを励ますためのものでした。パウロが根本的に語っているのは、「これから地に起こることについて、あなた方が恐れること は何一つありません。恐ろしい前兆や惨事に関して、過度に心配する必要もありません。あなた方は、これが何を意味するか、よく分かっているはずです。それ は主イエス様が、彼の民を引き上げるために、再び来られることを示しているのです」ということです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;歴史はどこかに向かっています。私たちは、矢のような速さで展開していく今日の出来事が、私たちを神様の永遠の目的に向かって運んでくれていると、 確信することが出来ます。世界は当てなくさ迷っている訳ではありません。どれ程人間が邪悪で不信仰になっても、主はこの地を見放されません。むしろ、神様 はペースを速められました。そして今私たちが目撃しているのは、ある神様の出来事に向かって素早く移り変わる時代の動向です。それはキリストが永遠に統べ 治める、新しい天と地の創造です。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;キリストに従う私たちの焦点は、日々のニュースではありません。戦争や、戦争のうわさや、核事故や、地上で起こっているその他のどんな出来事にも、 気を留めるべきではありません。イエス様が「その日が来たら、目を上げなさい」（ルカによる福音書21：28参照）と言われた時、彼は私たちが焦点をどこ に置くべきかを教えて下さったのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;/span&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/695811758562683083-4102057628011191097?l=davidwilkersoninjapanese.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/4102057628011191097'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/695811758562683083/posts/default/4102057628011191097'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://davidwilkersoninjapanese.blogspot.com/2010/02/blog-post_12.html' title='私たちの焦点'/><author><name>David Wilkerson</name><uri>http://www.blogger.com/profile/14435933783701100817</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='21' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_O2HMvVEi2z8/R_0ViurxxjI/AAAAAAAAAA4/raExWrNQD8s/S220/DWpicblog.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-695811758562683083.post-2672494659185674565</id><published>2010-02-11T03:00:00.001+09:00</published><updated>2010-06-04T05:12:35.354+09:00</updated><title type='text'>私たちの怪物をも従えられる神様</title><content type='html'>&lt;div class="content"&gt;         &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;神様はヨブに言われました。「見よ、ベヘモットを。お前を造ったわたしはこの獣をも造った。」&lt;/span&gt;&lt;cite&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;（ヨブ記40：15）&lt;/span&gt;&lt;/cite&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「お 前はレビヤタンを鉤にかけて引き上げ、その舌を縄で捕らえて、屈服させることができるか。」&lt;/span&gt;&lt;cite&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;（40：25）&lt;/span&gt;&lt;/cite&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;なぜ神様は、ヨブに現れられて最初に、これら二つの大きな怪物について考えさせられたのでしょうか。なぜ神様は、ヨブにカバとワニの顔を調べさせら れたのでしょうか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;まず、主はこの問題を僕に突き付けられました。「ヨブよ、あなたの後ろにカバがいるが、どうする。自分の力でそのカバを、押し倒すことが出来るか。 無理だと言うのか。猫なで声で話しかけてみてはどうだ。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「では、恐ろしいワニはどうだ。このワニをどうする。この生き物は、氷の様な心を持っていて、情けという観念が全くないのだ。」これは、単なる野生 界のお話ではありませんでした。むしろ、神様はこれらの怪物の生涯について、ヨブに教えようとされたのです。神様はその僕に、この二匹の素晴らしく、どう 猛で、強靭な生き物は、ヨブの人生に襲い掛かる巨大な問題を表しているのだと示されたのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#333333;"&gt;「カバのことを考えてみなさい
